見出し画像

ユン・チアン「マオ 上」読書感想文

著者は “ 張戎 ” で “ チャン・ユン ” と読む。
英語表記が “ JUNG CHANG ” で、カタカナでユン・チアン

1952年、中国の四川省生まれ。
両親とも、中華民国建国のときからの共産党の幹部。

1965年、14歳で文化大革命の混乱を生きる。
1978年、26歳のとき、中華民国初のイギリス留学を果たす。

1991年に、それまでの体験を『ワイルド・スワン』で著してイギリスで発刊。

文化大革命の恐ろしさが、これでもかというほどに描かれているノンフィクション。

当時の中国では出版禁止となる。

もちろんユン・チアンは、留学が終わっても中国に帰国することなく出版した。

その、ユン・チアンの第2弾が、この『マオ』になる。
“ マオ ” とは “ 毛 ” と書く。

あの毛沢東のこと。

副題に「誰も知らなかった毛沢東」とあるくらいだから “ 毛沢東神話 ” をぶち壊していく本。

上巻だけで590ページある分厚い本。


読んでいる途中の感想

本当によかった。
この時代の中国に生まれてなくて、という意味で。

毛沢東の恐ろしさで、読んでいる最中から、天井を見上げるようにして何度もそう思わせる。

敵と戦うよりも、同志を蹴落とすことで、毛沢東はどんどんと共産党の権力を握っていく。

革命といっても、思想や理念などない。
やっていることは、ただの暴力になる。

こんな時代・・・。
自分のようないい人は真っ先に死んでいる・・・。
本人が言うのもはなんだけど。

とにかく、驚きの内容。
「本当なのか?」と思ってしまう。
が、事実に近いと捉えてもいいのではないか?

