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ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀/エリック・A・ポズナー、E・グレン・ワイル

こういう本を読みたかった。
偏った形で保有される私有財産をいかにして格差のないかたちで再配分できるようにするかの具体的なアイデアについて論じられた本を。

エリック・A・ポズナーとE・グレン・ワイルによる『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』は、そんな欲求を満たしてくれる文字通り、ラディカルなアイデアが提示された本だ。

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市場の可能性をラディカルに解き放つ

一部のものに独占された既得権益をなかなか分配して格差の軽減ができない現代の社会システムを問題視する著者らは、本書で一部のものによる権利や財の独占から社会を救うための方法を提示する。

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その方法は具体的で、これを読んで僕は、そのいくつかを現実社会で実証実験してみたくなった。

その画期的かつ具体的で試してみたいと思えるアイデアは、すこし前に『シルビオ・ゲゼル入門 減価する貨幣とは何か』という本を通じて紹介した、一定期間で価値が減価していくことで資本の蓄積を許さないゲゼル型通貨に匹敵する。

あー、こういう実験、どうにかやれるようにがんばろうって思った。

著者らはそれらの方法の根幹にあるものをラディカル・マーケットと呼ぶ。市場のしくみのもつ可能性をラディカルに開くことで、一部のものに富や権利が蓄積されたままにならない、富や権利がコモンズになった状態をつくる方法を提示する。

われわれが思い描くラディカル・マーケットとは、市場を通した資源の配分(競争による規律が働き、すべての人に開かれた自由交換)という基本原理が十分に働くようになる制度的な取り決めである。オークションはまさしくラディカル・マーケットだ。

安易に資本主義的なものを批判して、その反対にコモンズを置くのではなく、資本主義と同じように市場というしくみを用いながら、結果として資源がコモンズとして共有されるようになるしくみを、著者らは提示するわけだ。よいではないか。

COST(共同所有自己申告税)

著者らが私有から共有へとシフトのために提案する社会的システムの最初のものが、共同所有自己申告税(COST, common ownership self-assessed tax)というものだ。

COSTは、財産の売価(あるいはそのサービスの利用価格)を保有者が自己申告し、買い手からその金額を提示されたら必ず売却(またはサービスの提供)をしなくてはならないと同時に、所有者自身が申告した金額に応じて税がかけられるというしくみになっている。たとえば所有している土地の価格を高く設定して敵対者や競合に買われるのを防ごうとすれば、その分、税率は高くなる。しかし、税金を低く抑えようと価格を低く設定してしまえば、誰かがその価格での購入を持ちかけてきて売らなくてはならなくなる。

これまでのしくみだと実際の売買が発生するまでは売値と税が連動していないため、現在の所有者の方が圧倒的に有利となり、売りたくなければ高値をつけて、財の流動を防ぐことができるが、COSTだと所有しているものとこれから所有したいと思うものが対等に近くなるしくみが働いて、財の流動性が増し、ある意味で、財が社会的に共有されている状態に近くなる。

だから、著者から「COSTが適用されると、伝統的な私有財産制のあり方が変わる」といい、「それが「共同所有」である」という。

私有財産を構成する権利の束の中でも特に重要になる2つの「柱」は、「使用する権利」と「排除する権利」だ。COSTでは、この2つの権利がどちらも保有者から社会全般に部分的に移る。

使用と排除の権利が、自己申告の価格と税率が連動することで、従来のしくみでは一方的に現所有者(保有者)に有利なかたちで設定されていたのが、COSTの環境下では、現所有者と所有希望者のあいだでほぼ対等なものとなることで、2つの権利も両者のあいだで共有された状態に近づくのだ。

私有による財の死蔵を防ぐ

これを著者らの説明で補足すれば、こうなる。

私有財産制では、所有者がみずから売るか手放すまで、財産を持ち続ける。それはつまり、他の人にはその財産を使わせないようにするということである(わずかな例外を除く)。COSTだと、「所有者」には、財産を自己申告で買うことを申し入れた人を排除する権利は認められない。逆に、その金額を支払えば、誰でも現在の所有者を排除することができる。したがって、申告額が低ければ低いほど、公共が保有する排除権は「所有者」よりも大きくなる。税金が上がると価格は下がるので、COSTを上げると、排除権も公共に徐々に移っていき、申告額を支払える人なら誰でも財産の所有権を主張できる。

