雑記|おわりがあるのならはじめられる
六月とは思えない暑さはお天道様の御部屋にはカレンダーがないことを証明した。
毎日なんとかかんとか過ごしているしやり過ごしているし見過ごしていそうだけれど過ぎてしまったのだから仕方がない。仕方を知っていればこんな事にはなってないだろうし、躾られた犬のような幸せを得ているだろう。不躾に放たれた言葉は宙を漂い誰にも受け止めても貰えずに湿気を吸い込んで膨張している。そんなどうしようもない言葉ですら、誰かにとっては救いだったりするのだ。僕はそれを形にするのが仕事なのだろう。
打ち合わせをいくつかして過ごした数週間でございました。定期検診の病院で先生に「尿酸値が今回高いけどやりました?(クイッとお猪口をやる動き)」と言われた。打ち合わせやらで数日続いたけれど、1ヶ月で見たら四日しか飲んでないっすと言うと本当にぃ?の感じ。いやはや。定期検診前に食事を控えるのは意味があるのだという逆説。
いくつか、脚本や台本を書いたものが映像として上がってきた。一緒に作成したごどう寄席、インプロライブ。自分のネット番組…。人のやりたいことを形にする…まとめる仕事が続いた。みんなやりたいことがあるのだ。まとめられないなら誰かが形にすればよい。それは仕事になりうる。
僕は売れていないけれどイベントを作ったり台本を作ることは出来る。夢は皆がみてくれたらいい。形にする手伝いをすることで、自分へ流れる気のようなものもあがるように思う。
レバニラにはまる。
めんどうだと感じた時、必要なら頑張ってやればいいし、不必要ならサボれば良い。
「俺のほうが芸人として正しい」と言われた。それはロジックとしておかしい。「芸人というのは唯一無二などうしようもない魅力を持つ人の事だから、過去の事例と照らし合わせたような芸人としての正しさは『芸人』という言葉と相反しています。芸人というのは頭の後ろにあるような存在であり、それが正面になる時にはまた別の場所に存在しうる」と言うのも面倒なので「そっすよねぇ」と言った。
阪神タイガースがどうというよりヤクルトスワローズが強すぎる。野村の遺伝子が好き。中日ドラゴンズの昭和な迷走な感じは苦手、でもなんか日本野球って感じだと思って言葉にぃできなーいぃ。
エッチな台本を書いている時の僕は真面目な顔をしていた事だろう。扱う対象が何であれ、そんなに構成するときに使う脳ミソの筋肉は変わらない。
ぬらぬらが動き出している。ネタが本来のキレが出てきている。多分半年後位にもうひとつのびる…と期待せずに見守る。
面白くなりたい…というより面白くしたい。ただそれだけで大体の事は美しい。生きているだけで我々は表現者だ。悲しみも喜びも怒りも我々がいなければない。それは心が活動して、ぶつかって生まれる摩擦。この街やSNSのそれはすでに表現なのだ。それではしかし、わかりにくいから濃度や味付けをして、包装したそれが芸でありアートのようなものだろう。出来ることであれば、最後に笑って終われるような希望を僕は作りたい。笑って終われない事が多いから。フェードアウトもカットアウトもなく、終わったこともわからない事が多いから。せめて物語は終わりまで観たいんだよ。