「ソーシャル・グッド酔い」には用心したい。
『響け、希望の音〜東北ユースオーケストラ からつながる未来〜』(フレーベル館)の著者として取材を受けて気づいたこと。
昨年末、著者となって出版した『響け、希望の音〜東北ユースオーケストラからつながる未来〜』(フレーベル館刊)の苦悶まみれの執筆記を先日noteに書きました。
この書籍について、有り難いことにいくつか取材依頼をいただいていたものの、我が家の娘の中学受験というイベントのため引きこもる生活を余儀無くされていたのですが、無事に難を乗りきることができ、ようやく先週、共同通信社、時事通信社という二大通信社と新興のWebメディアcococolorの取材をまとめてお受けすることができました。記者、ライターの方々からのご質問にお答えするうちに、「あ、そう言えばこんなことを考えていたよな、自分は」と気づいたことがあったので、まとめてみます。
「音」であることが、良かった。
本のタイトルである「響け、希望の音」。当初、フレーベル館の担当編集者からは「希望のハーモニー」という提案を受けました。しかし、「ハーモニー」だと「調和」についての人の思い込み、価値判断が入ってしまうので、それは避けたいと思いました。不協和音も音楽になるのが、音楽の懐の深さだと考えるからです。思えば、人が生きることは、「音」を出すことでもあります。呼吸する音、歩く音、口から発する音、風呂でシャワーを浴びる音などなど。言わば「音」を出すことが、人の生存確認です。そういう意味で、東北ユースオーケストラ の団員たちにとって、楽器を通じて「音」を出すことが良かったんだろうなと思ったのです。「音」という振動(バイブレーション)で、自分たちの生きていく気持ちを表現し、共振、共鳴しあう関係をつくり、その「音」たちを外に向けて発信する。たぶんこの復興に向かう気持ちを「言葉」で表現するとしたら、難しかっただったろうと想像します。
前回記事同様に創作ノートをご紹介していくと、そんなことに触れている走り書きがありました。
わたくしは取材を受ける中で、現代社会の「言葉」に偏り過ぎる生き方への疑問をお話しました。「言葉」の成り立ちからして、Aと非Aを文節することで生まれる記号なのですから、そもそも言語とは否定性を帯びてしまうものであり、言語化と同時にネガティブがどうしてもつきまとうものではないかということです。
人と人が「言葉」を重ねると、おうおうにして否定の力を呼び寄せがちになります。大声やより強い「言葉」だけが残っていくことになりやすいです。ネットでよく見られる現象ですね。
ところが、人と人が「音」を重ねると、時として音楽になる。
インタビューに答えているうちに、「音」は「色」に似ているとも気づきました。思わずとっさに、マイルス・デイビスの『Blue In Green』やレオ・レオーニの『あおちゃんときいろちゃん』の例を出したのですが、重なり合いができる。そして、「色」が混じり合って単色になることがないように、オーケストラの団員が一人ひとりの個性=ひとつの音=ひとつの色を失わず、全体としてドット絵や点描画のように一つの作品に仕上げていくプロセスが大事だったのだなと思い返すことができました。
「心の復興」とは、気持ちよく健忘症になること。
東北ユースオーケストラ が掲げる活動目的の一つが「心の復興」であるのですが、これは「悪い思い出」を「良い思い出」に転換することです。なので、できるだけ団員のみなさんには、「むしろ大震災に遭ったからこそ、かえって良かったかもしれない」と思えるような貴重な体験をどれだけつくれるのかが、ささえる大人たちの役目だと考えてきたなと。
実際のところ予算もたいして無いのに受け入れる地元のみなさまのご援助で、団員の地元から遠く離れた沖縄県の宮古島や石垣島で夏合宿をする。そもそもオーケストラの代表・監督である坂本龍一さんと同じ時間を過ごし、言葉を交わし、合奏することは貴重な体験そのものです。指揮の栁澤寿男さん、東京フィルハーモニー交響楽団のプロフェッショナルから直接指導してもらえること。毎年の定期演奏会で吉永小百合さんに共演していただく。その会場が、東京オペラシティコンサートホールというクラシック専用の晴れ舞台です。特別てんこ盛りの特別な体験です。
偶然の出会いを捕まえる「握力」の鍛え方。
本書のあとがきに書いた一節「ほんのちょっとした、たまたまの出会いが、運命の向きをひとひねりする。その偶然性を味方につけよう。本書の成り立ちは、そのシンプルなメッセージを体現しているとも言える。」について、ライターの方から「どうしたら偶然性をつかまえられるのですか?」という質問も飛んできました。
これには、一瞬たじろぎましたが、本能を鍛える訓練が必要なんじゃないかと反射的にお答えしました。たとえばはじめて訪れた場所で、ネット検索無しで美味しい店を見つけるトレーニングとか。と言ったわたくしは「食べログ」の有料会員ユーザーですが。たとえば、相性の良い異性を出会い系やマッチンングアプリ無しで見つける練習とか。と言ったわたくしはどちらも使ったことが無いのですが。
食と性という、ヒトの生存と存続に不可欠で、脳の快感神経にも直結している領域で練習を積めば、偶然の出会いを捕まえる「握力」が鍛えられるのではという与太話です。しかし、過度なDXはヒトを劣化させるとは本気で思っていたりして、検索無しで新しいところで食べてみる「賭け」のようなことは時々意識的にやっています。
「自然(本性)の中に生きる」とは?
