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【第2話】 今夜、ご自愛させていただきます。

<第1話はこちらから>


「健斗くんと別れたの?」

ワイングラスを持ち上げた手が止まった。さっきまでゲラゲラと笑っていた弥生やよいの顔が一瞬にして驚きの表情に変わった。大学時代に弥生と出会ってから、これまでいろんな話をしてきたけれど、よくない報告をするときはいつも申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

「うん」

「……そっかあ」弥生はグラスを置き、少し遠くを見ている。

今日は月一恒例のご飯会だ。毎月交代で行きたいお店を選んでいて、5月は私の番。今回は厚切りローストビーフが看板のバルにやってきた。

「2人のことだから、私がどうこういう立場じゃないのは重々承知なんだけど……何かあったの?」

弥生はいつだって優しい。明るくて、おしゃれで、さっぱりとした性格。まわりから見ると私たちは正反対のように思う。姉御気質な弥生と仲良くなりたい人は多かったはずなのに、なぜか私と一緒にいるのが日常だった。

「私たち別れるだろうな」と自覚したとき、不思議と腹落ちした。ノートを開き、浮かんでは消え、また浮かんでは消えていたモヤモヤを書き出してみて、初めて自分がどうしたいのかが分かった。

別れた後のことを考えてしまって、一瞬決意が揺らぐ。

(別に別れなくてもいいでしょ)
(嫌いなわけじゃないし)
(別れてもまた出会いがあるとは限らないし)

全部ごくんと飲み込んだ。違うでしょ。本当は、もうとっくに自分で分かっているんでしょ。

「じゃあな」と去っていく後ろ姿に、ああ、もうこの背中を間近で見ることはないんだなと、3年分の重さがどっと押し寄せてきて悲しくなった。別れはいつだってつらい。

「そっか、そっか。大きな決断だったね。大変だったね。報告してくれてありがと」

弥生は私の目を真っ直ぐ見つめて言った。「よし、今日はたくさん食べて、飲んで、話そう。すみませ〜ん!」と大きな声を上げる。「あ、良子の好きなラザニアあるじゃん。これチーズたっぷりで美味しそう。チーズ多めで!」ポンポンと私の好物を注文していく声に、心がきゅっと締め付けられた。


追加注文した料理を待っている間に、弥生のカバンが鈍く唸った。そういえば、随分前から連絡が来ているようだった。

「スマホ大丈夫?」

なぜか弥生は気がつきたくないみたいだ。

「あ〜そうだね。……ごめんね、たぶん仕事だわ。ちょっと電話してくる」

席を立ち、お店の入り口へと向かう。営業マンとして働く弥生は毎日忙しい。夜遅くまで仕事をすることも多いみたいだ。仕事に、自分磨きに、スキルアップに、いつも一直線な姿を見ていると、どこにそんな体力があるのかと思ってしまう。

「ごめんごめん!あ、もうラザニアきてる」

取り分けたラザニアを食べている弥生に「電話大丈夫だった?」と聞いてみると「余裕余裕〜」と返事が返ってきた。

「最近チームのメンバーが変わったから、慣れるまでいろいろとコミュニケーションが大変でさ。あ、ところで良子、来月はここ行かない?」

パッと向けられたスマホには、今にもこぼれそうな海鮮が映っている。「肉の次は魚でしょ?」ニヤリと弥生が笑った。

***


カレンダーが6月になった途端、急に暑さを感じるようになった。入園・入学、ゴールデンウィークが過ぎた日曜日のショッピングモールは、いつもより落ち着いている。

「良子さん、暇ですね」

異常がないかフロア全体を見回り、レジカウンターへ戻ってきたとき、杏子ちゃんが呟く。今日は大学も休みなので朝からシフトに入ってくれている。

「そういう日もあるよ」

杏子ちゃんは「忙しい」が好きな子だ。お客様が多い方が俄然燃えるタイプ。ひっきりなしに列が途切れない食品レジの方が彼女には合うのではないか?と、提案したこともあったけれど、私と一緒に働きたいと異動しようとしない。

「3年生だから就職活動も始まるし、これからどんどん忙しくなるよ。『暇だな〜』なんて言えないくらいになるよ」

「早く忙しくなってほしい。私、就職したらバリバリ働くのが目標なんです。今いろんな企業を見ていて、まだ『ここ!』っていうのは決まってないんですけど。働く女性ってかっこいいじゃないですか。毎日スケジュールをびっしり埋めたいなあ」

くるりと私のほうを向く杏子ちゃんの瞳はキラキラと輝いている。10年ほど前の私を見ているようだ。でもこの眩しさがどこか羨ましかった。

「杏子ちゃんならバリバリ働く社会人になれるよ」

「やったあ」

「でも、スケジュールは全部埋めちゃダメだよ。長く働くためには休みも必要だからね。先輩からのアドバイス」

「なんか良子さんがいうと、説得力あるな〜」

ケラケラと無邪気な笑顔が返ってきた。眩しさがしみる。


***

徐々に近づいてくる夏の気配に少し窓を開ける。夜風がふわりと入り込んできて空気が軽くなった。

ーー良子、明日仕事?

