「エヴァが完結する頃、俺は隣にいる?」が何年経っても、ほろ苦い。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見てきた。考察なんて、とてもじゃないけれど出来ない。ただただ受け取った作品を、クリームソーダに浮かぶバニラとソーダが混じりあった上澄みみたいな余韻を味わっていたい。

エンドロールを眺めながら、「エヴァンゲリオン」が持つ私の心象風景を浮かんでいくのを感じていた。


1998年、春。
私はプロテスタント系のキリスト教中学に入学した。

家系も両親もクリスチャンではなかったけれど、正門の石碑に刻まれた校訓「Ask, and it will be given to you 」(マタイによる福音書7章7節)や、礼拝堂のステンドグラスから漏れる光、ハンドベルの音色は、12歳の私をやさしく迎えてくれた。

私はだんだんと聖書の言葉に惹かれ、牧師の先生が顧問する聖書部に入部した。中学生にとって「部活」というのは憧れの一つ。私も緊張より期待を胸に、心待ちにしていた初日を迎えた。

でもその日、そこが実質「エヴァンゲリオン同好会」、いわゆる漫研だと知る。

純粋に聖書を動機にしている部員なんていなかった。私は、なんだか騙されたような(別に誰も騙してないんだけど)、台無しにされたような気に勝手になり、その奇妙でいびつなカタカナから成る「エヴァンゲリオン」という響きに嫌悪した。

テニス部や合唱部とは違う、いかにも…といった雰囲気の先輩ばかりだったことも、狭い自己世界で生きる中学一年の私にとって「エヴァンゲリオン」にマイナス印象を抱かせるに充分だった。

入部してしまった以上、翌年まで変更できない。最低限の活動にだけ顔を出した。誰かが「見て見て~」と机に広げる漫画やグッズ。直線が目立つ薄暗そうな絵に、正直「気持ち悪い」とも感じていた。

ときおり、同級生が行儀悪く摘み食いする子どものように先生の話に反応する。いつもは話なんて聞かず、俯いたまま黙々とノートに自作漫画を描いてるくせに。

エヴァ話をしながら聖書に出てくるワードを発する部員たち。苦痛だった。使徒、神、アダム、イブ、知恵の実、方舟…。うるさいな、黙っててよ。


2007年、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』。

大学生になった私は、同じ大学の人と付き合っていた。彼は時間や距離を飛び越える人だった。とっくに終電を過ぎた真夜中でも、会おうとなればいつでもバイクで来てくれた。深夜に突然出かけるのだってそうだけど、私の経験したことのないようなことや私の持っていた常識を、ナチュラルに「え?いいじゃない」と切り拓いていった。

夜中、私の家までやってきて一緒にドン・キホーテへ行く。駄菓子や飲み物を買い込み、朝までゲームキューブやプレステをする。朝方に力尽きるように眠って、昼頃に起きて私の講義に合わせてバイクにまたがる。

練馬区の平和台、1K学生マンション。2人乗りで、環八通りへ出る。国道254号線を進み、5号線の標識を見つける。あぁ、ここを進めば私の実家のあそこにつながるのかと、自分の生きる世界が少しだけ広がったような気がした。

サンシャイン池袋を背にして都会の景色と風の中、飯田橋まで走る。帰りもバイクを停めた川沿いで合流する。帰宅ラッシュの道路から、ライトアップされた東京ドームや観覧車を彼の背中越しに見るのが好きだった。

彼は生まれも育ちも東京の下町で、遊びや趣味に詳しかった。上京組の私には、眩しく見えることがたくさんあった。

彼が、待ち合わせ時間までの時間潰しにスロット店にいたことがあった。私がギャンブルなんて…と話していたら、どういう部分の何がどう面白いのかをプレゼンされてしまった。そんなに言うなら一度体験してから否定してやろうと思ったのに、彼と一緒にやってみたら楽しくて困った。

そうするうちに、数年ぶりにエヴァンゲリオンと再会した。当時、エヴァはパチンコでやスロットで流行していた。

なんとも言えない反抗心を思い出す。でも考えてみれば、私はエヴァがどんな物なのか全く知らなかった。ならば、そろそろ一度見て見ようじゃないか。知らないのに毛嫌いするのは嫌だから、一度ちゃんと見て「ほらね」という答えを持っておこうと思ったのだ。

負けた。

アニメを見慣れていない自分が、金曜ロードショーをじっくり見るのさえ苦手な自分が、全話を2日で見終えた。面白くて止まらなかった。

嫌悪感を実証するはずが、完敗した。

アニメと旧劇場版を何度も見返し、iモードの小さな液晶画面で他人の感想や考察ブログを探した。単行本をそろえ、漫画が連載されていた『ヤングエース』を毎月買うようになった。中でも可愛くて頭がよくて孤独なアスカに心奪われ、彼女の幸せを願い、ポスターまで部屋に飾るという、なんたる大敗北っぷりよ。

彼は知り合ったころから、私の凝り性なところ、好きなものにどっぷりハマるところを好きだと言ってくれていた。

正直、彼にもっと好いて欲しいという承認欲求もあった。新たな知識やグッズを仕入れて、彼にじゃじゃーんと披露するときの、彼が呆れたように、でも好きだよと言うように笑う顔を見るのが、たまらなく嬉しくて好きだったから。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』は、一緒に観に行った。もちろん、バイクで。帰り道にやっぱりドン・キホーテに寄って、LadyBordenの自販機でアイスを買った。屋上駐輪場の夜空の下、バイクの上。さっき観た映画について尋ねてくれる彼に、あーでもないこーでもないと、持論を展開しながら食べるアイスは溶けがちで甘かった。