書籍『響け、希望の音』の終盤の一部分です。
わたくし自身、2011年の東日本大震災以来、「自然と人間の関係とは?」を問い続けている気がします。一番最初にこのテーマが気になったのは、高校2年生の時に読んだ、スピノザ『エチカ』でした。17世期のオランダに生きた、自然=神の汎神論で知られる哲学者の本です。その中で自然災害に良い悪いの価値判断を持ち込むのは、人間の勝手な表象に過ぎないというようなことが述べられていて、衝撃を受けたのを覚えています。唯一神の絶対的視点で見れば、災害で被害に遭った人間を「自然と戯れている」と解釈する可能性だってあるわけです。恐ろしい考えですが。
ここ3年ほど前くらいからハイデッガーの「世界=内=存在」(being in the world)の向こうを張って、「自然=内=存在」(being in the nature)としての人間を考えたりしています。とても人間にはかなわない海山川といった「大自然」の「自然」のみならず、"nature"が含意する「本性」という意味でもです。人間は生物学的にDNAや体内細菌に左右されることや、進化心理学的に150人程度と言われる人間が社会関係を取り結ぶ限界であるダンバー数などに否応なしに限定を負う存在です。東北ユースオーケストラ も多い時で団員が110人を超える時期がありました。通常の一般的なオーケストラからすると、「メガオケ」と言いたくなる人数ですが、関係者も含めて150人以内という意味では適性な規模感だったなと思ったりしています。
自由でオープン、フラットに。潜在性が伸びる組織が好き。
「東日本大震災を体験した子供たちとの出会いと演奏は、僕にとってかけがえのない体験です。なかでも僕が一番感動したのは、ここには上下関係がなく自由な空間だと、団員が言ってくれたことです。」(坂本龍一監督から本書に寄せられた推薦コメント)
子供の可能性を信じる。子供の潜在性に託す。というのが、運営する大人たちの基本スタンスであると再認識しています。福島事務局の大塚真理さんが、本書で「間奏曲」と名付けた311の体験談の聞き書きパートで、ご自身の福島テレビのジュニアオーケストラで体験された信念について語っておられます。
オープンで、上下関係の無いフラットな組織は、わたくしの好みでもありまして、会社でも職階や地位の高い低いでのポジショントークをする人は大嫌いです。ギャップに乗じて「圧」をかける人は下品だとも思っております。
数年前に人に指摘されて気づいたのですが、幼稚園で受けたモンテッソーリ教育の影響が強いようです。みんなの「お歌の時間」が嫌でしかたなくて、一人砂場で遊んでいたことや、試験管に色の水を混ぜる遊びを延々とやっていた記憶が印象深く残っています。先生たちが好きに放っておいてくれたからなんですね。しかし、今では人並みのMサイズくらいの協調性は身につけております。おかげさまでオーケストラの運営をするくらいはできます。
東北ユースオーケストラ でも生意気なことを言ってきたり、「一応、当方、大人なんだけどな」と言いたくなるような態度の団員もそのままに、自由に、のびのびと活動していただいております。
”じぶん、いいことしてるぞ”と酔うのは、恥ずかしい。
はたして会場はお客さんで埋まるのだろうか、演奏が止まることなく終演を迎えることができるのだろうかと心配に杞憂を上乗せして迎えた第一回の定期演奏会のカーテンコールで、万場のお客さんから拍手喝采を受けている団員をステージ袖から見届け、うるうるしている時に、「この活動については、いいことをしていると思うのはやめよう」と強く戒めの念を誓いました。
「いいことをしているときは、悪いことをしていると思うくらいでちょうどいい」と、吉本隆明さんがよく言ってた。(糸井重里さんのtwitterより)
糸井重里さんが時々思い出したように言ったり、書いたり、つぶやいたりされている、「戦後思想界の巨人」吉本隆明さんの言葉です。
世の中に「いいことしてる酔い」が増えているなという実感があります。ま、こう書くと「いいことして」当然の親子関係とかまで揶揄しかねないので、「ソーシャル・グッド酔い」としましょう。とにかく苦手です。
そのため東北ユースオーケストラ の運営においては、「おせっかいなことしていないかな」「無理におしつけていないかな」といつも気にしています。あと「自分が好きで、面白がれるからやっている」の姿勢を貫くつもりです。その気が無くなったら、すーっと身を引こうかなと。
