見出し画像

感想文「春琴抄」

私は春になると谷崎潤一郎の「春琴抄」を思い出す。お金持ちの令嬢で盲目だが三味線の名手。美貌の持ち主「春琴」と、丁稚奉公として幼い頃にこの家に入り、春琴の世話係として、幼馴染のように育った男、「佐助」の物語だ。この本を初めて読んだのは確か小学生の頃で、その後百恵ちゃんが出ている映画を観る、そして思い出して春になると読む。そんな繰り返しの本だ。定期的に読み返したくなる。そして読み終えた後の感想が年齢毎に変わる。

小・中学校時代
佐助かわいそう、春琴、怖い、三味線美しい

高校・20代前半
究極の愛だな

20代・30代
佐助は報われてるのだろうか

40代(いま)
マゾヒズムを超越しているのか。マゾヒズムに分類するのがもったいないな、なんかきれいだな。愛の形は人それぞれか。

若い頃は、春琴、なんてひどい奴だ、そんな風にも思っていた。ひどい仕打ちをし続ける春琴、対してどんな事があろうと使用人として添い遂げようとする佐助。親にも弟子たちにも2人の関係は理解し難い。

最終的に佐助に至っては、春琴の顔や身体が醜くなり、春琴がその事を嘆けば、それならいっその事事見えない方が良い、と針で自らの目を刺して失明する。(小学生の頃はこのシーンがとても怖かった)

すごくすごく、この話は極端で究極の愛の形なんだろうけど、なぜこの話に対して、美しさと醜さを感じるのかと言えば、日常的にあり得ない状況だからである。ここまで身体を張る佐助は身体を張ったから美しい訳でもない。ただ、そこまで思える相手が現れる事は殆どの人はないのではないか。佐助が春琴に顔を踏まれたシーンもマゾヒズムの美しさの喩えとされているけれどマゾなのかな?佐助は使用人で春琴は佐助の主人という関係は変わらない。その枠の中で想いを貫いているように感じる。成り立っているんだ。そして佐助が報われてないのかと言えば、そうでもなくて春琴も佐助に一途だったりする。

ふたりにとって特別なら、サドでもマゾでもカテゴリーなんてないのではないか。それはふたりにしか分からないことなんだ。シンプルな話なんだと思う。

(MacBook)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?