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ユン・チアン「ワイルド・スワン 下」読書感想文

上巻では、著者の祖母と母親が主人公。

内戦の末に、中華民国が成立する様子がノンフィクションで描写されていく。

下巻になると、文化大革命がはじまって、著者が主人公になって体験が語られる。

14歳の著者は、もう学校どころではない。
紅衛兵となって文化大革命に参加する。

文化大革命の特異な面が、次から次へと書かれている。

神格化された毛沢東を疑うことなく、文化大革命に従事する若者の心情も描かれていく。

残りのページが少なくなってきて毛沢東が死去する。

文化大革命は、開始から10年を経て終息する。
毛沢東の側近も失脚して、一気に雰囲気が変わる。

母親は、名誉回復を果たして党幹部に復帰する。
結婚している姉は、都市部への帰住ができた。

著者は、中華民国初のイギリス留学を果たして、この本を書く決心をしたところで終わる。


本編を読み終えての感想

この本を、冬に読んでよかった。
夏だったら、またちがった印象があったのかも。

そして不思議だ。

悲惨で残酷な出来事が、これでもかというほど繰り返し書かれているのだけど、寒い中で読み進めながらでも、どこかに希望というか、明るい気分が終わりまで保てられた。

普通だったら、このような本を読むと、憤りというのか、嫌悪感を抱くほうが強いのではないのか?

いったんそんなふうに思ってしまうと、また、懲役病の一種である自己嫌悪が少しくる。

もしかして自分は、人の苦しみというのがわからない人間ではないのか?
そんな人間だから、受刑者なのではないのか?
やはり自分は、人の心がない鬼畜なのだろうか?

なんだか、気持ちがウネウネしている。

単行本|1993年発行|378ページ|講談社

訳:土屋京子

原題:WILD SWANS Three Daughters of China

※ 筆者註 ・・・ 1991年にイギリスで発刊されました。今はわかりませんが、当時は中国で出版禁止となったようです。

訳者あとがきを読んでからの感想

自己嫌悪がきそうなまま本編を読み終えて “ 訳者あとがき ” に進むと、そっくりそのまま共感した。

以下である。

『これほど残虐で苛酷で異常な時代を書いているのに「ワイルド・スワン」はあたたかく、すがすがしい。

それは、あの狂気の時代にあって、なおも正義を信じて、倫理をつらぬいて生きようとした人々の姿を、ユン・チアンがバランスのとれた感性でしっかりと見ているからだ。

人間の醜い側面をここまで徹底的に描きながら「ワイルド・スワン」が最終的に心に語りかけてくるのは、強くて美しい人間の精神に対する希望と信頼である。

残虐だけど崇高であり、悲しいけど希望に満ちている。』

訳者の土屋京子が記す通りだった。
悲惨ではあるが、どこかあたたかくて、すがすがしい。

残虐ではあるが、一方では人間への信頼も感じられたと、最後に気がついた読書だった。

ざっくりした文化大革命

要は「毛沢東の権力闘争」ということである。
副主席の劉少奇など、乱入した紅衛兵に暴行されている。

1966年 新聞が文化大革命を書き立てる
1969年 劉少奇が軟禁、のち死去
1971年 林彪がソ連へ逃亡中に死去
1976年 毛沢東死去、側近の “ 4人組 ” 逮捕
1977年 鄧小平の復権、党による終結宣言

毛沢東の意に沿わない者は徹底して糾弾されて追い立てられて、それ以外の者もとばっちりをうけて、2000万人ともいわれる死亡者がでる。

登場人物

玉芳(ユイ・ファン)

著者の祖母。
1909年、満州義県生まれ。
文化大革命のさなかに死去する。

夏徳鴻(シャ・トーホン)

著者の母。
1931年、錦州生まれ。

中国共産党の幹部だったが、文化大革命により職場を追われ、思想改造のために農村送りとなる。

のち名誉回復を果たす。

張守愚(チャン・シオウェイ)

著者の父。
1921年、四川省・宜賓(イーピン)生まれ。
王愚(ワン・ユイ)から改名する。

中国共産党の高官で、正しいと思ったことは曲げない人物。
文化大革命により、地位を剥奪されて、職場も追われる。

毛沢東批判を行ったことにより名誉回復できないまま死去。

張戎(チャン・ユン)

著者。
英語表記が JUNG CHANG でユン・チアン。

1952年 四川省・宜賓(イーピン)生まれ。
1965年 文化大革命で紅衛兵になる。
1978年 イギリス留学。
1982年 言語博士号取得。
1991年 「ワイルド・スワン」を発刊する。