2009年 、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』。

彼はそばにいなかった。

先に卒業する彼は、資格取得に忙しくなった。依存気味の私と勉強したい彼。一人暮らしと実家住み。大学特有の長い夏休み、試験前の追い込みの夏。一緒に暮らしたいと言う私と、「まだ早い」と言う彼。就職した私と就職せず勉強中の彼…。

いま考えれば、どれもこれも彼の方が正しくて私が浅かった。ありがちな、学生と社会人になる課程のギャップやすれ違いもあったと思う。

私は、慰めてくれる上っ面の楽しさを見つけようとした。いざ一人で行動してみると、私の大学生活は彼一色だったこと、彼のいない時間を生きてこなかったことを痛感した。

私たちは恋人同士ではなくなった。その時は認められなかったけれど、彼は「元カレ」になったのだ。

どちらかがはっきりと別れの言葉を言ったことはない。でも365日寝る前に電話しない日なんてなかった4年間だったのに、連絡を取り合わない日が1日、2日、3日…と増えていった。

それでも私はずるいから、完全には離れられなかった。私の全てを知っていて欲しくて、どうでもいいようなことも含めて100を伝えてきた彼に、他に食事に出かける男性ができたことは打ち明けられなかった。

久しぶりの電話の「最近どうしてる?」には、「仕事が忙しいよ」と返した。でも、きっと分かっていたと思う。

曖昧だった。好きなのか何なのか、必要とされているのかされないのか。でも彼から離れることも、彼だけを思い続けるのもできない。


8つ上の男性と頻繁に連絡を取り合うになっていった。初めて2人だけで会ったのは、20時頃のジョナサン。その時に案内された4人用のテーブル席の配置、相手のTシャツを今でも覚えているのは、元カレじゃない人と2人で会うことが新鮮だったから。

何度か2人で会ううちに、私が元カレ(当時はそんな呼称すら出来なかった)のことでもどかしい想いをしていることを知り、時に励ましの言葉をくれた。

ある日、彼はそれでもいいから俺と付き合ってと言った。付き合うっていうのは変だから、気持ちが傾いたときに彼氏だと思ってくれたらそれでいい、というようなことまで言った。そんなことはできないと思っていたはずなのに、私は甘えた。彼はきっといろんなことを耐えていたけれど、やっぱり私は決着をつけられなかった。

アニメやマンガが好きな人だった。ジャンルを問わず、少年・青年漫画から少女漫画まで。当時流行っていた『君に届け』に女子のようにキュンキュンしたり、主人公とクラスメイトの友情に目を細めたりするような人だった。お気に入りだという『交響詩篇 エウレカセブン』のアニメを見返した夜は、登場人物と私を重ねて感極まったといい「大事にするからね!」と熱く鬱陶しいメールを送ってくる人だった。嬉しくないわけじゃなかったけれど。

私に対してだけでなく、周囲の誰にでも情が深くて、皆に好かれている人だった。元カレが少人数でじっくり語り合うようにお酒を飲むのが好きなタイプだとしたら、彼は大人数で冗談を言いながら盛り上がるお酒の飲み方をする人だった。みんなの輪の中にいるムードメーカー。初対面の人にもどんどん声をかけ懐に入っていけるのは、彼がこれまで感動してきたアニメや漫画のエッセンスを、心に全部きゅっと詰め込んでいるからのように見えた。

私はそんな彼に甘えて甘やかされながら、一緒にいるときだけは元カレのことを考えないようにして、都合の悪いことからは都合よく目を背け、1年2年と過ごした。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』も2人で観た。

客電がついても私は呆然としていた。どこから感想と気持ちを整理しようかと着地点を探していたらこう聞こえた。

「エヴァが完結する頃、俺は隣にいる?」

不意打ちのようだった。別に問い詰めるように聞かれたわけじゃない。いつも通りのふざけ合いのテンション。映画の余韻を処理できない人がとりあえず発したような、カップルのじゃれ合いのような。

だけど私は、12年が経とうとする今も、そのときのことが忘れられない。エヴァ新劇場版の一つとして刻み込まれてしまっている。

映画館を出て、車に乗っていつもの道路を進み出しても、さっきの返答は大丈夫だったのかなと気になった。私はどんな声をしていたのか、どう聞こえたのか。何かを弁明したくなった。信号機の赤は、いつもより長く感じられた。

あのときの、これっぽちも感情の伴っていない返答。そんな言葉を、私は平気で吐けるんだと思った。たった今、映画を一緒に鑑賞し終えたばかりの相手に。

「当り前じゃない。いるよ」

最低だな、と思った。

2021年、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』。

平日夕方、テレワーク。コアタイム勤務を終え、劇場の後ろから3列目、中央の席に一人で急いだ。

序、破、Q。それらを観たときにいた人は、今の私の生活に一人もいない。

あの言葉はやっぱり大嘘だった。別れを告げた数日後、「もう顔を見るのもつらいから何も連絡しないで」と書かれた手紙と、渡していた合鍵が郵便受けに入れられていた。完結どころか、Qは別の男と見に行った。

はじめてのルーブルはなんてことはなかったわ
私だけのモナリザ もうとっくに出会ってたから
(宇多田ヒカル「One Last Kiss 」より)


思春期の苛立ちや、どこまでも続いていく気がした青春、若く身勝手でどうしようもない恋愛、傷付けた人。

エンドロールが最後の一行に辿り着いて、宇多田ヒカルのBeautiful Worldが鳴りやんだ。

思春期と青春のほろ苦さが、思い出へと塗り替えられた気がした。そしてまた、新しく生きていけるようにと背中を押されて、私は席を立った。






ところで登場人物もキービジュアルの制服姿も笑顔も、ファンにはご褒美みたいだったよね!



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