私的な財を他人が使用する権利を必要以上に排除できなくするように働くCOST。この説明にあるように、それは保有者による独占的な所有を、公共が排除できる権利をもてることになる。

富裕な層がみずから所有する財の独占したいがために、実際の価値以上の売価を設定して、他者が買うことを排除するようなことが起こる可能性をCOSTは排除する。それによって、私的な所有によって死蔵されていた財を公共的に利用できる可能性が生まれるというわけだ。

もちろん、問題がないわけではない。申告価格を払えば、必ず売ったりサービスを提供しなくてはならないルールは、金銭的な価値とは別に自分が大事にしたいものの所有を危うくしてしまうことにもなるからだ。何にCOSTを適用して、何に適用しないかという議論も必要だろう。

伝統的な投票システムの欠陥

もう1つの仕組みが、2次の投票(QV, quadratic voting)と呼ばれる投票システムだ。

これは1人1票の伝統的な投票システムの問題、その仕組みを使った選挙による間接民主制の問題を解決するために提示されるものだ。

著者らはフランス革命の時代の革命主義者の1人で、投票の数学的研究の先駆者でもあったコンドルセ侯爵の1785年の古典的論文「投票の多数による決定の確率についての解析学の応用に関する試論」を参照して、単純に統計学の問題として考えた場合には「何が集合的利益であるかについて人々が正しく判断する可能性には、間違った判断をする可能性よりも高く、それぞれが個別に意思決定し、投票することが可能であるのなら、規模の大きな集団は少数の支配階級のエリートよりも正しい判断を下すことができるようになる」と示していたことを教えてくれる。

しかし、そのような意味で民主主義に可能性を見出していたコンドルセがそのことと同時に、

市民の対立する選好を論理的に反映するような結果(経済的な結果ではなく政治的な結果)を生み出す能力が市場にはないことも見抜いていた。

ことも指摘する。

なぜ、「何が集合的利益であるかについて人々が正しく判断する可能性」をもつはずの民主主義のしくみが「対立する選好を論理的に反映する」ことができないのだろう? それは3つ以上の提案が同時に示されてその選択を促された時に、個々人の「提案に対する関心の強さに基づいて投票」することが不可能だからで、いまの投票のしくみでは「票が伝えられるのは、ある結果を別の結果よりも選好しているということだけで、その人がその結果をどのくらい選好しているかはわからない」からだ。

この「どのくらい選好しているかわからない」という欠陥は、「あれは嫌だ」という消極的な選択と「これがいい」という積極的な選択との区別を不可能にしてしまう。これが欠陥なのは、そのことで消極的な選択が思わぬ結果を生み出してしまうこともあり、歴史的には、それがナチスによる政権奪取を可能にしてしまったりもしている(僕ら自身、それに近いことをつい最近経験していないだろうか?)。

QV(2次の投票

この解決として、著者らが提示するのがQVだ。

QVは、投票力を貯めるしくみと平方根関数という2つの要素に成り立つ。簡単にいうと、貯めた投票クレジットを自分がどうしても実現したいと思える政策に注ぎ込めるから選択の度合いが明示的にできる。関心のない層の消極的な声よりも、つよく関心をもった層の積極的な声が結果に反映されやすくなる。

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ただし、その効力が極端にならないようにするため、1票投票に対して1クレジットだとすると、2票では2クレジット、3票では4クレジット、4票では16クレジットという形で、クレジットで手に入れられる票数が平方根になっている。

ここでも実はQVの背景にある考え方は実は市場のラディカルなかたちとしてのオークションだ。著者らは、ウィリアム・ヴィックリーの考えを参照し、こう書いている。

オークションの背景にある考え方は、対象の財を最高額入札者に配布することではないと、ヴィックリーは説く。そうではなく、自分の行動が他人に課すコストに等しい金額を個々人が支払わなければいけないということだ。

