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完全言語の探求/ウンベルト・エーコ

言語というものは何にも増して思考の道具であるのだから、言語の完全性、普遍性を問うたヨーロッパにおける試みの歴史を辿るこの一冊が自然とヨーロッパ思想史となるのは当然だと感じたのは、500ページを超えるこの大著『完全言語の探求』を5分の3程度読み終えるか終えないくらいだっただろうか?
とにかく読んでよかったと思える一冊だった。

「ヨーロッパ史の始まりを確定するのに十分なデータはどこに見いだされるのであろうか」とエーコは問う。「政治や軍事にかんする大事件では十分でないとするならば、言語にかんする事件ではどうだろう」と。

近代的な意味でのヨーロッパに語ることができるようになるのはローマ帝国の解体によって、ローマ人と野蛮人が混ざりあった諸王国が生まれて以降だとエーコはいう。つまりヨーロッパという統一体はローマ帝国というアジアやアフリカにまで及ぶ統合によって生じたのではなく、それがバラバラになって統一を失ったときに逆説的に生まれたというわけだ。
そして、エーコはこう書く。これがエーコがこの本をヨーロッパ思想史として書いたわけだとも言えるだろう。

ヨーロッパは、もろもろの俗語の誕生とともにはじまる。そして、それらの俗語がなだれをうって侵入してくることにたいする反応として、それもしばしば警戒心にみちた反応として、ヨーロッパの批判的文化ははじまるのであって、それは諸言語の断片化のドラマに立ち向かい、自分が多言語的文明を運命として負っていることについての省察を開始する。そして、その運命に病み苦しみながら、治療をこころみるのである。過去にむかっては、アダムの話していた言語の再発見に努めることによって。未来にむかっては、アダムの言語の失われた完全性をそなえて理性の言語の構築をめざすことによって。

失われたアダムの言語、バベル以降の言語の分裂、それを取り戻そうと、ヨーロッパでは様々な形で統一言語の試みがなされる。
時にはバベル以前の単一言語への復帰の試みとして、ヘブライ語などが原初の言語だとされることもあった。また、13世紀、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の交錯する地、マヨルカ島に生まれたライムンドゥス・ルルスは、異教徒を改宗させることのできるような哲学的完全言語の体系『大いなる術』を著した。結合術=アルス・コンビナトリアと後に呼ばれることにもなるルルスの術は、記憶術のためのツールであった。

しかし、このルルスの術はのちのルネサンス期には記憶術やカバラー主義と一体となってジョルダーノ・ブルーノなどの思想家にも影響を与え、その発展形へと展開され、記憶のためのツールから魔術的な創造の時に役割を変えていく。
計算理論の先駆者ともいわれ、17世紀にはライプニッツの記号計算的方法にも影響を与える。そのライプニッツはさらにいまのコンピュータ言語に連なる二進法をその時代に発明している。

ライプニッツのこの普遍言語の仕組みに関する転換は画期的なものだった。「それは完全言語の遺産がいまや数学的論理計算へと決定的に移行しようとする途上にあることを明らかにしている」とエーコは書く。「数学的論理計算へと移行してしまえば、もうだれも観念的な内容のリストを素描しようとは考えなくなり、統辞論的規則をさだめようとだけ考えるようになるのである」というが、この観念のリストこそ、ライプニッツのほぼ同時代だが、ほんのすこしだけ前のイギリスを中心に試みられていたものだ。

代表的なのが、王立協会の実質的な創始者であるジョン・ウィルキンズが1668年に著した『真性の文字と哲学的言語に向けての試論』における普遍言語だ。この言語は以下のようなリストが200ページあまり作成されてるものをベースとして、

さらに、それを次のようなリストと記号の対応表を用いて、表現したいものをリスト上の住所を表す記号へと置換することを通じて、ある言葉を表すものだ。

たとえば、このシステムを使うとGαpeはチューリップ、Gαdeは麦芽を表す。まあ、見たとおり、暗号めいている。実際、ルルスの結合術から連なり、さらにカバラー主義的な記号論も統合した、これらの哲学的言語はデータ隠蔽技術のひとつであるステガノグラフィーを生んでいる。

カバラー主義とルルス主義とは、ひみつ表記法またはステガノグラフィーの探求において、ひとつの特異な混交をなしとげる。この豊饒な系譜からは人文主義の時代からバロックの時代にかけて一連のおびただしい数の貢献が生まれるが、これの元祖は、多産な著作を残している伝説的な著作家、トリテミウス神父(1462-1516)である。

ルネサンス期にこのステガノグラフィーがもてはやされはじめたのは、中世までのカトリック教会の絶対的な権力に対して、諸王国の世俗の権力も力をもちはじめていたからだといってよい。

現実には、ステガノグラフィーは、政治や戦争に使用するのに適した暗号作成の技術として発達する。それが国民国家のあいだの紛争が起こるのと時を同じくして生まれ、やがて絶対王政をしいた大国が覇権を競いあう時代に開花するのは偶然ではない。

こうした暗号化の方法としてのステガノグラフィーの方法が、17世紀イギリスにおいては言語の曖昧さをなくし、誰もがまようことなく用いることのできる普遍言語の方法へと応用されるのだから面白い。実際そもそもステガノグラフィーの発展に貢献したトリテミウス神父からして、それを暗号であると同時に、普遍言語的な構想の一部として考えていた。ようするに、ルールを知っているものには解ける暗号は、ルールさえ共有できれば万人に伝わるようになるといえことだろう。

