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今年気になった本をいくつかメモとして残しておく。 「愛という名の支配」は自分にとって救いになった本だった。「女性らしさ」とは生得的なものでなく作られ利用されてきたものだってことが事細かに書いてあって納得と同時に解放される。 これと同時期に「自分のことを女だと思えなかった人のためのZINE」も読んでわかったきたことだが、どうやら今まで「女性に生まれるのでなく女性になるのだ」的な圧力を内面化し、「女性になる」ためには身体が人と違うしそのための努力もしてないから底辺なんだって自己

    • 境界で揺れている

      ある彫刻を見て、ふと涙が流れたことがある。 左肩が山のように盛り上がり、わずかに首を傾げている人物の半身像だ。ぼんやりとした曖昧な表情を浮かべ、遠くへ視線を投げかけている。目線の高さはほぼ同じ位置にあったが、瞳がそれぞれ少しだけ外側に向いていて、目を合わせることができない。ゆっくり歩きながらその彫像の視線の先を捉えようとしていたら、その人がこちらの内面のとても深いところに入り込んできたような感触があった。糸が切れるようにして感情が溢れ出た。 あれはどのような感情だったのか。時

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        先日、夜中に目が覚めて、薄明るい天井をぼんやりと眺めていると、『菜食主義者』(ハン・ガン )のヨンへのことが不意に浮かび、読んでいるときにはわからなかった彼女のことが突然真に迫ってきた。 ヨンへはある恐ろしい夢を見てから、肉を食べることを拒否し始め、自分はいずれ植物になるという妄想にとりつかれていく女性だ。『菜食主義者』は彼女の周囲の人々の視点で描かれており、ヨンへがこれまで抱えてきた苦悩や夢の内容は断片的にしか示されていない。ヨンへの真意を探りながら近づき、寄り添おうとし、

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          イトイ圭の『花と頬』を読んだら、しばらく前に読んだ柳美里の『フルハウス』のことを書きたくなった。 『フルハウス』は、とてもおぞましいことがうずまいている話だが、明確な破綻までは起こらない。起こらないから、登場人物は何もないかのように押し隠そうとする。それらはどこか喜劇じみているところがある。 これは一解釈でしかないとは思うが、主人公がかつての自分に似た幼いこどもに性的な欲求と羨望のような感情を抱くのは、過去に受けた性被害の傷が自身の内にまだ生々しく残っているからだ。過去に

          2021.4

          4.9 展示を見ている。役者たちが演技をしている中を歩いていくような展示で、建物の中心を大きな川が流れている。階段の目の前にかかる橋に立ち見下ろしていると、正座をして浮かんだ女がふわふわとわたしを追い越して姿勢を変えずに川の上流へ飛んでいく。長い髪の先が明るい緑色で、蛇のような微笑みをこちらに向けてくれる。美しさに見惚れる。 建物の中心が空洞で川が見下ろせるようになっており、展示室は階段から右手と左手に分かれている。右手へ進むと、たくさんの鎧が壁の両側に立ち襲いかかってこ

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          『散歩する惑星』を見た。 シュールなブラックコメディとして描かれているらしいが、何か重い比喩が散りばめられているように感じ、あまり笑えずむしろ怖かった。 度を越していたのはやはり例の少女が飛び降りる儀式の流れ。『ミッドサマー』で登場する儀式とよく似ていて、同じルーツのものらしい。 とはいえ飛び降りたのは、『ミッドサマー』では老人で、この映画では少女だ。老いた人々が下の世代のために自ら死を選ぶというのは理屈としてはわかりやすい。しかしあの少女は、健康かつ利口で、両親も健在

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          何かを失くした。おそらく、作品が入ったスーツケース。どこで手放したかすら記憶になく、いちばん最後に訪れた図書館に行き彷徨う。平台には学生や若い作家の平面作品が積まれている。凧、カイトのようなものが描かれた絵画に惹かれる。エリーという作家。 まもなく閉館である旨のアナウンスが流れる。急がなければならないが、探しものそっちのけで目に入る本が気になってしまう。 そのうちに、スーツケースは電車の網棚の上に乗せたまま忘れてきた気がしてきた。はじめからそうとわかっていたようにも思う。

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          そのときは教師をしていた。扉のない開放的な体育館で、ワークショップをしている。身近なものを不規則に並べた空間をつくり、自由に動いたり力を抜いて横たわったり、体とものを近付ける、という趣旨だったと記憶している。 館内を歩いて子どもたちを見ていると、簡潔な印象の木材の傍らに、小さくしゃがみこんでいるふたり組がいる。彼らは先日わたしが手遊びでつくった紙粘土を食べていた。ころころとしたそれらの、なににもなっていない、形以前のような形を気に入って、口に運びたくなったそうだ。なんと声を

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          魂のありかについて考えることがある。 感情や思考、意志はそれのみで独立して動くことはなく、身体から受け取る信号や情報にいつも左右されている。魂らしきものとは、身体や脳や環境といったいくつかの要素の間に電気のように生まれているもののように思う。だからそのうちのどれかの要素が機能しなくなって、繋がりが消えたら、魂も消えてしまうんじゃないか。 意識、無意識、魂、心、それぞれ別のものだ。魂はきっと、ある関係性から常に生まれ続けているものだ。 魂の原型のようなものを仮想したことが

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          ハン・ガン「そっと静かに」を読んでいる。まだ2/3を読み終えたくらい。 作家にとって、音楽を足がかりに記憶の一端を引き出すことが「守られているような時間だった」ように、私にとっても彼女の作品を読んでいる時間はかけがえのない救いを与えてくれる。 joan baezによるlet it beに関しての一節が忘れられない。もうこの曲を聴いているだけで涙が出てくる。 誰かがやっとのことで息をしているような姿が、こうして深く胸を打つのはどうしてなんだろうか。 真似をしたくなって、

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          『叫びとささやき』を観た。 テーブルにこぼしたワインがじわじわと広がって染まっていくのを眺めていたら、クロスごと突然はぎとられた。見終わった後の感触はそのような感じだった。 抱えきれないほどの強い欲も怒りも悲しみも痛みも、過ぎてしまえば跡形なく消え去ってしまう。生きるためには禍根なく忘れてしまうほうが利口なのかもしれない。 登場人物のなかではアンナだけが、過ぎ去って埋もれたもののうちにかけがえのなさを見出す。幻影のようなあの庭でのいっときの自由の記憶。しかし結局は沈黙と

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          作家、ハン・ガンにはよく歩く人、という印象がある。『すべての、白いものたちの』では、まだ住みなれない冬の街を、娘が帰る時までひたすら歩き続ける著者の姿があった。『ギリシャ語の時間』でも、言葉を失くした主人公が、言葉や意味づけから逃げるように歩き続けていた。都心や路地裏を縫うように行き、騒がしい人々の姿も忘れ去られた道端の細部もすべて視界に詰め込みながら、内ではいかなる意味づけも拒む。 歩くという行為には身体を忘れさせてくれる効能があるように思う。ゆっくりと流れ去る視界を維持