今週末は思いのほかゆったりとした客足だったな。そろそろお風呂の準備でもしようと思ったとき「ピコン」とスマホが鳴った。弥生からだ。「明日は休みだよ」と返したら電話がかかってきた。

「ねえ、今からアフタヌーンティーに行かない?」

時刻は22時半過ぎである。一体どうしたのか聞きたいものの……今なんて言った?こんな時間からアフタヌーンティー?とんだ提案に思わず聞き返す。

「アフタヌーンティー?」

「そうそう。良子はお茶好きだし、最近ご自愛してるって言うじゃん?だからアフタヌーンティー。良かったら付き合ってよ、奢るからさ」

弥生が突拍子もないことを言っている。もちろんこれまでも一緒にふざけたことはやってきたけれど、22時半にアフタヌーンティーとはどういうことだろう。さすがにこんな時間に提供しているお店はないはずだ。

「どうしたの?何かあった?てゆうかこんな時間にアフタヌーンティーをやっているお店なんてないよ」

「私一押しのアフタヌーンティーは夜もやってるの。良子と一緒に行きたいな〜と思ってたんだよね。行こうよ!」

弥生に会えるのはとても嬉しいし、大好きなアフタヌーンティーが夜も楽しめるなんて心が躍る。ただ、いつもの弥生の様子とは違っているのが妙に気になった。

「行く」

「ありがと。そう言ってくれると思って、実は今近くまで来てるんだよね〜」

マンションを出ると水色のパオが止まっている。弥生の車だ。

「ごめんね〜!夜遅くに」車に乗り込むと弥生が申し訳なさそうに手を合わせた。「いや、楽しそうだからきたよ」と返事をする。真夜中のドライブが始まった。

***

車を走らせながらお喋りをしている弥生に、どこのお店のアフタヌーンティーか聞いてみるものの、未だに教えてくれない。ちらりと横顔を見ると、なんだか浮かない顔をしている。一瞬気がつかないふりをしようか迷ったけれど、友達に対して鈍感なふりはしたくなかった。

「なにか、あったでしょ」

こういうとき、いつも自分ならどんな言葉をかけてほしいのか考えてしまう。ぐいぐい聞くのも違う気がするし、かといって聞かなすぎるのも違うと思う。共感したほうがいいのか、ただ話を聞けばいいのか、アドバイスをすればいいのか、付き合いが長い友達にだって未だに迷ってしまう。でもただ一つ知っておいてほしいのが、私がいることで、話すことで、弥生に少しでも楽になってほしい。私に何かできるのであれば、なんでもしたい。

ゆっくりと弥生の答えを待つ。赤信号に引っかかったとき、弥生がふうと一息ついて力なく笑った。

「前にさ、チームメンバーが変わって忙しくなったって言ったけど、あれ嘘なの」

驚いて弥生の顔を見る。

「実は2週間前から会社、行ってないんだよね」

ひっきりなしに唸っていたスマホを思い出す。あれ、忙しかったんじゃなかったっけ。

「忙しいのは好きなんだよ?ただ、目の前に来たボールを必死で打ち返しているだけで、充実感が全くないんだよね。ご飯を食べるのも、ネイルを塗り直すのも、お風呂に入るのも全部“ながら”作業になってるし。忙しいのに仕事をしている実感がない。やることに心が入らないの」

弥生の顔は、今にも泣きそうに見えた。

「でも仕事のせいにはしたくない。だって私仕事好きだし、休みもあるし。でも『これがしたかったんだっけ?』って思っちゃうの。良子とのご飯のときだって、途中から頭の中仕事のことばっかだったんだよ?たったの2時間を『私はここにいられないのか』って落ち込んだ」

ぶおんと遠くの方でエンジン音が聞こえた。「そんなことないよ」と言いたくなったけれど、弥生の気持ちが痛いほどわかって口を閉じる。バリバリ働きたいと言っていた杏子ちゃんの輝いた瞳が浮かぶ。

