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イトイ圭の『花と頬』を読んだら、しばらく前に読んだ柳美里の『フルハウス』のことを書きたくなった。


『フルハウス』は、とてもおぞましいことがうずまいている話だが、明確な破綻までは起こらない。起こらないから、登場人物は何もないかのように押し隠そうとする。それらはどこか喜劇じみているところがある。

これは一解釈でしかないとは思うが、主人公がかつての自分に似た幼いこどもに性的な欲求と羨望のような感情を抱くのは、過去に受けた性被害の傷が自身の内にまだ生々しく残っているからだ。過去に性被害を受け、そして現在も様々な形で受け続けている彼女は、そこから先に進むことができず、歪んだ現実を通して加害者側に立とうとしている。(しかし、女性が日常生活を送っているだけで被害を受けることは残念ながらありふれている…)
その傷の再生産に、なんともいえないやりきれなさを感じる。主人公は被害を受けても助けを求めたり加害者を責め立てることがない。あの少女も既に声を失っている。いまも現実にこうして、暗黙のうちに暴力が起こり続けているのだろう。


主人公の父は、家族を壊した当人であるにもかかわらず、その崩壊を自身が受けた傷のように感じている。客観的に事実を認識できず、とっくにバラバラになった家族に拘り続けている。そんな父を馬鹿馬鹿しく思いながらも突き放すことができないのは、主人公も壊れてしまった家族を捨てきれないからだ。それはもちろん愛ゆえではなく、引き受けきれない被暴力の傷あとのためだ。どちらも、乗り越えられない過去を封じ込めようとして、逆にその記憶に追い立てられるようにして袋小路を彷徨っている。

女性が受ける暴力に対抗する言葉や環境が今ほど整えられていない時代。時間と共にうやむやになってしまった多くの被害と、当事者が内面化してしまったそれらを、完全な第三者である読者でも断罪することは難しい。


この小説はかなり断片的にしか読み取れていない気がして、特にラストにかけて再読して考え直したいのだが、とても体力が吸い取られる作品なのでどうにも手が伸びない。後半の『もやし』のほうは狂気が完全に花開いているのでむしろ読みやすかった。



『花と頬』を読んでいると、はっきりと明示されることは少ないけれど、確かに希望を感じる。やさしいかたちで読み手に救いが与えられる。ここに描かれる彼らは、どうにか過去と折り合いをつけながら先へと進む。
ふっと力が抜ける心地よさがあった。現実にもこんなふうなやさしい変化が広がっていってほしい。

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