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【第8話】 今夜、ご自愛させていただきます。

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月明かりが病室を照らした。カーテンを開けたままの窓辺に近づき空を見上げてみると、まんまるな月が浮かんでいて思わず「わあ」と声が出る。「クリームソーダのアイスみたい」と言うと、「大きいなあ」と楽しそうな声が返ってきた。

急に、今までぼやけていた“現実”が、輪郭を濃く太いものにした。不安が私をじわじわと覆っていく。

私の気持ちを察してか、祖母は「綺麗なお月様」と微笑んだ。その柔らかく優しい声にふっと力が抜け、同時に泣きたくなった。

「さあ良子ちゃん。乾杯」

祖母は優しい笑顔のまま、紙コップを少し持ち上げて私に促す。溢れそうになる涙を引っ込めるために、グッと下唇を噛んだ後「夜のお茶会に乾杯」と紙コップを合わせた。



***



「休み?」

「そうなんです。良子さん来週の木曜日から日曜日までいないんですよ」

営業時間が終了し、レジの締め作業をしていた杏子ちゃんが答える。話の流れで来週のシフトについて話題が上がったものの、来週は公休と繋げて有給休暇を取得していた。

「へえ……良子ちゃん、いないのか」

先日出張で名古屋に行ってきたらしい結城さんは、紙袋の中から可愛い包装紙に包まれたお土産を取り出している。

「なんですか?残念なんですか?」

杏子ちゃんの結城さんへの調査は今も続いている。「俺は杏子ちゃんがいなくても寂しいよ?」と答える結城さんは相変わらずの様子だ。

「結城さんって、本当そういうところありますよね」と杏子ちゃんは呆れたように答えている。一回り以上年齢が離れている二人のやり取りを見ていると、父と娘のようで思わず笑ってしまいそうになる。いつもの日常に傾いていた心が少しだけ楽になった。

「どこか旅行にでも行くの?」結城さんは包装紙を留めているシールをピリピリと剥がしている。ビリッと豪快に破かないタイプのようだ。

「いえ。今回はその、友人の結婚式で」

「……ふうん」

「え!結城さん!ここのお菓子、超有名なところじゃないですか」

杏子ちゃんの声が弾ける。人気店のパティスリーのお菓子を買ってきてくれたそうだ。

「ここのパウンドケーキ食べてみたかったんです」

「杏子ちゃん、一人一つまでね」と言いながら顔を上げると、杏子ちゃんは三袋も手に取っていた。「あ、こら」と注意しようと思ったら「夜勤だったから!お腹空いたから!」と言い訳をしながら誤魔化し「お先に失礼します!」と慌てたようにカウンターから出て行った。

「あはは。杏子ちゃんやっぱ面白いな」

結城さんはケラケラ笑いながら、紙袋の中からもう一箱同じお菓子を取り出した。

「二箱も買ってきてくれたんですか」

「婦人服売り場のスタッフ陣は、甘いもの好きが多いからね」

そう言って包みを開けて、お客様からは見えないカウンター内に二箱置く。箱に「名古屋に行ってきました。皆さんでどうぞ」と走り書きをした付箋をつけている。

「ありがとうございます。皆さん喜ぶと思います」

お礼言い、私もそろそろ帰る旨を伝えると「良子ちゃん、結婚式じゃないよね?」といきなり言われてドキリとした。

「何か、あったの?」

スッと真剣な眼差しを向けられて思わず祖母の顔が浮かんだ。

ーー結城さんって、本当そういうところありますよね。

杏子ちゃんの言葉を思い出す。本当に、この人はそういうところがあるのだ。

杏子ちゃんや他のスタッフには心配をかけないように今回は理由を伏せていたけれど、本当は誰かに話したくて仕方がなかったのかもしれない。


***


祖母の体調が芳しくないと聞いたのは、秋の終わりだった。病院で精密検査をしたところ病気が見つかった。

春頃から「祖母の食欲が低下している」とたまに母から電話で聞いていた。すぐに病院に連れて行けば良かったのに、当時の私は高齢なので食事の量が減ることもあるだろうと思い込んでいたのだ。祖母がまさか大きな病気にかかっているなんて。こんなに急にやってくるなんて。私を含めて祖母も母も、夢にも思っていなかった。

病魔は静かに、確実に祖母の体を蝕んでいく。「これはおかしい」と思い母が祖母を大きな病院へ連れて行ったときには、かなり進行していた。

「もっと早く、病院連れて行ってあげたらよかった」

電話越しの母の涙声に“後悔”が一気に押し寄せてきた。

なぜあのとき気がつかなかったのだろう。なぜもっと早く病院に行ってと言えなかったのだろう。なぜ病気なわけないと思い込んでいたのだろう。

ポタリと涙が落ちる。一度落ちたらダムが決壊したように、一気に溢れ出てきた。何も解決しないのに「ごめんね、ごめんね」と電話口で謝る。最初の頃に気がつかなくてごめんね。大丈夫だろうと思い込んでいてごめんね。病院に連れて行くのが遅くなってごめんね。

母の「ごめんねえ」という声が聞こえてきて、その声にまた涙が溢れてくる。とにかく私たちは誰かに謝りたくて仕方がなかった。


***


「お母さん、明日ばあちゃんのところ行くやん?」

「うん」電話越しの母が答える。

「私来週に帰るけどさ、夜にやりたいことがあって」

祖母が入院してから、私は休みを利用して頻繁に帰省するようになった。母は娘が無理をしているのではないかと心配しているらしく、「無理しなくてええよ」と言ってくれるけれど、私は祖母に会いに行きたかったし、母一人が背負い込んでいないか心配だった。

先日、2日間の連休で帰省する前に、私は“あること”を思いついて母に相談をしていた。「何企んでんの?」と母の怪しげな声が聞こえたが気にしない。入院している祖母に少しでも楽しい気持ちになってほしくての提案だった。

「あんな、明日の夜……」


***


床頭台しょうとうだい に収納されている天板は、引くとミニテーブルの代わりになる。持ってきた魔法瓶と急須、緑茶の茶葉を置く。棚の中には紙コップと紙皿が入っていると母から聞いていたので、有り難く使わせてもらうことにした。

魔法瓶には熱湯が入っている。祖母が入院している病室では電気ケトルの持ち込みができなかったため、お湯は実家で淹れて持ってきた。急須に少しお湯を淹れて温める。温め終わったらお湯は備え付けの洗面台で捨てて、緑茶の茶葉を入れた。

茶葉の種類にもよるけれど、少し温度を下げたお湯を使うと、茶葉の旨味成分が引き出されやすい。今回私が使う茶葉も、熱湯ではなくて少し温度を下げたお湯を使うのがよさそうだった。魔法瓶のお湯は少し時間が経過しているから熱々ではないけれど、もう少し下げておきたい。一度紙コップに注いでから急須に入れる。この移し替える作業で、お湯の温度は数度下がるのだ。

「良子ちゃんが淹れてくれたお茶、美味しいわ」

「良かった」

「さすがはよう勉強してるだけある」

紅茶をもっと美味しく淹れるためにはどうしたらいいのか。ご自愛を始めて好きな紅茶を調べていくうちに、日本茶の淹れ方も勉強するようになった。お茶の世界は奥深い。まだまだ勉強を始めたばかりだけれど、適当にお茶を淹れることが無くなったのは成長した証のように感じる。

「そうそう。そこの袋にどら焼きが入ってるんよ。今日お母さんにね、買ってきてもらったんよ」

言われた茶色い紙袋を開けると、私が昔から好きな和菓子屋のどら焼きが入っていた。

「良子ちゃん、どら焼き好きやろう」

その言葉に勝手に涙腺が緩み出す。子どもの頃、祖母の作るどら焼きが大好きで、何度も作ってもらっていたことを思い出す。ここの和菓子屋さんでどら焼きを買い、実家にお土産として持っていくことも多かった。

「こうやって良子ちゃんと話すの、ええなあ」

ふと「夜のお茶会」をしてはどうだろうと思った。普段は昼間に母がお見舞いへ行く。私も一緒に行く予定だったけれど、平日は20時まで面会ができる病院だったため、せっかくなので夜にも顔を出したいと思った。個室なこともあり、夕飯後の一時間だけ祖母とゆっくりとお茶を飲みながら話がしたくて、夜のお茶会ができないか相談をしていたのだ。最近祖母の体調が安定していることもあり、無事にOKをもらった。

「うん。ばあちゃんどら焼きありがとう。これめっちゃ好き」

祖母は持ち込みの食事はできないため、どら焼きは私だけが食べる。夜のお茶会をするからと祖母が母に頼んで準備してくれたのだろうと思うと、食べる前から鼻の奥がツンとなった。

「いただきます」

久しぶりに食べたどら焼きは、ふんわりしつつもしっとりとしていて美味しかった。あんこは昔から変わらない上品な甘さ。小豆のほくほく感も当時のままで子どもの頃を思い出す。口が甘くなったところで、淹れた緑茶を飲む。甘さと渋さのマリアージュに思わず「はあ」と声が出た。

「美味しい?」

「うん。昔と変わらんくて美味しい」

「良かった」

祖母はゆっくりとお茶を飲む。同じように「はあ」と一息ついて、顔を見合わせて一緒に笑った。

「ばあちゃんもね、昔からお茶の時間好きやったんよ」

実家では毎日のようにお茶の時間があった。必ず15時か16時頃に、母はお茶を淹れて子どもたちを呼ぶ。特別な何かが出てくるわけではなく、スーパーで買えるおかきや煎餅をはじめ、クッキーやシュークリーム、手作りのケーキなどさまざまなおやつが出てきていた。ワイワイ言いながらお茶を飲んでおやつを食べるひとときは、私にとって豊かな時間だった。実家でのお茶の時間は、今の私の生活にも強く反映されている。

「お母さんのお茶好きって、ばあちゃんの影響やったんや」

その母のお茶好きは、見事に私に受け継がれている。

「こうやってお茶飲みながら話しする時間があるとね、自分を知れるんよ」

すうっと息を吸い込んで祖母は言う。

「今日学校でこんなことがあった、あんなことがあった、今度あれをしてみたい、今こんな気持ちやねん……。そんなことがおやつを食べながら自然と口から出てくるんよ」

「うん」

「今日どんなことがあった?何が楽しかった?って聞かれることがないとね、忘れていくんよね。けどお茶を囲んでると自然とそんな話になる。聞かれるし、ばあちゃんも聞く。繰り返してると、自分の気持ちがよく見えるようになるんよ」

祖母の話を聞いているうちに、実家にいた頃の自分を思い出した。家族とワイワイ言いながらおやつを食べていたとき、いつも自分の気持ちを素直に話していたように思う。自分と対峙し、寄り添うこの時間は、当時の私にいい効果を与えてくれていたのだ。

と同時に、私が今行っている「ご自愛」にも思いを馳せる。単にお茶好きだからだと思っていたけれど、お茶の時間は昔から私にとって大切な存在だったことに気がつく。

「良子ちゃんもきっと、お茶の時間で自分を知ってきたんやろうなあ」

ご自愛が私にとって何か、まだはっきりとした答えは出ていないけれど、自分のことを少しだけ知れてきたように思う。きっと私にとってのご自愛の基本は“お茶の時間”なのだろう。

「ありがとう。なんか今日は原点を知れた気がする」

「そう。今日も良子ちゃんのセーター可愛いなあ。ハイカラさん……」

そう言うと、祖母の声が途切れ途切れになっていった。

慌てて「ばあちゃん!?」と声をかけると、穏やかな寝息が聞こえてきた。ホッと胸を撫で下ろして、ゆっくりと紙コップを片付ける。祖母の布団を掛け直してから窓の外を見た。ちらちらと雪が舞っている。

本当はもっともっと話がしたかった。でも必ず私は途中で泣いてしまうだろう。これで良かったのだろうか。もっとできることはあったのではないだろうか。なんて気持ちはいつだって消えないけれど、この夜はこれで良かったのだ、きっと。

話の途中で寝てしまうところも、洋服を褒めてくれるところも、いつもの祖母で、いつものお茶の時間だった。そんな些細なことが無性に嬉しかった。

着ているセーターに目をやる。シンプルな淡いベージュのセーターで、ふわふわとした毛並みが特徴的だ。また着てこようっと。

「じゃあまた来るね。おやすみ」

大きめの字で書いた手紙を枕元に置いて、そっと病室を出た。


***


誰もいない婦人服売り場のカウンター内で、祖母の状況と夜のお茶会をしたことを明るく手短かに話した。結城さんは少しの間だけ黙った後、軽やかな声で言った。

「良子ちゃん、お茶飲みに行こう」

「へ?」

「明日そんな早くないでしょ?ちょっとだけ付き合ってよ」

「え、でも」

「駅前のカフェなら遅くまでやってるからさ。従業員入り口のとこで待ってるね」

鞄を持ってひらりとカウンターを出る。結城さんらしいスピード感にポカンとしていると、彼は振り返って言った。

「夜のお茶会しよう。それで話そうよ、いろんなこと」

「後でね」と手を振りながら行ってしまう後ろ姿を見つめていると、なぜかじわじわと鼻の奥が痛くなってきた。

私はきっと誰かに話したくて、聞いてほしくてたまらなかったのだ。来週会う祖母のことも。母のことも。整理がついていない自分の気持ちも。

「……お茶の時間があって良かったな」

呟いてカウンターを出る。

そういえば駅前のカフェは、チャイが美味しいらしい。結城さんに勧めてあげようかな、なんて思いながらロッカーへと向かった。


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illustration by:キコ

最後まで読んでいただきありがとうございます!短編小説、エッセイを主に書いています。また遊びにきてください♪