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プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明/武邑光裕

「わたし」はどこへ向かうのか? 「わたし」はどんな風に変わってしまうのか?

このところ、ずっと考えてきているのは、

・わたし(たち)が今後もわたし(たち)自身の権利をもって、これからも生きていくためには、わたし(たち)自身が新たにどのような意識をもつ必要があるのか、
・また、わたし(たち)自身が生きていくために、生きる糧として必要なさまざまな財とどのような関係を築き、維持していけばよいか
・さらには、それを維持するためにわたし(たち)自身は個々人として社会人としてどんな行動をとるべきか、どんなしくみの確立することが必要になるのか

といったことだ。

気候変動や経済格差によって持続可能性が著しく損なわれていく社会で、わたしたちは、食糧やエネルギー、居住場所など、生きていくのに不可欠な財すら、いつまで利用可能な状態で維持できるか分からないリスクを抱えている。
世界中のみんなが、水や電気、医療や教育、通信手段などの基本的な生活インフラにアクセスできるようにする/できている状態を維持するためには、この気候変動や経済格差などの問題にどう対応していくかが、このパンデミックを背景により一層の喫緊の課題として浮かびあがってきている。

そんな問題を、ここ最近さまざまな本の紹介を通じて論じてきたわけだが、まだしっかりと触れていない問題がある。
これからを生きていく上で、ひとそれぞれがしっかりとその利用の権利を所有しておかなくてはならない財のことだ。

それは、武邑光裕さんが『プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明』で論じているプライバシーという財である。

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公共財としてのプライバシー

これまで岸本聡子さんの本を通じて、ヨーロッパにおける水道や電気、公共交通機関などの生活インフラの再公営化の話に触れたり、1つ前では佐久間裕美子さんの『Weの市民革命』を紹介しながら、アメリカにおける消費アクティビズムという新たな武器を手に入れたミレニアル、ジェネレーションZといった若い世代を中心とした民主主義のかたちに触れたりした。

あるいは、斉藤幸平さんが、マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソンを相手に、資本主義を乗り越えるための民主主義の可能性について議論が交わした本『未来への大分岐』を紹介しながら、コモン=民主的に共有されて管理される社会的な富へのアクセスをキーとしてこれからの民主主義を市民運動ベースで考えていく話や、サイバー独裁の危機を前にして、人間はより熟議型の意思決定を行っていく必要があるという話を紹介した。

しかし、コモン=公共財というものを考える際、忘れてはいけないことがある。

それがこの本で武邑さんが指摘するプライバシーあるいは個人情報だ。
このGAFAやBATHなどの巨大な情報プラットフォームが世界を席巻する社会においては、わたしたち自身のプライバシーデータそのものが、一握りの企業に専有される危機に瀕したコモン=共有財であり、そして、それを握られてしまえば、「わたし」はこれまで以上に自由を失ってしまうことになる

プライバシーの死

「わたし」たちは、いまやさまざまな利便性や愉しみと引き換えに、多くの「わたし」に関する情報を、SNSやその他デジタルのサービスの利用の際にサービスプラットフォームに提供してしまっている。

メンバー登録に必要とされるデータはもちろん、ネットで注文した商品を届けてもらうために自分たちがどこに住み、行く先を教えてもらうために自分がいまどこにいるか、健康を保つために日々の体重や睡眠データや歩数を提供するし、SNSでは自分だけでなく自分と誰がいつどのように関係したかという情報も与えてしまう。
いや、それどころか、Alexaなどの音声エージェントを通じて日々いろんなことをやってもらっていれば、もっと日常的な言動すべてが筒抜けだ。

僕らは利便性のためにプライバシーを犠牲にしている。
プライバシーの死が議論される所以である。

しかし、生まれて物心ついたころにはスマホがあったジェネレーションZ世代にしてみれば、はなからプライバシーなんてものは存在しないのだともいえる。

調査結果で顕著だったのは、Z世代がプライバシーを放棄し、旧世代よりもオンライン上に多くのプライバシーを投稿し、デジタル技術をより生活に取り入れようとしていることだった。彼らの決定は、プライバシーを心配し評価しないからではない。彼らには、もはやプライバシーを守るという選択肢がデジタル社会には存在しないということがわかっているからだ。Z世代の生活は、インターネット・アクセスの利便性のため、プライバシーを共有することを私たちに要求するデバイスを中心に成熟してきた。彼らにとってプライバシーのない世界は自然の一部なのだ。

デジタル・サービス・プラットフォームに自分についての情報を握られているのがデフォルトであるというzoom世代の認識は、彼らだけの現実的なのではなく、彼らが正しく認識しているというだけで、いまや誰にとっても現実である。

