見出し画像

私が「直感」を信じられるようになった夜

「娘さんですか?」

五反田のとある居酒屋。赤提灯がぶら下がっている、いかにもサラリーマンが好きそうなお店で、私は出張に来ていた父とカウンター席で飲んでいた。

「あ、はい。そうです」

ほんのりと顔が赤くなった父が答える。

父の隣に座っていたサラリーマン風の男性が声をかけてきた。父よりだいぶ若く40代前半くらいに見えるその人は、一人飲みのようだ。

「そうですか。娘さんとこうやって一緒に飲めるなんて羨ましいです。私の子どもはまだ小さいんですが、いつかこんな風に一緒に飲めたらいいなと思って。ははは」

居酒屋特有の和やかな交流だった。普段知らない人から声をかけられるとき、かなり警戒してしまう私だけれど、飲みの場ではその警戒心が少しだけ和らぐ。

お酒が入っているからこその、ゆるいコミュニケーション。若い頃は、大勢で飲んでいるときに気がついたら知らないグループも混ざっていて、みんなで一緒に飲んでいた……なんてこともある。その場限りの不思議なコミュニケーションは、危なっかしいけれど、ちょっと楽しい。

お酒が好きな父もそういったコミュニケーションが好きらしく「ありがとうございます」から、いろんな話を2人で始めていた。

隣で楽しそうに話す父の姿を見ながら、私はちびちびとお酒を飲む。父が楽しそうな姿を見るのは純粋に嬉しい。

店内には年齢層が高めのサラリーマンが目立つ。テーブル席で同僚と話している人、テレビを見ながらしっぽりと飲んでいる人、かなり酔っ払ってゲラゲラと笑っている人。大人たちが解放されているなあと思う。

「あ、せっかくの夜なので」

レモンサワーを飲みながら周囲を観察しているときに男性が言った。

「ん?」と思い視線を動かした先には、ビールジョッキを持ち上げる姿が映った。「あ、そうだよね」と自然に覚えた大人の暗黙のルールに私も習う。

3人でカツン、とグラスを合わせる。不思議なコミュニケーションが始まったと思った。



「目元の、笑いジワがそっくりです。このシワが出る人って素敵ですよね」

お酒が進んできた最中、男性が私たち親子を褒めた。いや、これは褒めているのかどうかよく分からないけれど、とにかく「笑ったときに目尻に出るシワ」が良いという。

自分では父と顔が似ているのかがイマイチ分からない。だけど、笑いジワだけは認めている。昔から笑ったときに目尻に出るシワだけは父と似ているなあと思うのだ。

そんな所に気がつくなんて、この人は何者なんだろう。よく見ているなあ。

男性も今日、出張で東京に来ていたそう。普段は愛知に住んでいて、子どもは2人。女の子と男の子だったかな。まだ小学生らしいので、いつか大きくなったときに私たちのように親子でお酒を飲めるようになりたい、と終始呟いていた。

「大人になってもちゃんと親子でコミュニケーションが取れるって素晴らしいと思うんです」

「素敵なお父様ですね」

こういうセリフがスラスラと出てくるなんて、以前どこかで父と会ったことがある人なのだろうか。紳士な人もいるもんだなあと呑気に思っていた矢先、父がトイレに立った。

若干ふらつきながらトイレへ向かう父の後ろ姿を見ながら、「そろそろお開きにしようかね」と思い、残っているおつまみたちを口に入れる。

出会って間もない人と2人きりになるとコミュ障を発揮してしまうので、「父よ早く戻ってきてくれ……!」と心の中で叫ぶ。気まずい雰囲気を感じさせないよう、平常心を装いながらもぐもぐと口を動かしているとき、男性が私のほうを向いて言った。

「あなたは、素敵なお父さん、お母さんに育てられてきたというのが良く分かります」

「あ、ありがとうございます」

ごくんと、だし巻き卵の残りを飲み込んで慌てて返事をする。面と向かって褒められるのはやっぱり慣れない。くすぐったいな。


「なのでこの先の人生、何か起こってもきっと大丈夫。自分の直感を信じて進んでくださいね」


その言葉を聞いた瞬間、時が止まったように感じた。

……あれ、なんだろうこの感覚。


言い終わると男性はお会計をして、サッと席を立った。

ちょうどトイレから父が戻ってきたので、別れの挨拶をし、お店を出て行った。あっという間だった。

父は席につきながら「帰られたね〜」と呟き、ぬるくなったビールを飲む。「そうだね」と返事をしてお皿に残ったおつまみを片付ける。「こんな交流久しぶりだったから楽しかったなあ」と言う父と余韻に浸ったあとお店を出たのだけど、最後に言われた言葉が妙に引っかかった。

ーーこの先の人生、何か起こってもきっと大丈夫。自分の直感を信じて進んでくださいね。

あれは一体なんだったんだろう。

なんで私にあんなことを言ったんだろう。

ちょうど、勤めているテレビ番組制作会社を辞めてフリーランスとして挑戦してみたい、と思っていた矢先だった。映像で発信するのではなくて文章を書いて発信していきたい。だけどなかなか決断ができなくて、ずっと悩んでいたときだった。

飲み屋の席での出来事だから、別に大したことではない。なんてことない、いつもの酒の席でのコミュニケーションである。だけど、私は男性の言葉に全てを見透かされていたような気がしてならなかった。

この先の人生、私は大丈夫なのだろうか。

未経験で新しい世界に飛び込んでいいのだろうか。

「文章を書く仕事がしたい」というこの気持ち、大切にしていいのだろうか。

ぐるぐると悩んで悩んで悩みまくっている真っ暗な道に、一筋の光が刺したような気がした。

……直感を、大切にしよう。

「締めにラーメンが食べたい」と言って足を止めようとする父を引っ張りながら、小さく決意する。



あれから月日が経過して、私は今年フリーランス3年目に突入した。

会社を辞めて、ライターとして憧れだった「文章を書く仕事」ができている。文章にまつわる仕事ができることが嬉しくて嬉しくてたまらない。ああ、私にもできたんだ。やりたかったことって叶うんだと、ちょっとした瞬間に喜びを噛みしめる。

一人で働くことがほとんどなので、仕事終わりに飲みに行く……なんてことはめっきり減ってしまったけれど、お酒の場は好きでちょくちょく飲みにいくことが多い。

ただ、飲みにいくたびに、ふとあの男性を思い出す。

彼とお酒を飲んだのはもう何年も前になるのに、どうしてか未だに忘れらないのが不思議である。

何か困ったことがあったとき。人生で迷ったとき。どうしようもなく落ち込んだとき。私はなぜかその人の「大丈夫」「直感を信じて」という言葉を思い出してしまう。

ーーこの先の人生、何か起こってもきっと大丈夫。自分の直感を信じて進んでくださいね。

全く知らない人だし、今はもう顔さえも思い出せない。もしかすると全部夢なのかもしれない。そのくらい不思議な感覚だったのに、なんで今も心に残っているんだろう。

迷宮入りのこの謎をたまに思い出して「あれはなんだったんだろう…」と考えてしまう。あの人は何者だったんだろう。

だた一つ言えるのは、私はその言葉で自分の「直感」を優先できるようになった。

ざわざわとした気持ちになる場合、大抵よくないことが起こる。フリーランスは自分で自分の身を守らないといけないからこそ、この「なんとなく良い・悪い」が判断できるスキルは必須である。

自分で全て決断していかなければならない働き方を選んだからこそ、なんだかお守りのように思えるのだ。

大切なことを教えてくれてありがとう。

そして、背中を押してくれてありがとう。

願わくば、もう一度グラスを合わせて、お礼と真相を聞いてみたいな。

最後まで読んでいただきありがとうございます!短編小説、エッセイを主に書いています。また遊びにきてください♪