トリテミウスは、『ポリグラフィー』を書いたとき、--『ポリグラフィー』は『ステガノグラフィー』よりもさきに公刊されており、『ステガノグラフィー』ほどの意地の悪い名声を享受していないのは偶然ではないのだが--、ラテン語を知らない者でも短期間のうちにその秘密の言語による作文のしかたを習得できることをきわめてよく自覚していた。また、メルセンヌも、まさにトリテミウスの『ポリグラフィー』について、「第3巻には、自分の母語しか知らない普通の人でも、2時間でラテン語を読んで、書いて、わかるようになる術が収録されている」と指摘している。こうして、ステガノグラフィーは、同時に、既知の言語で思考されたメッセージを暗号化するための道具であるとともに未知の言語を解読するための鍵でもあることになる。

といったルール化された暗号言語に起源を持つ、この17世紀の普遍言語の構想においては、世界のあらゆるものに正しい分類を与える哲学者の仕事(まるで原初にあらゆる動物に名前をつけたアダムのようだ)が実際の文法を考える言語学者の仕事に先行すると考えられた。

その結果つくられたのが先に示したリストだが、もうすこし部分をみると、こうなる。

見てわかるとおり、現代の分類学に慣れ親しんだ現代人の僕らからみれば、恣意的以外の何物でもない分類である。
エーコによれば、これら17世紀の哲学的言語は「人類の知性を曇らせて科学の進歩をさまだけてきたイドラのいっさいを絶滅させるのに役だつような哲学的言語」として企図されたのだと思うと、より一層、時代の隔たりを感じる。

そのすぐあとに大陸側で数学的論理を計算による言語という大きなパラダイム転換を起こす発想をしたライプニッツはおそろしい。

「ライプニッツの意図は、代数学のように、使用される記号に操作の規則をただ適用しさえすれば、わたしたちを既知のものから未知のものへと導いていくことのできるような論理的言語活動を創造することであった」のであり、「記号計算の真の強みはその結合術的な規則にあると考えて」いた。

すごいのはライプニッツだけではない。はじめて画像が扱えるWEBブラウザとしてMosaicが登場したのと同じ年、つまり、インターネットの黎明期である1993年に出版された、この本でエーコは、ライプニッツの記号論理学的な言語の構想をもとに、こんな想像をしてるからだ。

情報言語は、個別的なもののカタログ化に寄与し、X氏がYからZまでのフライトを予約した時刻をつきとめることさえできるようにする。このため、今日では人びとは、情報の目があまりに深くわたしたちの日常生活に介入してわたしたちのプライヴァシーを侵害し、ある個人がある都市のあるホテルに予約した日時さえも記録するような事態が到来しているのをおそれはじめている。これが、神、天使、存在者、実体、偶有性、そして「あらゆる象」を包括した要素の体系というなおも純粋に理論的な構築物であった宇宙について語ることを可能にしようとして始まった探求のもうひとつの副産物なのだ。

まったく、ちゃんと頭を使って考えるということは、こういうことだろう。未来の技術や流行りの物事の情報に飛びつかなくても、しっかりこの大きさで思想史を考えれば、おのずとこうした想像ができるようになるということだ。
それにしても、思想史の観点からみるヨーロッパの歴史的厚みと、言語・情報に関する探求の真摯さ。あらためて敵わぬなと感じる。いわゆるGAFAがなぜ、この文化の流れの先に生まれてくることになるのかは、『the four GAFA』なんかを読むよりよっぽどエーコのこの本を読んだ方がよっぽど西洋の思想の動向のなかで本質的に理解できるはずだ。
くれぐれも安易な考えで、選択を間違えないでほしい。

もはや、かつてのマスメディア以上にマスメディア的で、どこ見ても同じようなニュースばかり、似たような論調ばかりのメディアの情報だけを見ているのはどうだろう。
ひとつ前でも書いたが思考は素材が大事だ。それを世の中にありふれた情報にしか触れていないとどうにもならない。そんなマス的ネット情報ばかり見ているヒマがあれば、いまやマイナーメディアに追いやられた書籍、とくになんの話題にもならない出版から何年も経った本の貴重な情報にもっと頼らないと、このエーコはのような頭の働かせのごく一部ですらできるようにならないだろう。
頭の使い方、情報の集め方の的が外れすぎていると感じたら、いますぐにでもあらためたほうがよいと思う。

さて、ライプニッツ以降、それ以前の哲学的言語のような固定したリストを元にした発想はだんだんなくなって、こうした認識が広がっていく。

哲学的言語をつくりあげることが不可能なのは、ほかでもない、言語活動というものはまさに観念学者たちがきわめて正確にあとづけたような諸段階をへて生成していくものであり、完全言語が準拠しなければならないのがこれらの段階のうちのどれであるかはいまだに未決であるからである。

ようは言葉によって認識し、言葉によって思考される世界は、言葉によって常に生まれ変わり続ける世界だということだ。ある意味、ルルスの結合術のアップデート版である人工知能と、言葉そのものともに生きている人間が活動を続ける限り、言葉によって定義される世界がひとつの姿に固まることなど決してない。

僕などはそれは当たり前のことのように思いますのだが、何にでも答えを求めようとする人たちはいまだにウィルキンズのリストのようなものの存在を信じているのだろうか? それほど不完全な完全言語風な思想はとっくの昔に時代遅れになってしまっているというのに。

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