いや、事実かどうかは小さな問題。
スケールがちがう。
仮に、話半分だとしても、十分に強烈。

瞬間の出来事のようにして、1000人2000人の単位で人間が死んでいく。

1行の間でそうなのだから、1ページ2ページの間には、1万2万とバンバンと死んでいく。

当時の中国には5億の人々がいて、毛沢東は7000万人か8000万人を死に追いやっているのだ。

変な話だけど、このくらいのペースで死が描かれないと、とても7000万人に追いつかない。

それも、死に至る原因が、敵との戦いによるものだったら、まだ話はわかる。

革命という暴力や、政治の権力争いや、もちろん戦争でも、多くの同志や農民や兵士が、それこそ無駄にバンバンと死んでいく。

単行本|2005年発刊|590ページ|講談社

共著:ジョン・ハリデイ
訳:土屋京子

原題:MAO The Unknown Story

ネタバレあらすじと感想

毛沢東の幼少期からはじまる

1893年。
毛沢東は、中国雲南省に生まれた。

父親は貧農から軍隊へ入り、除隊後は商売で成功する。
厳しく育てられたらしい。

父親には、反感を抱く。
が、母親には、敬愛の念を抱く。

両親ともに、毛沢東が20歳をこえたころに死去している。

・・・ 10年以上にわたる調査に基づいて書き上げた、と、ユン・チアンは前書きに記している。

毛沢東が生まれて、本編ははじまる。
下巻になって、82歳となった毛沢東が死去したところでピタッと終わる。

それらすべてが、調査した資料を示しながら書かれている。
憶測を交えないように、慎重に書いているのが伝わってくる。

1911年、辛亥革命で清が滅亡する

この頃、中国社会は劇的に変質しはじめていた。
辛亥革命がおこったのだ。

260年余りにわたって中国を支配していた清朝は崩壊。
臨時大総統の孫文が、中華民国の樹立を宣言した。

が、中央政府は弱体。
地方の実力者が、それぞれに実権を握る。
“ 軍閥 ” という。
この軍閥が散発的に戦闘を続けていた。

毛沢東は学校には通うが優秀ではない。
のちに “ 建国の父 ” と称される兆候は全くなかった。
リーダーシップも人望もなかった。

・・・ ユン・チアンが示す資料には、毛沢東を知る人々へのインタビューもある。

全編で、100名ほどインタビューしている。

毛沢東の死後から20年ほど経った今だから話せたのだな、と察する内容もある。

26歳のときに中国共産党員に

毛沢東は、農業も肉体労働も極度に嫌っていた。
20代前半には、教師もやるが熱心ではない。
読書は好んでいた。

あるとき、政治活動で北京へ行く。
その地域の軍閥を批判する活動だった。

そのときに中国共産党員(以下、共産党)になる。
26歳だった。

これは、イデオロギーに触発されたのではない。

ソ連のスターリンは、中国に共産党を組織しようと指導員を派遣して、資金援助もしていた。

流行のようにして拡大していく共産党の、その時、その場所にいたというだけだった。

地元に戻った毛沢東は『文化書店』という本屋を開く。
共産党の関連本を売り、支部を開設。

支部の党員は3名。
毛沢東が入ってくれというので入党した、という者だった。

月々の活動資金を、党本部から受け取るようになる。
政治活動よりも、自身の生活水準が上がったことに満足していた。

・・・ ユン・チアンが取り上げる資料には、個人の日記や手紙も含まれる。

写真も掲載される。
地元の人との雑談も盛り込まれる。

リアリティーはある。
事実はともかく、机上で書き上げた本ではないのは確かなようだ。

熱心ではない共産党員

毛沢東は、熱意や雄弁さで、党員や支持者を獲得するようなことはなかった。

共産党員の重要な仕事である、労働組合活動もすることもなかった。

活動として記録に残るのは、地区のライバルに嫌がらせをして追放したこと。