プライバシーは死んだ。

わたしの自由

しかし、その死をただ受け入れるだけでは、問題がある。その死を認めざるを得ないにしても、その死によって失われるわたしの権利のすべてを受け渡すわけにはいかない。

かつて「プライバシーは、他者が介入できない私たちの自己決定権であり人生の一部」であった。「外部からの侵入を拒否し、ひとりでいることの権利もある」を主張できたのもプライバシーがあったからで、「職場の同僚や家族の侵入を嫌い、トイレの扉を閉めて心の内部に飛び乗ることができる自由である」のも、プライバシーのおかげだった。

そんな自由な自己である「わたし」をかたちは変わってでもいいから、その一部の機能は維持したいだろう。すくなくとも、データを受け渡した先のプラットフォームが駆使するAIに、自分たちの人生を操られるわけにはいかないだろう。

「私」を取り巻くデータは、他のビッグデータとのジグソーパズルのような解析ゲームに投入されると、個人の身元や購買履歴を割り出し、ユーザーが次に何を購入したいかを予測する。しかしこれでは終わらない。
次に起こることは、ユーザーに買わせる商品を特定し、その商品の購入をユーザーが確信するように「人心操作」を実行することだ。追跡広告を便利な機能だとおもっている人たちは、このトリックに気づかない。商品やサービスの購買行動、そして次の選挙の投票行動までが操作される。監視資本主義は、リアルな世界での「私」に働きかける巨大な権力なのだ。

こんな事態になってしまったら、もはや民主主義もなにもあったものではない。自分で選んで行動しているつもりでも、自身の行動パターンを読み尽くしたAIが行動の選択を誘導するよう罠を仕掛け続けてきたら、まったく気づかぬうちに、まんまと彼らの策略に促されてしまうかもしれないのだから。

それはとても危険なことなのに、もはや「わたし」たちはそれを危険とも感じさせてもらえないのだ。

ポスト・プライバシー

「わたし」たちはいまや、プライバシーの死のあとのポスト・プライバシーの時代に生きている。

ポスト・プライバシー論は、プライバシー保護という旧時代の価値観を捨て、秘密をもたない透明で公正な社会を目指そうという主張だ。

作家で技術文明の批評家であるリチャード・ティームは、「ポスト・プライバシー」議論に大きな影響を与えた人物でもある。彼は「従来のプライバシーの概念はインターネット時代に当てはまらない」と語り、「プライバシーは存在しない。かつて存在していた方法では存在しておらず、プライバシーを考えた20世紀の枠組みは事実上終了している」とかたり、人びとはそれをすぐさま認めるべきだと聴衆に迫った。

こうしたポスト・プライバシーの環境における議論として、デジタルツインの議論がある。
デジタルな環境上に自分自身の双子のような分身をつくるのだ。

武邑さんは「勢いづくポスト・プライバシー論の背景には、人間という概念のアップデートを迫り、人間はテクノロジーと合体すべきだと謳うトランス・ヒューマニズムの世界観が横たわっている」と書くが、デジタルツインは自分自身を分身へと移して、自然の人体の制約を越えようとするトランス・ヒューマンに至る前段階の話だともいえる。

デジタルツインは、実用的にはこんな風に医療の現場での利用が検討されていたりもする。デジタルツインで地力や予防のシミュレーションをするのだ。

問題は、この個人データの膨大な固まりであるデジタルツインを誰が所有するか?ということだ。

現在のように、「わたし」たちのさまざまなデータをGAFAのような企業に独占させておくわけにはいかないだろう。もうひとりの「わたし」の所有権も「わたし」自身にあるべきだろう。

武邑さんも、こう書いている。

近い将来、現状のテック巨人が私たちのデータ・プライバシーをほぼ独占的に収集する環境が変化し、個々人がブロックチェーン技術などを実装して企業に個人データを能動的に提供することで、企業からその見返りとなるサービスを手に入れるという「契約」が成立する。
そのとき、生身の「私」がデータ・プライバシーの管理と運用を行うには膨大ない契約業務をこなす時間が必要となり無理が生じる。そのため、デジタルツインに個人的データをどの事業者に提唱するかなどの判断基準をあらかじめ設定し、ツインがネット上で事業者などとやりとりする。これにより、個人のプライバシー保護は確実なものとすることが期待される。

「わたし」たちが自由に生きていくため、民主的に各々の意思をもって生きていくためにも、「わたし」というコモンをどのように所有するのか、利用可能にするのかはとても重大な問題だろう。

それこそ、新しい民主主義のかたちは、こうしたプライバシーの問題とも不可分なのだ。


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