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【モモ】時間泥棒の子供たちは何人なのか?【大人の読書感想文】

*この記事はミヒャエルエンデ作の「モモ」の感想文なのでネタバレがありますので注意



子供の頃に読んだ本って妙に記憶に残りますよね。

夏休みに読んだ読書の情景を今でも覚えています。
雲一つない青空と麦茶、すべての電気を消した居間で畳に寝っ転びながら本を読む。
イグサの香りと蝉の鳴き声。
なんて素敵なんでしょう!!

とりわけ素敵なのは、なんのアクシデントも危険な冒険もない普通の日常に居ながら、血沸き肉踊る冒険に出かけられること。

ここまでわかっておきながら大人になると本の一冊も読めなくなる不思議。


今回はそんな不思議に打ち勝つべく構想された記事です。


タンナは児童文学を愛している🫏
子供向けの文体でありながら、大量の教訓を含んでいて大人になればなるほどその魅力に取りつかれる。

一応今は夏休みの時期でもあるので、読書感想文を書いていたころを思い出しつつ、児童文学を見た大人の感想文を書く。
きっと子供の頃とは違う感想文が書けるはず。


いちおう大きな問いとして時間泥棒の子供たちは何人なのか?という問いに対して回答を模索していますのでよかったら気にしてみてください。

私の蛇行し急発進と後退を続けた道のりがありますから。


三人の人間に自分を見る

児童文学モモの概要

「モモ」とはこの物語のタイトルであり主人公の名前のこと。
果物の桃ではなく、普通に「モモ」。

不思議な名前の通り、主人公は不思議ちゃんの頂点に君臨する女の子だ。
親も居なければ身内もいない、人の話を聞ける特技があり、それのおかげで住み着いた円形劇場のある街の住人から非常に好かれている。

それこそ完全なる孤児なのにも関わらず普通に暮らしていけることを考えると、その好意の規模が分かる。

そんなモモにはたくさん友達が居る。
その中でも今回取り上げるのは「ベッポ」と「ジジ」。

ベッポは気狂い扱いされている年寄り。
悲惨な生活だと思われているが、その実は深い思考と洞察力をもっている真実の賢者。
モモにお話を聞いてもらっている。

ジジはお調子者の若者で、夢はあれど金も仕事もないという共感を呼びまくる人物。
ただ、その愛情は本物でモモやジジに対する愛は他の誰にも負けない素晴らしい若者。
モモからお話を求められている。


上記の三人が主な登場人物。

物語の序盤はモモが中心の物語。
それが終わるといよいよこの作品を不朽の名作たらしめる「VS時間泥棒」という章が始まる。
モモとモモを取り囲む哀れで醜い大人たちの戦い!

ここから先の物語は全部面白いので是非読んでください。
kindleもありますから。

さて、ここからネタバレアリの感想です。
未読の方はご理解!





モモという化け物

私は大人になってからこの物語を読んだ。
児童文学をたしなむにはいささか遅すぎた感があるが、それでも非常にいい読書体験ができた。

作者の経験してきたであろう悩みや教訓を大量に吸収出来て、善い読後感を得ることができた。


それから数年たった今、またこの本を読んだ。
狙いはもちろん善い読後感を再び味わうこと。

しかし、読み終えてもあの読後感はなかった。
むしろ、何か恐ろしいことに気が付いてしまったという恐怖の方が勝っていた。

あの時の私と今の私とで何が違うのだろう?


