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2021年に読んだおすすめの10冊

今年は書こうか迷ったけど、毎年恒例。

なので、数を抑えて2021年に読んだおすすめ本の紹介を。順不同。
10冊選んでみてわかったが、今年結構読んだ経済の本やサステナビリティに関連した内容の本は、読んでおもしろく勉強にもなったが、ここで選ぶものに含めたいとは思わなかった。あと小説も割合的に多くなっていても、『三体3』のような作品も10冊のなかには入らない。それよりおすすめしたいと思える作品があったからだ。
自分がどんな価値観をもっているかがあらためてわかるリストになった。
それではさっそく。

1.ガリヴァー旅行記/ジョナサン・スウィフト

最初に紹介したいのは、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』。1726年発刊の名前と大方どんな話かは知られる有名な作品だ。

18世紀初頭、探検や実験を通して自然を見るということに価値が認められるようになった時代だ。17世紀後半からの50年あまり、英国王立協会に集まった数学者、科学者たちがファクトやデータからいかに万民が信じうる真実を、宗教に代わるものとして打ち立てるかを模索していた成果がもうすこしで出ようとしていた過渡期の最期に差し迫っていたのがこの頃だ。

その時代、諷刺作家スウィフトは、科学的な企ての政治的な目論みを見逃さず、真実なるものの模造的な性格をこの作品を通じて見事に諷刺してみせた。第3部では役立たずの科学が伝統的な文化を踏み躙って壊していく国の話を、第4部では言葉を話す馬たちの王国で人間に似た言葉を知らない野蛮な者たちが愚かな行動を示す様子を描いてみせる。

子ども向けの骨抜きにされた話を『ガリヴァー旅行記』だと思ったら大間違いである。

2.ポオ小説全集Ⅱ/エドガー・アラン・ポオ

続いての紹介は、エドガー・アラン・ポオ『ポオ小説全集Ⅱ』
1837-1838年初出のポオ唯一の長編小説といわれる「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」という探検物語や、1840年の発表の同じく探検物語の中編「ジューリアス・ロドマンの日記」が所収。
ようはスウィフトの旅行記からおよそ110年が経過した旅行記だ。

110年経つと、旅行記という自然という経験を通じて知をつくるフィクションも様変わりする。スウィフトにあった荒唐無稽さは影をひそめ、同じ創作であったとしても「真実らしさ」が増す。科学という思考がすっかり浸透してしまっているようで、そこから逃れようとすれば、南極やアメリカ大陸で残された数少ない未踏の地に足を伸ばすしかないのだが、その振る舞い自体が、すでに17世紀後半以降の科学的振る舞いの内に囚われている。

真実らしく科学にとって未知=外にあるものを語ろうとすると、すこしオカルト的になる。真実らしい冒険譚としてはじまる「ピムの物語」の結末が向かうのは、そんな場所だ。けれど、それは科学とは別物なのではなく、まぎれもなく科学が生み出した残存である。

3.実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記/バーバラ・M・スタフォード

スウィフトとポオの作品のあいだのおよそ80年余りの変化がどのようにして起こったのかを、科学的探検の成果を「絵入りの旅行記」(まだ写真術発明前の時代だ)という形で残した探検家やその同行者たちの作品を読み解きながら、紹介しているのが、バーバラ・M・スタフォードによる『実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』だ。ようは、人間がこうした行為を通じて、いかに「自然」なるもの(と同時にそれに二項対立するものとしての「社会」や「文化」なるものを)捏造したのかを明らかにした本である。

ここでつくられた「自然」なる概念は、この後にダーウィンが動植物に対して明らかにすることになる変化の物語を、先んじて自然が語る歴史物語があるのだという、新しい自然認識とともに成立している。人間とは無関係にみずからの物語――生成の物語――を語る自然があるという認識が成立して、人は自然から切り離される。しかし、この切り離しが逆に、人間の自然の利用を可能にしたのはいうまでもない。もちろんこの世界各地の探検の同時代に、ヨーロッパによる帝国主義的な植民地政策が偶然ではない。

4.ソングライン/ブルース・チャトウィン

そんな18世紀、19世紀の冒険譚とほぼ同じ時期に読んだのが、オーストラリア・アボリジニたちの伝説の歌であり道である"ソングライン"をみずから旅して綴った現代の紀行文、ブルース・チャトウィンの『ソングライン』だ。

