『介護と働く』 #02:父が倒れた日 -やらない後悔-(2/2)
やらない後悔の重さ
思いがけず父が倒れ、過去の回想や未来の妄想をしたとき、改めて気づかされた。
「やってしまった後悔」より「やらなかった後悔」のほうが圧倒的に重い、ということに。
幼少のころから引っ込み思案だった私は、両親から「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉をよく聞かされた。
やってみてバカだと思われたって、やってみてケガをしたって、いい。
たしかにそうだった。小心者の私は、やるとき・聞くときには尋常ではなくドキドキするが、いざ行動に移してみたら何てことはない、その後は決まって爽快な気分になっているのだ。
むしろ、やらないときの「ああ、あのときやってればなあ」と尾を引く感覚の方がよっぽど精神的にしんどい。
やるもやらぬも大切なことは「決断」
しかしながら、ある行為をやるかやらないかの選択肢があるときに、全部やろう、と言いたいのではない。
ここまで記してきた「やる」「やらない」の対象は、実は「行為」ではなく、「決断」だったからだ。
何を言ってるかというと、父とのことでも幼少期のことでも、私はその行為をやらないから後悔していたのではなく、ある行為をやるかやらないかの決断をやらないから後悔していたのである。
こと後悔の重さで言えば、「やる」「やらない」の決断をしたことで結果的に起こる後悔よりも、「やる」「やらない」の選択肢の前でうじうじと悩んで結局どちらも決断できなかったことで起こる後悔のほうが後々重くのしかかってくる。
そして、その「うじうじ」は、忙しいから、面倒くさいから、傷つきたくないから、明日でもいいから、と考える真剣さを失った一瞬の隙間に忍びこんでくる。
私が父とやろうと妄想していたことも、忙しいから、来年でもいいから、と決断せずに先送りしたことで招いた後悔だった。
わたしの決断は内発的か外発的か
ある行為をやるかやらないかいずれにせよ、自分の意思で決断すれば、期待外れの結果を招いて多少の後悔はするかもしれないが、決断を保留し続けてよくない結果を招いたほうが後悔は重い。
ここにあえて「自分の意思で」と記したのは、「決断」に至った背景・理由も、後悔の重さに影響すると考えられるからだ。
決断の背景・理由が、「自分の意思(内発的決断)」なのか「他人・空気など自分以外の要因(外発的決断)」なのかによって後悔の状態は変わる。
決断後もしも期待外れの結果に陥った場合、内発的決断であれば受け入れやすいが、外発的決断であれば少なからず人のせいにしたくなる。逆に期待以上の結果を得られた場合、前者であれば自分を褒めてあげられるが、後者であれば自己肯定しにくくなる。
つまり、内発的に決断することは、その後の結果に対する責任感や自己肯定感へ好影響を与えるのではないかと思う。
「後悔」についてまとめると、ある行為をやるかやらないか「決断」することが大切で、しかもそれを「自分の意思で」決定付けることがより大切なのだ。
「働く」に後悔を残さないために
よくよく思い返すと、このような決断と後悔は働く中に溢れている。
例えば、上司のアイデアよりよいと思われる全く違う観点のアイデアを思いついたとき。意思を持って発言するか、場の空気に合わせてマイルドな案に変えて発言するか、発言を迷って発言の機会を失うか、決断にはいくつも選択肢がある。そして、その結果、後悔の内容は変わる。(いずれにしても、その後自分の行動を正当化して自己防衛すし、意識的に後悔を和らげるだろうが)
私たちがコクヨで昨年の11月に行った調査では、働く満足度を高める要因の一つに、「セルフマネジメント」があることを示した。
これは、業務内容やプロセス、キャリアを自分の意思でコントロールする体験を意味する。
つまり、自分の恐怖心や周囲の空気などに従属的に決断・行動するのではなく、決断・行動を自分で決定づける体験を繰り返すことは、後々の後悔を和らげ、働くことを満足させると考えられる。
決断の選択肢が小さかろうが、いまこうした方がいいかも、と思ったら、一度立ち止まって深く考えるのは必要なことだが、その意思に従って行動に移すことが、後悔の少ない働き方を実現するのではないだろうか。
おわり。
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