大きな違いと言えば主人公に対する思い入れが消えた。
これに尽きる。



りめんばー時間泥棒

当時の私はまだ若者らしい全能感に満ち溢れていた。
何かをやりたかったし伝えたい主張もあった。


今の私はやりたいことはなく、伝えたい主張はあるけど理解されないだろうという決めつけのもと主張を抑えている。
ずいぶんと「日本人らしい」大人になったもんだ。


それだけ経験を重ねてきたという自負があるから悲壮感はなかったが、今回の読書で悲壮感と対峙せざるを得なくなった。

私はいま、モモが恐ろしい。
身内はおろか両親もいないモモの持つ魅了にも似た傾聴の姿勢が。

傾聴に関して少し学んだ人間であればに上記の一文の持つ矛盾が分かるかもしれない。


人間は経験していない物を他人に与えることができない。
愛を知らない人間は愛を語れないように。
これは真理であり恐らく絶対の法則だ。

なのにもかかわらずモモは周囲の話を聞ける。
その効果は近隣住民を虜にするほど。

つまり、モモは、傾聴を受けた経験をしていないにも関わらずそれを他者に与えている。
殆ど神の領域だ。

なのにも関わらずどうして過去の私はモモに感情移入していたんだろう?
今は、時間泥棒の方が私にとっては感情移入できる。

かつての悪役の苦労に共感しているという事実が、私を若者から大人に加齢させた。それが悲しくて仕方がない。



時間泥棒に自分を見出す

時間泥棒の存在はどうにも意味不明だ。

人間によく似ているが人間ではなく、自分の時間を持ってないから人間から時間を取っているとのこと。

どこから生まれたのか、何時から時間泥棒なのか。
何故自分の時間を持っていないのか、取った時間を何に使っているのか

読んでいるといろんな疑問が沸いてくる。
それはもう大量に。
ただ、そのどれもが懐かしい気がした。



懐かしい謎と大人

懐かしい謎とは?
それはまさしく、かつて自分が抱いていた大人に対する疑問だった。

どこで生まれて、何時からその仕事をしていて。
どうしてそんなに働いているのか、働いて得たお金を何に使っているのか?

幼さゆえの残酷な疑問。
大人になった今その疑問には何一つ答えられていない。


答えられていない大人になった私だからなのかもしれないけれど、どうにも時間泥棒が悪者だとは私は思えない。
時間泥棒は生きるために必死になっている。
今の私と同じだ。

生き残るために、いろんな技術を使っている。
その中でも私が印象に残っているのは床屋さんに対するセールストークだ。
素晴らしい。
少なくとも嘘をついていないところに共感が持てる。

事実を伝えて、置かれた状況に対して出来る対処法を伝えた。
インターネットに巣くう情報商材屋と比べれば、非常に紳士的だと思う。

大人になって読み返してみると、時間泥棒のみじめでかっこいい姿ばかり想像してしまう。


時間泥棒の子供は何人なのか?

序盤にお伝えして、この記事のタイトルにもなっている「時間泥棒の子供は何人なのか」という問い。


前置きを省いて伝えると「時間泥棒の子供は大人」。

肌の色は制服で、恐ろしいほど退屈な会議をして、レトリックを駆使して誰かの資源を取る。
社会性を身に着けてはいるが、その本性は獣に近い。
つまり純度100%の利己主義。


ただ、恐らく大人であればすべて当てはまることだと思う。
それが社会で生きるってことだし。

でもそんなニヒリズムに酔った感想を書くほど私は思考停止ができない。


どうして時間泥棒の子供は大人であるという結論に至ったのかについて書こうと思う。

時間泥棒の子供たち?

この物語に登場する時間泥棒は非常に現代的だと感じた。
セールストークの箇所は非常に勉強になったし、数字の魔力について考えさせられる場面だ。
しかも奪った時間を銀行に預けておくという利子が利子を呼ぶ「複利」という私ですら二十を超えてから知った概念を児童文学に含ませるという攻めた設定まである。


昔からしたら「そんなことしたら市民が暴動を起こすだろ😅」みたいな状況も今となってはごく当たり前の日常。
そんな状況で生まれた私たちは、当時の人間たちからしたら「時間泥棒の子供たち」と呼ばれても不思議ではないと思う。

では、時間泥棒のお相手は誰なんだ?

これは複数ある。
お相手はモモでありベッポでありジジ。

モモのような優しくて目立たない人の話を聞ける人格の人。
ベッポのような深い思考と物事を見抜く視点をもつ人格の人。
ジジのような夢と希望にあふれ豊かな想像力を持つ人格の人。

現代でもこういう人はたくさんいると思う。
しかし、そんな人たちでも時間泥棒のようにあくせく働いているという現実。

私たちがモモやその友人の子供たちではない理由がこれだ。
モモたちのような力を持ってはいるが、それは時間泥棒の仕事に使われるという宿命を持っている。

時間泥棒風のモモは存在しえないがモモ風の時間泥棒はたくさんいる。

何をどうしたって時間泥棒であることからは逃れられない。
私たちが誰かの子供であることから逃げられないように。



終わり

ただ、一つ残念なのが、私たちを時間泥棒という職業から解放してくれる人間が恐らくないということだ。
何故ならこの世界にはモモがいないから。

その代わり、誰もが時間泥棒でありながらモモでもジジでもベッポでもあり得る。

そんな軸のブレた世界だから、歩む道はまっすぐにならず蛇行し急発進と後退を繰り返す。
そんな体たらくだから醜い道が出来上がって、そんな状態だからふと後ろを振り返った時に誇らしい気持ちが生まれるのかもしれない。

そんなことを想いながら今回の読書感想文を終わろうと思います。
改めて、モモとその友人たちと時間泥棒に恥じないような生き方をしたい。
そのための時間ならたくさんある。


何せ私たちは時間泥棒ですから。


#読書感想文

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