多くのほかの民族と同様、オーストラリアの先住民であるアボリジニたちも、創生の先祖たちの世界を創造した伝説の物語を歌として伝承している。先祖たちが世界創生の土壌の道々で出会うものたちを歌ったものであり、歌われる土地=道そのものである。その名もソングライン。

そんなソングラインを旅するチャトウィンの作品が興味深いのは、物語といっしょに数々の過去の作品などの引用も入り混じった物語とは直接つながっていない出来事なノートがはさまっていることだ。この形式は、先のポオの作品や彼と同時代の『白鯨』の著者メルヴィルの作品にも通じるものであり、いま読んでいるヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』でも同様である。つまり、もともと小説というのはこういうものなのだと思う。なにもストーリーが線形的に展開するのが小説ではないのだ。それはもっと多様なもので、このチャトウィンの作品やポオやメルヴィル、ユゴーなどの19世紀の作家の作品を読むと、『三体』のような作品の構造も、MCUのマルチヴァースなどの構造も、あまりにシンプルに見えてくる。

5.身体の使用 脱構成的可能態の理論のために/ジョルジョ・アガンベン

さて、次に紹介するのは、これまでの流れとは一転、ジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」シリーズの最終巻にあたる『身体の使用――脱構成的可能態の理論のために』だ。昨年から引き続きアガンベンにはまっていた今年の前半に読んで、これだ!と思ったのが、この難解な一冊。

ここで問題になっているものの一つは、「存在」と「存在者」の分別だろう。アガンベンが「ホモ・サケル」シリーズでずっと問題視してきた「剥き出しの生」の問題に直結する。そう、なぜ身体が管理の対象とされるようになったのかである。

たとえば、アガンベンはこれをアリストテレスの第1ウーシアと第2ウーシアに重ねつつ、インド=ヨーロッパ諸語において「ある」という動詞が一般的に二重の意味をもつことも紹介しながら、「〜がある」と「〜である」の分裂が、生物的な生であるゾーエーと社会的・政治的な生であるビオスの区別につながると論じる。

もちろん、この分離は捏造である。だが、捏造だと指摘するだけではどうにもならないほど、この2つの概念は社会に浸透し、あらゆる権力システムがこれを利用する。アガンベンの戦いはそこにある。

6.〈責任〉の生成――中動態と当事者研究/國分功一郎、熊谷晋一郎

アガンベンの『身体の使用』においても論じた能動態でも受動態でもない中動態。それを『中動態の世界 意志と責任の考古学』で考察した哲学者の國分功一郎と、小児科医で当事者研究を専門とする熊谷晋一郎の2人による5回の対談形式による研究の成果をまとめた『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』も、今年読んで興味をもった一冊だ。
能動態と受動態の関係が「する」と「される」の対立であるのに対し、能動態と中動態の対立においては「外」と「内」かが問題になる。主語がその「動詞によって名指される過程の内部にあるときには中動態が用いられ、その過程が主語の外で終わるときには能動態が用いられた」という対立の関係だ。内部にあるというのだから中動態が用いられる状態にあるとき、主語はその過程に巻き込まれている。恋をするとか、欲するというのは能動態で表現されていても本来は中動態的な状態だ。
中動態の状態においては、おそらく存在と存在者は切り離されず、ゆえに社会と自然の分離も起こり得ないはずである。いわば中動態の世界においては、科学的な事実の客観的な創造そのものが成立しないはずだ。もちろん剥き出しの生を管理するという発想も。
そうした地点からいまを見ようとする際、この中動態という発想は役に立つ。アガンベンとともに読みたい。

7.チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学/小川さやか

アフリカ地域研究を専門とする文化人類学者の小川さやかさんによる『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』。この本にも多くの発想の可能性をもらった。
この本では、香港という西洋と東洋にまたがったグローバル都市において、母国タンザニアとのあいだで、中古車や中古家電などのインフォーマルな貿易で生計を立てるチョンキンマンションの住人たちが、FacebookやWhatsAppなどのインターネットサービスを駆使しつつも、僕らが知っているのとはだいぶ違うシェアリングエコノミー、クラウドファンディング的なやり方で商売をしながら生きる様が描かれる。
自治というものを考える際、いかにツールによる権力からの自由を保つかということを考える必要がある。ツールの上でのみ成り立つ関係に依存するのではなく、みずからがつくりたい関係づくりにツールをいかに役立てられるかを考える。やり方や道具にこだわるのではなく、ともに生きたい人びととの関係においてそれぞれが生きていくことのできる共生的なかたちを維持しながらそれぞれが生きる。生き方が変わろうと使うツールが変わろうと変わらない自治的な社会。そういうことを考える可能性をこの本で描かれた人たちの暮らしは教えてくれる