「ミックスサンド構造」で後世に遺したかった体験。
インタビューに答えていくうちに、「なぜ自分はこの本のたいへんな執筆を引き受けたのだろう」と自問して気づきました。前回の原稿で、百年後も世界中で読み継がれるような本を目指したと大それたことを書きましたが、何を遺したいと思ったかというと、3人の311体験談の聞き書きの記録だなと。
今回の本の構造は、活動の軌跡を起承転結の展開で4つの「楽章」で構成するストーリーパートと、その合間にはさんだ体験談の「間奏曲」で成り立っています。つまり、「間奏曲」のハムやタマゴ、キュウリを「楽章」のパンがはさむことで、「ミックスサンド構造」の具を後世にテキストの形で冷凍保存したかったのだと思うのです。
「ノンフィクションを書くと、申し訳ない気持ちになる。」
この言葉は、先日、渋谷のラジオで「渋谷の田中宏和さん」とわたくし田中宏和がレギュラーMCで、毎回、田中宏和さんか、田中宏和さん以外をゲストにお呼びする『渋谷の田中宏和』(毎週火曜日12時〜12時55分)に作家の田口ランディさんをお招きした時に伺った収録中の発言です。
ランディさんは、前回のnote原稿を読んでおもしろがっていただいたようで、しかし書く時に一人称への抵抗感はまったく無いそうです。むしろ自由に「私は」「私が」「オレオレ」と表現したいほうだ。エッセイでは「私」を書きすぎて削ると。小説の場合は、「私」でなくても、主人公にわたしを投影して気のおもむくままに言動を炸裂させるのだと。一方で、「思想界の巨人」のご令嬢であるばななさんは”「私」って恥ずかしい”と言ってましたよと「一人称が苦手派」だそうで、そのお話を聞いて「一緒だ」と思ったのです。ランディさんから「田中さんは、自意識を希薄化したいという強い願望があって、同姓同名の活動もそう。京都の平安人の血なんじゃないですか。紫式部も自意識が無くて、多人称的と言うか、自ら風の音になったり、花になったりする。」と鋭い指摘をいただきました。
ノンフィクションについては、ランディさんも居心地の悪い思いで書かれるそうです。今月、文庫化された『逆さに吊るされた男』(河出書房新社)は、地下鉄サリン事件の実行犯との交流を描いた「ノンフィクション・ノベル」。その方はもう死刑に処せられてしまい、「私は、本にしてごめん!という思いがあって、なかなか自分から宣伝する気になれないのよ」とおっしゃっていました。とかくノンフィクションは、書いた人、あえて書かなかった人、書けなかった人も含めて、「いろんな人の顔が、書いている時も、書き終わった後も浮かんできて、申し訳ない気持ちになる」と。いたく共感いたしました。だからこそ、わたくしも著者印税分を活動費にとこだわったのは、前回の原稿の通りです。
ランディさんには筆力をおほめいただき、「もっと書いたほうがいい」とのお言葉に乗せられ、軽はずみにも「令和の宮本常一を目指します」なんて調子に乗って発言したのも2月23日(火)に渋谷区の空気に乗って流れます。
3月に書籍発売記念の展覧会があります。
さて、3月に書籍発売を記念した展覧会をありがたいことに東京と仙台で行うことができます。
「東北ユースオーケストラ 活動のあゆみ」写真と言葉の展覧会
(東京会場)表参道交差点角の山陽堂書店
会期:2021年3月1日(月)〜3月13日(土)
平日11:00-19:00/土曜11:00-17:00/日曜休
※1日は13:00開廊
(仙台会場)山野楽器仙台店
会期:2021年3月8日(月)〜3月13日(土)
会期中に創業130周年を迎えられる山陽堂書店では、書籍だけでなく、東北ユースオーケストラ オリジナルグッズも販売し、それらの購入特典として、TYOロゴデザイナーの長嶋りかこさんによるオリジナル栞をプレゼントします。
時節柄、「リモート観賞動画」も準備しています。また聴き手と団員有志の奏者がともにソーシャルディスタンスを取る「音漏れ演奏会」をサプライズで企画しています。本を手に取っていたり、青山通りを歩いていたら、突然音が上から降ってくる体験をお楽しみいただければ。
3ヶ所の誤植を修正したいから、早く重版になって欲しいです。お買い求めいただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします!