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書くことが「目的ではなく手段」の人へ

書きたい、と思ってnoteを始めました。約2年前の事です。
「書く事が目的」と思っていました。

「あれ?」と思ったのは約1年前、夫の脳梗塞での入院中です。
後遺症が残ることを前提とした入院計画。先が見えない状況が重苦しくのしかかる中、頭の片隅で、ふと思いました。
「自分は『書かずにはいられない』タイプの人ではないんだな」と。

そして、ここ3ヶ月位。書いたnoteと言えば、「つぶやき」「既存の動画にちょっとコメント」程度です。
理由は明確です。我が子とコミュニケーションを取ることが楽しくて面白くて脱力しちゃって、「書くぞ!」という方向に全然パワーが行かないのです。なるほど、と思います。私にとって「書くこと」は

コミュニケーションを取る手段のひとつ

だったんだなぁって。
「書くこと」が「子どもとのコミュニケーション」にリプレイス(置換)されている状態とも言えます。

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同じ「夕ごはんを作る」という行為でも、「料理をつくる・食べさせる」ことが目的の人と、「お腹を満たす」ことが目的の人では目指す方向も判断基準も全く異なります。

例えば、保育園年長児の晩ごはん。お昼寝タイムが無くなって、仕事から帰ってきて食事の支度をしている間に寝ちゃう・・とにかく何か食べさせなきゃという場合、お腹を満たす目的の手段としては、おにぎりサイコー!、本日の晩ごはんのハイライトな訳です。

ところが、同じ状況を料理が目的の人が見たらどうでしょう。

「いくら6歳児と言えど、もう少し手をかけた料理にしては?」
「栄養バランス的にどうなの」
とまぁ、こうなります。

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「読まれるための文章」「伝わる表現」そういうのを見る度、コレジャナイ感が湧きあがっていました。それはたぶん私が基本的には「書く事は手段」の人だからだと思います。

もちろん0か100かの話ではありません。
時期にもよるし、作品毎の濃淡もあります。
自分noteでは「noteやってみた」は、「書いて解説(≒伝える)」ことが目的のシリーズです。
そういえば、このnote自身も「目的色」の濃いものかもしれません。

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「手段」としてやっている場合は、あまり他人の意見に耳を貸さない方がいいいです。他人軸ではなく自分軸での判断ということです。

なぜなら、他人から目的が見えづらいので、指摘や判断が的を外していることが多い(あくまで「自分から見て」ですが)からです。
そこをまともに受け止めてしまうと、俗に言う「手段の目的化」になっていってしまいます。

先に挙げた保育園児の夕ごはんの例でいえば、仕事と両立しながら日々の心身の健康を損なわない、というのが最低限の目標ラインです。美味しさとか栄養バランスとか食育とかに気を配ってというのは、なかなか難しいです。
「でも、やっぱり行き届いた夕ごはんにしたい」自身がそう思って行動するのはいいのですが、他人からの指摘とか育児書と比較してだと、消耗していっちゃうんですよね。

書くことに関しても、同じことが言えます。
ここ半年くらい、大小さまざまなコレジャナイ感を抱えつつここで書くのも、と思い、書く場所を変えることや、そもそも公開しないで書く、といったことを検討していました。

現時点での結論としては、どうしても書きたいものだけ書く、でも、子どもとのやり取りで満たされちゃって、それもそんなにはないなぁ、っていう感じです。

その「子どもとのコミュニケーション」そのものを、落ち着いたらnoteにしたいなと思ってるんですが・・中学生って、大真面目に全力をもって、3日前と真逆のことを言ったりするんです。
落ち着くっていつ?!というか、いっかもう、別に書かなくて、ってなっちゃうんですよね。なんかもう、脱力・脱帽みたいな。

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ところで、ヘッダー画像はそんな子供の撮った写真です。
うちの子は、こういう写真とか編み物とかはじゃんじゃんアップしてくれ、なんならこの写真なんて「格好いいだろ!褒めよ!讃えよ!」なんて言ってましたが、絵は一切掲載許可してくれないんですよ。
紙・スマホ・タブレット・ペンタブ・PCと、バリエーション豊富に描いていて、数としては一番あると思うのですが。

「絵は見せるために描いてるんじゃないから」と、言うんです。ネットにアップするという手段を知った、最初っからです。

創るための「目的」「手段」が、はっきりしてるんですね。
ネット社会もそんなに悩まず渡っていけそうで、こういうのを「デジタルネイティブ」って言うのかもしれません。

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