8.サパティスタの夢 たくさんの世界から成る世界を求めて/マルコス、イボン・ル・ボ

自治を守る。『チョンキンマンション』とは別のかたちでそのことを考えさせてくれるのが、この『サパティスタの夢 たくさんの世界から成る世界を求めて』という本だ。
1994年1月1日、北米3カ国(メキシコ・米国・カナダ)によるNAFTA(北米自由貿易協定)を「貧しい農民にとって死刑宣告」として、サパティスタ民族解放軍(EZLN)は武装蜂起した。新自由主義的な考えのもと、貿易の自由化によりアメリカに雇用を生み出すといわれたNAFTAの結果、逆にアメリカでの雇用は失われることになり、隣国メキシコではトウモロコシの生産が壊滅的となり農村地帯は困窮、仕事を求めてアメリカに流入する移民が増加した。そんな新自由主義の末路をそのはじまりにおいて予見し、みずから行動したのが、メキシコ・チアパス州に暮らすマヤ先住民たちであり、彼らを中心に構成するされたサパティスタ民族解放軍だ。
そんなサパティスタたちの活動とその背後にある考えを、フランスの社会学者のイボン・ル・ボが、サパティスタ運動の中心人物であるマルコス副司令官へのインタビューをまとめた第1部と、ル・ボ自身の執筆による第2部で構成するかたちで紹介してくれる。

9.いと高き貧しさ 修道院規則と生の形式/ジョルジョ・アガンベン

もう1冊。アガンベンを。2021年、最初に紹介したのが、所有と使用の問題を、中世のフランシスコ会のキリストに倣った「所有をしない」という〈生の形式〉から読み解こうとしたのが、この本。
"vivere sine proprio"
「自分のものはなにひとつ所有することなく生きること」
13世紀のアッシジのフランチェスコによって創設されたフランシスコ修道会における『未裁可会則』(1221年)の第1条では「規則および生」として、そのような記述があるという。すべての所有は放棄するが、使用の権利は放棄しない。ある意味でコモンズの発想につながるかのようなフランシスコ会士の生き方に、その後の『身体の使用』に通ずる問題をアガンベンは浮き彫りにする。
使用は放棄できないというフランシスコ会士たちの考えに、中動態における「巻き込まれた状態」に通ずる可能性が読み解かれる。

10.ローベルト・ヴァルザー作品集3

最後に紹介する『ローベルト・ヴァルザー作品集3』は、アガンベンの本にもたびたび登場する、20世紀初頭のドイツ語圏スイスの散文作家であるローベルト・ヴァルザーの、フリッツ・コハーという少年が書いたという形で物語が進む「フリッツ・コハーの作文集」という小編と、「ヤーコプ・フォン・グンテン」という、これまた主人公(こちらはおそらくフリッツ君よりは年長で、高校生くらいだろうか?)の少年の名を冠した中編の2作品を所収した小説集。
ヴァルザーの作品ははじめて読んだけど、当たりだった。この小説の魅力は、そうした話の筋以上にやはりヴァルザーの独特な雰囲気をもった文体からくるものにほかならない。フリッツ君に扮して書かれた文章も美しい。こんな具合だ。

僕はひそかに芸術に心酔している。でも今この瞬間からもうひそかではなくなった。だってたった今、僕の無頓着さがしゃべってしまったから。そのせいで僕は見せしめに罰せられるかもしれないが。高貴な思考方法が自由な告白を妨げることなどあるだろうか? ひっぱたかれるだろうという見込み以外には、少なくとも何もない。ひっぱたくとは何か? 奴隷と犬を怖がらせる案山子だ。僕が怖いのは幽霊だけだ。下劣なやつ。ああ、人間に許されるかぎり一番高いところに昇りたい。

以上。年末ギリギリとなってしまったが、今年読んだ数十冊の本から選んだおすすめの10冊。


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