それにより、その地区の責任者に任命される。
上海に出て、共産党本部の役職にも就いた。

が、入党4年目の31歳のときには役職を解任される。
本部には、居場所がなくなる。

地元に戻ることになるが、これは挫折である。

・・・ ユン・チアンは、史実の背景を明らかにしていく。
参考としているのは、文献だけではない。

通信文、公文書、機関紙、著作物、と取り上げられる資料は幅広い。
同盟国だった、ソ連やアルバニアでの未発表の文書もある。

できるだけ先入観をなくして、毛沢東の人物像に描くようにしているのは十分に伝わってくる。

ソ連のスターリンの思惑

その頃、為政者である国民党は、ソ連のスターリンに援助されていた。

国民党としては、各地の軍閥を従属させて中国統一の目標を達成するために、スターリンの軍事援助が必要だった。

その見返りとして、外モンゴルの占領と、ウイグルの併合も認めるとしていた。

スターリンの常套手段として、ある政権と友好的に外交をしている裏では、その政権を転覆させるための策謀をする。

そんなスターリンの意向もあって、共産党と国民党は協力関係になる。
『国共合作』という。

新興の共産党は、スターリンの意のままに動く手先であったが、まだ非力だった。

『国共合作』により、国民党をコントロールするのがスターリンの狙いだった。

国民党に合流した共産党員により、各地に “ 農民協会 ” という組織が設立された。

ソビエト式の革命方法だった。

スターリン率いるモスクワ指導部は「農民問題は全政策の中心問題である」としていた。

「封建主義の残党に対して、農民土地改革を断行すべし!」と中国の共産党に指示を出していたのだった。

これは貧農と富農の対決を意味していた。
最も貧しくて、最も粗暴な活動家の暴力が一気に噴出した。

食料や金品の略奪がはじまる。
殴り殺される者が多発した。

中国は、はじめて社会構造の崩壊という事態を迎えた。

これらの騒乱の指導者として注目されたのが、33歳となっていた毛沢東だった。

・・・ ときにはユン・チアンは、推測も交えていく。
状況からいえば、もっともな推測でもある。

控えめな推測でもあるので、割合と公平には感じる。

毛沢東の特殊な経験

“ 農民協会 ” を指導する毛沢東の元では、暴力と混乱が加速されていた。

毛沢東は、このとき初めて、自身の言葉ひとつで人の生き死にが決まるという経験をした。

理論に導かれて暴力に辿りついたのではない。
暴力に魅了されたのだ。

それまでは穏健派だとしていた本人も、全く気がついてなかった嗜虐性だった。

すでに暴力への嗜好があって、暴力への衝動が毛沢東の性向に合っていたと思われる。

「この時期に初めて態度が変わった」と、のちに毛沢東本人も語っている。

モスクワ指導部では、毛沢東の評価が一気に高くなる。

毛沢東は、イデオロギー的には危なかしい。
が、本能的にはレーニン主義に値する人物だ、ソビエト式の共産主義者である、という評価だ。

対して、中国在任の共産党幹部の評価は下がった。
“ 農民協会 ” の暴徒による残虐行為に激怒して、暴力は抑制しなければならないと主張したからだった。

共産党本部は、モスクワ指導部に従った。
毛沢東を追い出してから2年余りを経て、本部に復帰させた。

・・・ 読んでいて「すごいな」と思わせるのは、内容もそうだけど、さほどユン・チアンの悪意を感じさせないことだった。

ユン・チアンの世代は、毛沢東は神格化されていた。

「ワイルド・スワン」を著すときには、それは嫌悪感を含むようになっている。
憎悪となっていて、恨みだって盛大にあるとは想像はつく。

もっと、けちょんけちょんに毛沢東を批判しても、捏造してでも大悪人に仕立て上げたとしても、ヒステリックになっていたとしても、読んでいるこっちは悪意は割り引くつもり。

