クリエイティブを襲う!「夏休みの工作」現象
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僕の仕事は編集者です。
出版社で、4年ほど書籍編集をやってきました。
たった4年なので、極めたわけでもなんでもありません。
本づくりの途中でアレコレ考えた「ふわふわしたもの」しか書けないかもしれません。
けど、なるべく普遍的になるように、「モノづくり」全般に当てはまりそうなことを、心の声むきだしで書いてみたいと思います。
まず1回目は、クリエイティブを邪魔する「愛着」についてです。
1「なんだこの感情は…」
モノづくりの原体験にあるもの。それは、小学生の頃の「夏休みの工作」じゃないでしょうか。
すべてのモノづくりは、夏休みの工作を例に語れるかもしれません。
夏休みの工作は、なんといっても面倒くさいです。
教師というクライアントが何を求めているのかハッキリわからず、40日の期限内で、自由な裁量で、なんでもいいから1つ、ゼロからモノを作る。
こんな難しい仕事はありません。
たいていの人がそうするように、僕は本を買ってきて、見よう見まねで木の貯金箱や箱庭、パチンコゲームなんかを作りました。
ただ、作っていくうちに、沸々と、「ある感情」がわいてきます。
それが、「愛着」です。
「愛着」というと、とてもいいものに聞こえます。
けれど、これが実は厄介なもので…
2「あれ、オレ、イケてんじゃね…?」
夏休みが明けて、作品を持って学校へ行きます。
恥ずかしい思いを隠し、おそるおそるカバンから出して、教師に提出します。
僕の小学校では、体育館にずらりと全校生徒の作品が並べられました。
好きな女の子の作品を眺めたり、隣のクラスのものをバカにしたり。
そして、あらためて自分の作品を見てみると、不思議と、こう見えてくるのです。
「あれ、オレが作ったやつ、結構イケてるかも…」
そう、自分が作ったものは、そんなに悪くは見えないものです。
なんなら他人のものより、優れて見えてしまいます。
「てか、このクラスで一番いいんじゃね?」
それくらい特別なものに見えてきます。
「愛着」というフィルターを通して見ると、平凡な部分は「ちゃんとできてるな~」に、ヘタクソな部分は「味があるな~」に、荒い部分は「ワイルドだな~」にポジティブ変換されてしまいます。
自分「オレのやつ、結構よくない?」
友達「そう?」
自分「よく見てみろよ。お前のやつより全然いいじゃん」
友達「いやいや、オレのが上手だろ」
誰も認めてくれないので、お互い自慢話を言いたくなるものです。
3「いい本作っちゃったな~」
長い月日が経ち、大人になった僕たちにも、「夏休みの工作」現象はやってきます。
ここからは編集者としての話です。
本は、短くても6ヶ月の期間をかけて作られます。
著者に原稿を書いてもらい、読者が読みやすいように編集し、タイトルやキャッチコピーを考え、デザイナーにカバーなどを作ってもらい、完成します。
作っている間はバタバタしているのですが、あらためて、ふと、デザイン、タイトル、キャッチコピーを見返してみると、
「この本、我ながらよくできたんじゃね?」
と、あの「愛着」がやってきます。
夏休みの工作のように、平凡な部分やヘタクソな部分、荒い部分など、嫌なところは見えにくくなってしまいます。
思い返すと、編集者になる前は(入社して間もない頃は特に)、書店に行って他の人が作った本を見て、
「なんでこうやって作ったんだろう」
「オレなら絶対もっとうまく作れるのに」
と思っていました。
それがいざ自分事になると、話が変わってきてしまうのです。
「オレ、結構、苦労して作ったな」
「いいタイトルだよな」
「キャッチコピーも悪くない」
自分のことを棚にあげて、自画自賛するようになります。
書店に並べられた自分の本は、まさに、あの日の体育館の光景のように「自分にだけ輝いて見える」のです。
4「なんで誰もわかってくれないんだ…?」
こうした「意識のズレ」は、最初の頃は許されます。
自分が作った本が書店にあること自体が特別なことですから、その喜びは噛みしめましょう。
でも、意識がズレたまま本づくりをしていると危険です。
「こんなに頑張ってるのに、なんで売れないんだよ」
「営業がちゃんと売れば、絶対に売れたはず」
「めちゃくちゃよくできてるのに、誰にもわかってくれない」
と、こじらせるようになります。
何を隠そう、編集1~2年目は僕もそう思っていましたから(笑)
客観的に見るレッスン
さて、前置きが長くなったのですが、こじれた僕が考えたのは次のことです。
同じ編集者でも、俯瞰的・客観的に自分を見ることができる優秀な編集者がいます。
けれど、僕を含めてほとんどの凡人は、「オレ、イケてんじゃね?」という小学生の頃から成長していません。
そこから抜け出す方法として、僕なりに出した答えは…
「夏休みの工作」現象から逃れる方法
愛着をなくして客観的に見る方法――。
それが、「時間を置く」ということです。
先日、実家に帰って昔の写真を眺めていると、小学校の頃に作った貯金箱が写っていました。
それを見て、僕はこう思いました。
「なんだこれ、ヘッタクソだな(笑)」
夏休みの工作も、美術の時間に描いた絵も、書道で書いた習字も、時が経って「愛着」が薄れてしまうと、
「そうでもないな」
「ヘタクソだな」
「わかりにくいな」
と、欠点だらけに見えてきます。
僕のような凡人がクリエイティブな仕事をしていくには、これを逆手に取るしかありません。
タイトルやキャッチコピー、中身の見出しなど、「早いうちに考えておいて、後で見返す」のです。
特に、「本のタイトル」は、決まった正解がなく、毎回、編集者たちは吐きそうな思いで考えています。
夏休みでいうところの最終日ギリギリまで先送りして、「えい!」と勢いで決めてしまうのです。
せっかく時間をかけて作ってきたのに、そんなことで世に出すのは本当にもったいない。
先に考えておき、時間を置いて何度も見返す。
「なんだそんなことか」と言われてしまいそうですが、仕方ありません。
それしか方法はありません。
地味ですが、これをやっていくしかありません。
本を世に出した後、読者に広く受け入れられてから徐々に愛着を感じていく…
それが本当の愛着の順番だと思うのです。
とはいえ、いまだに自分が作っているものがどれだけの客観性を帯びているのかわかりません(笑)
少なくとも、小学生の頃の自分から1ミリでも成長していればいいんですが…
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