親ガチャが当たりでも詰んでしまう人

先日、こんなツイートを見つけた。


子どもは親から無条件の愛情を注がれることで、等身大の自分を肯定できるようになり、正常な自己愛が芽生えるという。

一方、親からの期待に応えることでしか愛されてこなかった子どもは、見捨てられる不安や恐怖を抱えた「とりえのない自分」と親の期待に応えようとする「思い描く自分」が存在する状態になり、等身大の自分の獲得に失敗するそうだ。


私の親は、大当たりではないものの、大ハズレとまではいえないと思う。

母は過干渉なところがあり、大学受験ではそこそこの大学に合格したにもかかわらず進学を反対され、結局その大学は蹴って再受験をする羽目になったし、就職活動でも散々口出ししてきた。

とはいえ、地方のそこまで裕福でもない家庭から都内の私立大学に進学させてもらってはいるし、退職してニートになった今では母も何も言わなくなった。


ところで私には、ADHDと自閉症スペクトラム障害がある。

親ガチャは当たりでも、能力ガチャで発達障害という大ハズレを引いてしまったのだ。


発達障害の人はいくら親に愛されようと、社会に出ると「等身大の自分」はいともたやすく崩壊する。



発達障害の人は人間関係に支障をきたすことが非常に多い。つまり、他者に受け入れてもらえない状態を普通の人よりずっと多く経験することになる。

人間関係でつまずき続けると、自分が「等身大の自分」でいることが許されない人間であることに嫌でも気づいてしまうのだ。


社会において等身大の自分を獲得する一番の機会が、友人関係である。

学生時代、どのクラスにもいわゆる"陰キャラ"と呼ばれる人たちがいただろう。
見た目がいまいちだったり暗かったり、傍から見れば残念な人のかもしれないが、そういう人はそういう人同士でそれなりに楽しく過ごしているように見えた。

クラスを見回しても、本当に友達がいない人はあまり見かけなかったように思う。見た目が冴えなくても暗い性格でも、話さえ合えば友達はできるものだ。

しかし私には友達ができなかった。高校時代も大学時代も、同年代が集まると必ずと言っていいほど浮いてしまった。「等身大の自分」のまま過ごしていたら、誰にも相手にされなかったのだ。


友人関係は恋愛や仕事と違って、相手に好かれようと気を使うものではない。しかし実際は、「一緒にいて楽しい」とお互いに思えなければ友人関係は成立しない。

私は相手を楽しませるコミュニケーションが取れなかったのか、それ以前に陰気な顔つきからとっつきにくいと思われたのか、はっきりとした原因は分からないが、私といてもあまり楽しくない(楽しくなさそう)と思われたのは間違いないだろう。

友達はあくまでも他人である。血のつながった親と違って、何があっても無償の愛で受け入れてくれる人ではない。

発達障害の人は、無神経な発言をしてしまったり、約束を守れなかったりと、人に迷惑をかけてしまうことが多いが、あまりにもそれが続くと友達も離れていくかもしれない。

親の愛情は無償でも、社会ではすべてにおいて対価が求められるのだ。


世の中の大多数の人は、特別な努力をしなくても「等身大の自分」のままで多くの人に受け入れられるために、正常な自己愛を育むことができるのだろう。




発達障害の人が正常な自己愛を持てないのは「等身大の自分」を受け入れられないからではない。

生まれ持った能力が低すぎるがために、「等身大の自分」でいることを社会が受け入れてはくれないからだ。



「等身大の自分」にも、普通の人ならこれくらいはできるでしょ、というハードルが存在する。

それは友人関係だけではなく、仕事を通じても痛感させられることになるだろう。発達障害の人は、誰にでもできる簡単な仕事なはずの日雇いのアルバイトですら務まらないこともザラである。


社会に貢献できる能力を持たない人は、「使えない人」として社会から疎外されていく。

人は親の愛情だけで生きていくことはできないのだ。


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