「最近の良子、本当に素敵になったよね。健斗くんと順調だからかなと思ってたんだけど、ご自愛?のおかげなんだよね」

語尾がだんだんと小さくなってくる弥生に、何か言ってあげたいけれど言葉が見つからない。

「ねえ良子、私も“ご自愛”したい。教えて?」

エンジン音に負けないくらいの声で「もちろんだよ!」と答えた。

***

「こんばんは、ようこそスターバックスへ。ご注文は何にされますか?」

スピーカーから流れてくるアナウンスに、思わず「アフタヌーンティーってここ?」と素っ頓狂な声を上げる。

「ここのアフタヌーンティーは最高なのだよ」弥生は勝手に注文を進めていく。

「えっと、ホットのイングリッシュブレックファストティーラテを2つ。オールミルクで。フードのメニューもありますか?」

ぱっと画面がフードメニューに切り替わる。

「あとチョコレートチャンクスコーンと、アメリカンワッフルを1つずつ。温めてください」

お会計に向けてゆっくりと車が進んでいく。弥生が言っていた“アフタヌーンティー”がどんなものかもう想像はつくけれど、久しぶりの、しかも真夜中のドライブスルーに胸が高鳴った。

「夜のドライブですか?」

商品を受け取ったときに、爽やかな店員さんが笑顔で声をかけてきた。

「そうなんです。友達に話を聞いてもらいたくて無理やり連れ回してます」

「楽しそうですねえ」と笑う店員さん。スタバで働いている人はみんな素敵に見える。

「ドライブ楽しんでくださいね。お気をつけていってらっしゃい」

閉店ギリギリで駆け込んだドライブスルー。早く帰りなよと思われるかもしれないのに、むしろ真夜中のアフタヌーンティーの後押しをしてもらった気分になった。

少し車を走らせ、海辺が近い駐車場に車を停めた。あたりは静かで誰もいない。

「どうぞ」と手渡してくれたティーラテを口に運ぶ。弥生が教えてくれたアフタヌーンティーは、お店で楽しむのと同じくらいとても美味しかった。ティーラテもスコーンも食べたことはあったけれど、組み合わせたらアフタヌーンティーになるなんて、なんで今まで気がつかなかったんだろう。弥生らしい発想だ。これはとても手軽にできる、立派なアフタヌーンティーである。

「美味しい」

「でしょ〜?フードは温めてもらうのがポイントなんだよね」

お湯ではなく牛乳で淹れてもらったオールミルクのティーラテは、まろやかで濃厚だ。甘さとコクがあるから焼き菓子とよく合う。スタバでアフタヌーンティー。私もまたやろう。

「ありがとね。良子」

弥生は恥ずかしそうに言った。

「『スマホの電源を落とす』なんて何年ぶりだろう。いつも連絡がきたときにすぐに返さなきゃと思って、怖くてできなかったの」

スタバに着く前に電源を切って放り込んだバッグを見る。私がやっている5つのご自愛ルールのひとつ「スマホの電源をオフにすること」を伝えたら、弥生はいきなり実践した。

「こんなふうに、“食べることに集中する”って、最近してなかったな。弱音なんて飲み込んでたし」ははは、と笑った。

私たちはいつから叫べなくなったんだろう。本当はもっと、小さなことで弱音を吐きたいし、泣きたいし、優しくされたい。どうか自分だけは、自分に優しくありたい。

「私さ『見栄を張ってたんだなー』って気がついたの」

「見栄、かあ」

「ほしいものも、したいことも、自分で決めたわけじゃなかった。無意識に見栄を張っているから、ありのままの自分でいることがすごく怖くて、他人の軸が物事を判断する基準になっていたの。だから自分の軸なんてなくて、自分が本当はどうしたいかなんて全然わからなかった」

ティーラテを飲む。じわじわと広がっていく優しい味わいに、心がホッとする。

「ちょっとだけでいいからさ、自分を最優先する時間があればいいんだなって、私は思ったんだよね」

「そっか、ちょっとだけでいいんだ」

「弥生は大丈夫だよ。だってこんなに素敵なアフタヌーンティーを、夜のドライブを知っているんだから」

遠くに見える東京の街はまだまだ活気づいている。キラキラと輝く光を見るたびに、一体この街はいつ眠るのだろうかと思ってしまう。そっと「眠ったほうがいいよ」と言ってみたいけれど、眠らないからこそ救われる日もある。

***


「安上がりなアフタヌーンティーだねえ」

「でしょ?でも好きでしょ良子」

「だねえ」

少しぬるくなったティーラテが体を巡っていく。ちらりと盗み見た弥生の横顔は少しだけ和らいでいるように見えた。どんな夜にだって朝は来る。私たちはただ無事に朝を迎えたいだけなのだ。

「あ!良子ごめん。今月海鮮に行く予定だったのに、アフタヌーンティーにしちゃった」

「今日はただのお茶会だよ。海鮮も行こ」

「そっか。そうだよね。よし!じゃあ帰ろうか」

勢いよくエンジンがかかった。


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illustration by:キコ


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