記録_11_26_sat_2022
行動原則は大事だと感じます。/たとえば勉強の出来ない子供がいたとして、そんな子供の中には自分が他人から求められる行動原則が何故かがわからない子供がいます。/高い比率でそんな子供は何故っ子です。何故と沢山尋ねる子です。/数ある何故の中でも何故勉強するのか、という問いに将来のため、自分自身のためと答えるのは大人の目線での物言いです。/大人に質問したからとはいえ、この質問は大人の目線で答えれば解決するわけではない。/答える側は答える相手が大人であったとしても相手の目線を知ることへの努力が求められるものです。/大人に質問をする子供は多くても子供に質問をする大人は少ない気がする。気のせいであってほしい。/子供のふるまいの中には確かな誤りがあることは多いです。大人のふるまいの中にもその数や程度は別として確かな誤りがあることはやはり否めません。/何故かと問われれば子供は自分が子供であることを自らを振り返って知るし、大人も自分が大人であることを自らを振り返って初めて知るからなのではないだろうか、と率直に思います。/もっと正確に言えばいずれも川のような流れの中で、何となく知っていくようなものなのでしょう。/どこに流れていくかを知るには泳ぎながら目線を水面から上に保つ必要がある。/目線という言葉が出たので目線を変えます。/泳ぎながら目線を水面から上に保つことを勉強といえるのかもしれません。それでも見える流れの先などたかが知れているけれど。/
流れの中でわざわざ泳がなくても勝手に身体は流れの先へ進みます。もとい勉強しなくても生きていけるものです。もとい、誰しも生きていれば勝手に歳を取ります。/寝食あらば勝手に生きていけるその代わり、今自分がいる川の流れに身を任せることを受け入れなければいけません。/荒川を流れているのであれば勝手に隅田川にいける場合は大いにあるけれど、他の川へ行きたいのなら泳ぐ必要が自ずと出てきます。/荒川からナイル川へ勝手に流れていくことなどほぼあり得ません。大いに空輸される必要がある。/川を流れることとは、違った手順が求められます。/違った手順は知ることを抜きに、言い換えれば勉強することを抜きにはほとんど進むことは無いでしょう。/
正直言うと私はどこの川にいようとどうでも良いのですが、どこかの川の流れの中に私自身もいます。かつて口を閉ざした何故っ子が流れで大人になった。/昔から背泳ぎが得意でした。泳ぐ先が見えずにプールの壁に頭をぶつけてでも呼吸できる状態で水の中にいたかったのかもしれません。/ある意味極めて内向的、保守的な頭の使い方をする私だったし、今でもそうだと思います。/しかれども空が川より広く、雲は人の泳ぎより優雅であることは背泳ぎをしないと気づきません。/
そもそも今にして思えば水はもともと人を襲う気などないのです。人が水に命を奪われる可能性があるくらい脆弱なだけです。/とはいえ人は水の中で浮いていられます。何と言いましょうか、こんな私が言うから説得力があるのかもしれませんが文字通り浮いていられます。物理的な意味でも、人間関係の中でも。/思考も何も無い雲だって浮かんでるんだから。/つまりは正しい生活リズムと違えど、帰宅後に風呂に入らず料理をせずともビールを呑んでもいいことがあるのです。/ただ今が楽しければそれで良いわけではありません。/背泳ぎに必要な脱力を生み出すためです。/自分が何故この川の源流に生れ落ち、川は何故流れ、人は何故流れるのに泳ぐのか、という私に常ある親も子もない質問を誰にも聞かれずに口に出すための背泳ぎだったりするのでした。/空気を読んで浮いてる人だっているものです。浮いてないと行動原則を見つけられない人だっているものです。/
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