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台湾ひとり研究室:本屋篇「佐々涼子著『夜明けを待つ』に見る絶望と希望のあいだ。」

静かな、とても静かな、佇まいをしていた。1冊をひと言で表してしまうのは、なんだか失礼な気もして躊躇われるのだけれど、その気持ちをぐっと抑えると「静謐」という言葉がすっと立ち上がっていた。とはいえ、ただの静けさではない。真正面から生と死を見つめ、四つを組み、闘いを繰り返してきた人だけが持つ——奥に炎の見える静けさだ。

今は「エモい」文章が喜ばれるという。エモい、といわれても、すっかりピンとこない世代なのだけれども、感情を揺さぶる言葉はあちこちに溢れていて、そんな文章に触れることは、ある。マア、有り体に言って好みではない。ドラマで「泣かせるシーン」に泣かせるためのBGMが流れて御涙頂戴が過ぎる、あの感じ。他人の気持ちを昂らせることしか考えていないんじゃないかという気さえしてくる。

そんな世相のなかで出てきたからこそ、本書はより際立つ。

2章構成の本書は、前半部分で日経新聞に寄稿されたエッセイが、後半にはルポルタージュが収められている。著者が続けていた生死の境の取材の最中で見ていた景色や、絶望の中を踠きながら見つけた希望の成分がキラキラと輝いていた。

エッセイのなかに友人を見つけた。「和製フォレスト・ガンプ」と題する1篇は、本人はそんなつもりがなかったのに、いつの間にか彼の言う行雲流水——雲が行き、水が流れるように生きる——という不可思議な人生の有り様を「こんな話が好きだ」と伝える。

著者の佐々涼子さんとは残念ながらお目にかかったことはないのだけれど、実は共通の知り合いがいる。何人になるのかはよくわからない。上の1篇に登場した2人は前の会社の同期で、佐々さんの著書を紹介してくれたのもまたその会社に勤めていた別の友人だった。

だから当然、といえば、そうかもしれない。気づけば佐々さんがこれまで書いてきた作品は『エンジェルフライト』からすべて読んできた。ただ、各誌紙への寄稿は読んだことがなく、本書を読み終えて、ひとりでに合点がいっていた。線が見えた、そんな合点である。

ずっと、佐々さんのテーマは「死」だと思っていた。死のふちを追いかけて国際霊柩送還の現場を追い、東日本大震災の現場へ行き、在宅医療の現場へ行ったのだと。それがとんだ勘違いだったことに気づかされた。

本書で、圧倒的な絶望の中で希望を見出そうとして、時に途方に暮れ、そしてまた歩き出している佐々さんの姿に出会った。生と死の間にあるものがなんなのか、世界各地を彷徨いながら、出会った風景や人、出来事を拾い集めて、言語化していく。生も死も、それぞれ事象のひとつではあるけれど、どちらも捉えることが難しい。それでも、そうだからこそ、言葉にして「こうだったよ」と伝えることはできる。

社会だけでなく、身の回りで絶望を見つけ出すのはある意味で簡単な時代なのかもしれない。戦争に事件事故、災害など、思いもよらぬ出来事が人を襲う。出来事の最中は八方塞がりで真っ暗闇に思えるけれど、希望はある。どこかに。誰もどこにあるかを知らないだけだ——佐々さんは、読んだ人に希望の世界を開いてきた。

——世の中には、災害があり、テロがあり、戦争がある。子どもの虐待があり、貧困や、病がある。いいことも、悪いことも書くのは、いいことも悪いこともあるから書いているにすぎないのである。しかし、私は、「それでも」世の中は決して捨てたものではないと思っている。世の中は基本的に信じるに足りると思っているし、それがなければ、こんな仕事を誰もしないのではないだろうか。私が書きたいのは、「それでも」のあとにやってくるものなのだ。

本書「悟らない」より

世の中は信じるに足りる——静けさの中に見た魂のメッセージだ。佐々さんから希望のバトンを受け取ったような気になった。もちろんこれは全くの個人の読後感で、ひとつの解釈にすぎないのだけれど、自らの希少がんを前に、こんなふうに静かに希望を語ることができるなんて!格好よいったらありゃしない!その立ち会い方に改めて惚れてしまった。これまでずっと人の厳しい場面に立ち会い、格闘し、言葉を「死骸だ」と喝破しつつもなお挑み続けてきた佐々さんの生き方が現れている。

その静かな、だけど確かな炎は読む人にきっと伝わり、受け継がれていくに違いない。

『夜明けを待つ』佐々涼子著
集英社インターナショナル

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勝手口から見た台湾の姿を、さまざまにお届けすべく活動しています。2023〜24年にかけては日本で刊行予定の翻訳作業が中心ですが、24年には同書の関連イベントを開催したいと考えています。応援団、サポーターとしてご協力いただけたらうれしいです。2023.8.15