ネタバレあらすじ

1965年、文化大革命がはじまった

人民日報は、毛沢東の論説を次々と掲載する。

「毛主席のあとに続いて、史上空前の偉業に参加せよ!」
「毛沢東思想は、われわれの命綱だ!」

文化大革命が中国全土ではじまった。
合わせて登場した紅衛兵に彼女は加入する。

「反動的、ブルジョワ学術権威を摘発せよ!」
「まず破壊せよ!建設はそこから生まれる!」

紅衛兵を名乗る若者の集団は、教師を「反革命的だ!」と吊るし上げる。
紅衛兵は校内にたむろして、学校の機能は停止する。

とはいっても、文化大革命の方向は曖昧だった。
具体的なものがなにもない。

これは毛沢東の手法だった。
人民が考えて運動をはじめた、人民が自発的に運動をはじめた、という体裁を整えるためだった。

革命とは破壊と暴力である

若い紅衛兵の矛先は、破壊と暴力に向かっていく。

革命とは破壊と暴力である、革命とは上品な行為からは生まれない、革命とは暴動である、と毛沢東がいっているからだ。

街中に出動した紅衛兵は、とりあえずといったようにして、喫茶店を「反革命的だ!」として営業を中止させる。
破壊された店もある。

紅衛兵は「造反有理!」「革命無罪!」というスローガンを叫んで、暴力もエスカレートしていく。

文化人の自宅へ押しかけて、引きずり出して殴り、ベルトで叩き、集会に連れていき「ブルジョワ的だ!」と罵る。

紅衛兵の集団は、各地と連絡を取り合い、破壊と暴力は全国に広まった。

社会は混乱するが、警察はなにも対応しない。
上位組織である共産党が認める政治運動だからだ。

止めたものなら、警察のほうが「反革命的だ!」と批判されてしまう。

独裁制では、上位者の言動が絶対であって、法律による政治ではなかった。

一般市民も、情報がなにもない統制下だ。
なにがどうなっているのかもわからず。
どうすればいいのかもわからず。

騒乱は繰り返されて、社会は恐怖に押し包まれた。

文化大革命の実態

なにが反革命的なのか?
誰が敵階級分子なのか?

それらは、どこからも示されることはない。
党が文化大革命を指示したのではない。
すべては、人民による自発的な政治運動だと擬態された。

紅衛兵の、若い彼ら彼女らは暴走していく。

あげく、交差点の信号機にまで及ぶ。
信号の赤で止まるのは、革命的に正しくない。
赤は革命のシンボルカラーのため、本来は赤が進めで、青が止まるであるべきだ。

主張は飛躍していく。
車が右側通行であるのも政治的に正しくない、左側通行が政治的に正しいのだ。

そのように紅衛兵は叫んで、道路に飛び出して車の通行を変えようとする。
この動きが全国に広がって、交通は大混乱する。

見かねた北京の党中央が「交通規則は今まで通りでも反革命ではない」という声明が出されもした。

どどのつまりは、文化大革命は、政治運動に名を借りた毛沢東の権力強化の策動にすぎない。

しかし、毛沢東を神格化する教育を受けて崇拝していた若い紅衛兵は、そんなことはわからない。

「毛主席語録」を手に、破壊と暴力は繰り返される。

ある者は、毛沢東の写真が掲載された新聞を尻の下に敷いて座っていたとして、紅衛兵に死ぬまで殴られた。

ある者は、混乱に乗じて私怨を晴らす。
毛沢東の批判をしたと紅衛兵に嘘の通報をして、押しかけられた相手は理不尽に批判されて暴力を加えられる。

しかし今度は、通報者が同じような犠牲者になるといった具合に、誰もがいつ犠牲者になるのかわからない状況となる。

文化大革命の変化

文化大革命がはじまり2年が経つと、方向が変わっていく。

中国共産党内での派閥争いがむき出しになる。
お互いに武装して戦闘も行われる。

死者が多数出たことで、党中央からは「むやみに殺すな」という通達が出される。
このことで、暴力は執拗に陰惨になっていく。

職場では「批闘大会」といわれる吊るし上げが行われる。
中国共産党の高官である彼女の父親も、攻撃の対象となる。

自宅に軟禁となり、押しかけた紅衛兵たちに棍棒で殴られ、足蹴にされ、ガラスの破片の上に正座させられる。

集会に引っ張り出されて、批判され続ける。
大勢から罵声が浴びせ続けられた。

ついに父親は、精神異常となる。
母親も共に、拘禁されるに至る。

文化大革命がはじまり5年がすぎた。
すでに、副主席の劉少奇も失脚していた。

党の派閥争いも決着がつきはじめて、多くの要職が毛沢東派と入れ替わった。

両親は、思想改造のために農村へ送られる。
農村といっても、荒地を開拓する強制労働である。

彼女も、姉も、3人の弟も、思想改造のために別々の農村へ送られる。
食べるものにも困る生活であった。

農村に送られたのは、彼女たちに限らない。
紅衛兵も、多くが農村に送られていた。

党のコントロールも効かなくなってきて、邪魔な存在となった紅衛兵は「青少年は農村から学ぶ必要がある」として大規模に送られたのだった。

文化大革命は収束していく

7年が経つと、実際の問題も出てきた。
派閥争いで新しく要職に就いた者は、必ずしも有能な者ではなかったのだ。

行政が機能しなくなってきて、社会も疲弊していて、復旧も必要となってきていた。

やがて母親も農村から戻されて、以前の職場に復帰した。
彼女も兄弟も戻されて、家族は再会もできた。
父親は死去していた。

1976年に毛沢東が死去。

開放路線の鄧小平の復権で、社会の気風が一気に変わっていくのが感じられた。

彼女は、西側諸国への留学を考えるようになる。

1978年9月、彼女は北京空港にいた。
これからイギリス留学へ発つのだった。

飛行機は離陸した。
中国が次第に遠くなっていく。

彼女は、いちどだけ、今までの人生に思いを馳せる。
それから未来に目を向けた。

エピローグ、彼女の言葉で、1988年に

中国を離れてからは、過去のことはなるべく考えないようにしていた。

中国は大きく変わってもいた。
留学は終えたけど、そのままイギリスに留まる決心もした。

中国にいる母親の身を心配したのだが、それでも不都合は起こらなかった。

毛沢東の時代には考えられないことだった。

そして母親が、イギリスを訪ねてきた。
そのときに初めて母の口から、母の生きた時代、祖母が生きた時代の話を聞く。

母親が中国に帰っていったあと、記憶を呼び覚まして、残っていた涙で心をぬらした。

そして、この本を書こうと思った。

今の私は、愛情に恵まれいる。
充実した、心安らかな暮らしがある。

もう過去のことは、つらすぎる思い出ではなくなっていたのだった。


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