そうなるだろうなと読む前には思っていたけど、そうさせることなく描いている。

反モスクワ、反スターリンで国共分裂

このころ、国民党の指導者の孫文が死去。
後継者の蒋介石(しょうかいせき)が、反モスクワ、反スターリンの姿勢を見せた。

国民党の中には “ 農民協会 ” の暴挙に反発も出ていた。
今度は『国共分裂』に転じる。

共産党は非合法組織となった。
弾圧で数万人が処刑される。

スターリンは「武力によって中国を征服する長期的目標のもとに活動せよ!」と指令を出した。

こうして内戦がはじまった。

モスクワ指導部は、中国の主要都市すべてに工作員を配置して、武器や資金の援助を行い、軍事訓練も増強した。

革命軍が組織された。
国民党軍から離脱した部隊も加わった。

革命軍の当面の策は、根拠地を築くことだった。
そうすれば税金も徴収できるし、食料も調達できて、兵士も招集できる。

毛沢東は、非公然となった党本部から、地方の革命軍に向かう。

・・・ いい意味で、期待を裏切られた読書でもある。

客観的な目線で書かかれた毛沢東像よりも、悪意に満ちた毛沢東像を期待していたのだった。

当事者が書かなければ、悪意が醸し出せない。
その上で、そこの判断はこっちでするのも読書の楽しいところ。

でも、ユン・チアンは冷静に資料を示して、客観的にも毛沢東を書いていくのだった。

「権力は銃口から生まれる」

毛沢東は、十分に実力行使の重要さを知っていた。
「権力は銃口から生まれる」と、この頃に発言している。

しかし毛沢東は、上海の党本部の役職ではあるが、各地に組織された革命軍の指揮権はない。

現地に赴いた毛沢東は策動した。
1500名の部隊を乗っ取ったのだった。

敵である国民党の部隊が迫るなか、味方に対して虚偽の情報を流して現場を混乱させる。

混乱に乗じて、党本部には無断で命令を出して、指揮官の位置に就く。

国民党との戦闘には加わることなく、奥地に部隊を進めて、その地域を革命根拠地とした。

中国は広い。
鉄道の建設もはじまっていたが、主要都市が結ばれるのも後のことだった。

大きな道路も通ってない地域もある。
そういった地域は、軍閥の支配もゆるいので、革命根拠地とできたのだった。

このときも、このあとも、毛沢東の革命根拠地での施策は “ 焼畑式 ” だった。

徴発部隊が、住民から略奪するのみ。
奪い尽くしたら、次へいき略奪するだけ。

「搾取階級と闘う!」というイデオロギーを掲げていたものの、実際にやっていることは匪賊の襲撃となんら変わらない。

もちろん住民からの支持もない。
指揮官や兵士からは不満も出る。
人望もなかったので統制もとれてなかった。

これには、身辺の警護の強化して、反抗する者の公開処刑を繰り返して、恐怖を植えつけることで統制を維持した。

毛沢東の匪賊という意味の “ 毛賊 ” は、一帯で悪名を馳せる存在となる。

・・・ この時点で、上巻の半分も過ぎないが、毛沢東の原形を見たような思いがする。

これはあとになるが、毛沢東は効果的な政治手法を発明した、スターリンやヒトラーでも考えつかなかった方法を編み出した、とユン・チアンは解説している。

公開処刑と政治集会を合体させて、それを強制参加にさせたことだという。

あとは、人民への弾圧を、専門機関が行わないことも。
同じ村や、同じ職場の中で、看守役と囚人を仕立てあげる。

すべてを人民のほうから自発的に行ったと擬態する。
人民がはじめたから私は同意した、私がやれと言ったのではないという態度だ。

毛沢東は、このあとにも多くの “ なんとか運動 ” というのを起こして、集大成ともいえる “ 文化大革命 ” も起こすが、すべて同じ擬態が施されているのがわかる。

前作の「ワイルド・スワン」を読んで、今ひとつピンとこなかった部分が、くっきりとしてきた。

共産党本部から除名される

上海の党本部は、毛沢東の暴挙を見過ごしてない。
断固とした態度で、毛沢東の除名を決議した。

対して毛沢東は、決議を届けた伝令の文書を秘した。
表向きは、党本部に従うかのようにして、従順な部下に党内のポストを譲る。

そして、新たな肩書きをつくって、事実上の支配を続けた。

相変わらず、敵の国民党軍との戦闘は避けて、立てこもるようにして大陸の奥地を根拠地としている。

ほかの革命軍と協働することもない。
多くの革命軍が戦いに敗れて、次々と根拠地を失っていく中で傍観しているだけ。

結果として、それが党本部における立場を優位にさせた。

最大の革命軍の部隊が大敗して、毛沢東の勢力と合流して、陣容が増大したのだ。
革命軍を救った人物という立場にもなった。

モスクワ指導部の注目も評価も、さらに上がっていく。
スターリンは、命令に盲従する人間ではなくて、勝ち馬を必要としていたからだった。

それらの影響力を背にした毛沢東は、党本部のポストへの復帰を求める。

党本部は承認した。

・・・ 客観的な事実かどうかは、正直なところわからないけど、客観的にしようとユン・チアンが一生懸命なのが伝わってくる。

30年という時間がそうさせたのか。
書くことがそうさせたのか。

事実がどうのこうのよりも、ユン・チアンは過去の辛い出来事をしっかりと乗り越えたのだなとは感じて、心が広がる気持ちの読書でもある。

6章からの大まかなあらすじ

ここまでで、5章が終わる。

6章は「朱徳を押さえこむ」(1928~1930・毛沢東34歳~36歳)となる。

ライバルである朱徳を蹴落とす。
これで、完全に革命軍を掌握する。

毛沢東は基本のようにして、外敵を利用して、味方を追い落として権力を得ていく。

毛沢東は天才的な戦略家だと以前に何かで読んだけど、敵と戦って勝つとは考えてないらしい。
なにかあれば逃げの一手。

進出してきた日本軍を、国民党軍にぶつける。
日本軍は、どんどんと深みにはまっていく。

“ 漁夫の利 ” を得るのは毛沢東となる。
まるで日本軍が、毛沢東の手伝いをしている錯覚もある。

理念に燃えてゲリラ戦を指揮して “ 建国の父 ” となった、というのは美化されているとは十分にわかった。

第31章「共産中国ただひとりの百万長者」(1949~1953・毛沢東55歳~59歳)まで進んで、上巻は終了する。

この記事が参加している募集

読書感想文

ノンフィクションが好き