オークションにおいては、「落札した最高額入札者は、落札できなかった第2位の入札者の入札額を支払わなければいけない」が、これと同じ原理は「公共財を創出する集合的決定を組織する方法も示唆している」という。

集合的決定をするときには、検討されている公共財から影響を受ける人は、投票したいだけ投票する権利を持っていなければいけないが、その投票が他者に課すコストは全員が支払わなければいけない。お店からトウモロコシを買うとき、その価格は、トウモロコシの次善の社会的使用価値を表している。したがって、それを買うためには、トウモロコシをあなたに配分することで社会が放棄するものを社会に補填しなければならない。(中略)同じように、投票では、集合的決定が行なわれる国民投票(あるいは他の種類の選挙)で負けた人にあなたが与えた損害を補償しなければいけない。あなたが支払う金額は、あなたの投票によって負けた市民が選好していた別の結果になっていたら、その人たちが獲得していたであろう価値に等しくなる。

これこそ、社会全体を共有物として市場の原理を用いて公平に配分することにつながるしくみだろう。自身の選好が勝ちとったものは、それによって権利を勝ち取れなかった人たちに補填する。選好は通らなかった者も代替となる補償を得ることで、公平にだいぶ近づく。

この「公共財に影響を与える個人が支払うべき金額」がその人の影響の強さに単純に比例するのではなく、その2乗に比例するべきだという研究結果がいくつかあるそうだ。QVはこれに基づいている。

おもしろい。どんな領域で適応可能かを実際に実験して確認してみるべきだと思う。

何よりそれが格差の削減につながる道だというのであれば。

移民労働力の市場、機関投資家の支配の解除

この本では、ほかにも国家間の格差を減らすためのグローバルな範囲での移民労働力の市場をつくる個人間ビザ制度(VIP, visas between individual program)や、複数の機関投資家が同じ産業の複数の企業に対し、すこしずつ投資、結果として産業内の競争が起こらなくなり、価格が高止まりしたり、イノベーションが阻害されたりという結果を招く寡占状態を防ぐための、同一業界で機関投資家が複数の企業への投資を禁止するルールも提案されている。

さらには、これは具体的な方法が示されているという点では他のものよりすこし具体性に欠ける提案ではあるが、著者らが「セイレーンサーバー」と呼ぶGoogleやFacebook(現Meta)といった個人のさまざまな行動データを独占所有する企業が、無償でユーザーにデータを生産〜提供する労働を課している問題への対策も紹介されている。それが他の問題と同じように一部のものによる財や価値の独占であり、それをいかに本来そこから利益を得る権利をもった者に分配するかの問題があるからだ。

セイレーンサーバーは「デジタル・コモンズ」の核となる不動産を占有しているが、そこには一握りのプレイヤーしかいられず、現時点では自発的にこの土地を耕しているテクノロジー農奴に対価を支払うのは、セイレーンサーバーたちの利益に反するのである。

コモンズの問題が一般にも理解されるようになって久しいが、それが問題であることはわかっても、その解決の具体的な手段は提示されずに、脱成長といった具体性を欠いたコンセプトのみが叫ばれることにはもやもやした印象を持っていた。解決のための方策のないまま、市民中心の自治だというボトムアップのアクションだけではそれこそ持続性がない。

そこにこの本で示されたCOSTやQVなどの具体的なしくみの提示は、ゲゼル型通貨と同じく期待を感じずにはいられない。

問題の根源は思想にある。というより、思想の欠如にあるというべきだろう。右派と左派が生まれた19世紀、20世紀初めには、両者の主張には伝えるべきものがあったが、その潜在能力はもはや尽きている。(中略)社会の可能性を開くには、社会をラディカルに再設計することに私たちが心を開かなければならない。

著者らが冒頭に書いた「思想の欠如」をあらためて「社会をラディカルに再設計することに私たちが心を開かなければならない」というのは、まさに共感しかない。必要なのは明確な思想にもとづく社会システムの再設計なのだと思う。

こういう本こそ、みんなに読んでもらって、ここで書かれていることを実現できるようにするためにも議論の場があるといいな。


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