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デッサンからの革新

正しくやろうとすることも大事だが、いまの時代、チャレンジが求められることは多い。無難な答えが出ることがわかった振る舞いばかりする人よりも、何か新しいものが生まれるかもしれない実験的な振る舞いを選ぶ人の方が社会的にも求められているのではないだろうか。

もちろん、単に無謀だったり、考えなしの悪ふざけは、チャレンジとか実験とかとは違う。その行為をする意図はあってほしい。その意図どおりになるかの違いが保守的すぎる振る舞いとは異なるだけだ。

だから、実験的なアクションは、通常、答えがある程度わかっていてやる行為と比べて小さな規模で行われることになる。それは本番ではなく、プロトタイピングなのだから。

文学者のデッサン

新しいものはいきなりは生まれない。
多くの新しいものはいくつものプロトタイプの段階を経て完成に至る。実現に至る。

その意味ではアイデアをスケッチすることなどは初期段階でのプロトタイプにほかならない。別にスケッチといっても、視覚的に描かれる素描的なものだけではない。言葉によるスケッチというのもありえる。

考えているイメージを絵画的だったり言葉としてだったりを通じて明らかにするスケッチ。僕なんかは仕事上、そういうスケッチをやる頻度が高いほど、良い状態ということになるんだと思う。

さて、そんな観点で面白いなと思ったのが、ダリオ・ガンボーニが『潜在的イメージ』で伝えている、19世紀前半の時代において、デッサンが果たした役割である。

さらに強調すべきは、当時、こうした偶然任せの作品には芸術的価値がまったく与えられておらず、単なる愛好家の余技とみなされるだけであったため、逆に、展覧会や競売場の通念に束縛されることなく、自由な想像力を働かせることができたという点である−−おそらく、デッサンというジャンルにおいて、より自由な実験的試みが多数なされたことも偶然ではなかろう。絵画や彫刻よりも規則に縛られることがなかったからである。

ガンボーニによれば、この時期、庶民の間でもデッサンが流行っていたらしい。「1816年頃の記録によれば、染みによるデッサンがイギリスで流行し、愛好家サークルもあった」のだとも言う。彼らはプロの芸術家でなかったことも手伝って、自由にデッサンのもつ可能性を実験した。

そうした素人デッサン愛好家のなかには、ヴィクトル・ユゴーやジョルジュ・サンドのような文学者も少なからず含まれていたという。ただし「素人愛好家といっても文学者の立場は特殊」で、美術家との交流も盛んであった時代に、「文学者が自分のデッサンをまったく芸術的とみなしていなかったとは言いきれない」と言っている。

文学者たちは、紙にこぼれたインクの染みを用いて、曖昧で多義的な図像を作成したりしている。
例えば、ユゴーが描くのはこんなデッサンだ。

どうだろう? 抽象画はおろか、印象派も登場する以前で、新古典主義がまだ主流であった時代であることを思えば、きわめて革新的である。
それを制作したのがユゴーやサンドのような非美術家てあるのが興味深い。

デッサンの革新性

さきの引用文とこうしたユゴーに代表される文学者のデッサンをみて、所謂「イノベーションのジレンマ」のことを思い起こすのは僕だけだろうか。

クレイトン・クリステンセンが明らかにした通り、破壊的イノベーションは、既存企業の魅力ある商品に比べて、その魅力の軸からすれば、はるかに見劣りがする別の商品を新興企業がまったく異なる市場の満たされない価値に対するものとして提供することから起こる。
既存のものを優良と見せていた価値観自体が、これまで価値とも認められなかったけれど、見る人にとっては有難い価値をもったものとして受け入れられ、その価値の受容のされ方そのものが次第に大きく広がっていくことで起こる価値そのものの転換だ。既存の価値に抗う実験精神、プロトタイプ志向がなければイノベーションは起こらない。既存の正しさにこだわっていてはダメだ。

絵画や彫刻といった芸術的価値が認められていた作品形式からすれば、デッサンは価値はほとんど認められていなかった。そうした既存の価値観に縛られなかったデッサンであったからこそ、自由なチャレンジが可能だった。新古典主義のアカデミックで格式張った様式の縛りがないゆえに、これまでにない視覚表現の実験が可能だったのであろう。

そのデッサンがもつ革新的な性質を巧みに用いたのは何も文学者たちだけでなく、本職の美術家も含まれる。
そのひとりがドラクロワで、彼は《サルダナパールの死》の習作として描かれたという、こんなデッサンを残している。

このドラクロワのデッサンについて、ガンボーニはこう言っている。

例として《サルダナパールの死》の習作を見よう。素早く引かれた描線が支離滅裂に行き交い、行きつ戻りつしながら、ひとつの図像から別の図像へと飛躍する一方で、人物とその眼差しが交差し、重なり合って、全体として幻惑的な一体性を感じることができるだろう。残虐な暴君と茫然自失の従者、殺戮の犠牲となった女性の捩れた肢体、すべての要素が乱雑な描線によって一体化している。観る者は、一瞬して、ここで起こっている出来事が、道徳観念を踏みにじる暴力と無政府状態(アナーキー)であると理解することだろう。

この文章を読んで、あらためて見れば、このデッサンには、それが何を描いたのか、わからない場面が残っていることに気づく。中央すこし右側の捩れた身体の部分は、上部が腕や顔につながるのではなく、また別の身体の脚のような形象に連結している。その肉の塊は、わずかに人間の身体の形象を残しつつ、新古典主義が大事していた主題であることを辞める。

たった1つの正しさという幻想の背後に隠された無数の可能性

素描だから主題に至らなくても済んでいるとも言えるが、この観る者に不安を抱かせる謎の形象は完成品になって主題が明らかになる時点でも、もはや新古典主義のような正しさとは異なる新しさを醸しだす。

ガンボーニはこう書く。

1825年のサロンにこの完成作が展示されたとき、即座に激しい非難が浴びせられたのもうなずけるところである。

デッサンを通じてドラクロワ自身が見つめていたイメージは、その時点から既存の価値観からみたら非難の対象になるような、これまでの主題の扱いを大きく転換するような新しい実験的な価値をもっていた。

ルーヴル美術館に所蔵される、その完成品の一部はこんな感じ。

男に後ろから腕を掴まれてのけぞる中央の女は、先のデッサンにもあった肉の塊が主題の一部を形成する形象へと結実したものだろう。
実験のためのプロトタイプが、物議をかもす革新的な作品へと昇華する。

ドラクロワは言う。「美しいタブローに、ひとつの定まった思想しか見出さない人は不幸である。また、想像力豊かな人に対して、完成されたもの以外には、なにも提示しえないようなタブローも不幸である。タブローの価値は、定義しえないもの、正確さから逃れてゆくもののなかにこそある。要するに、色彩と線に魂を込めたものが、魂に語りかけるのだ」。

ボードレールはドラクロワの色彩を讃えたが、ドラクロワ自身、はっきりと主題よりも、色彩と線を絵画における重要なものとして捉えていたことが、この言葉からわかる。「完成されたもの以外」を排除してしまうような一義的な主題をもつ絵画ではなく、豊かな想像力を持った鑑賞者が無数のイメージを派生させるような多義性をもった絵画の可能性をドラクロワは切り拓いたわけだ。

「価値は、定義しえないもの、正確さから逃れてゆくもののなかにこそある」というドラクロワの言葉は、何もタブローだけに言えることではないだろう。いや、この発想こそ、新たな価値を生むイノベーションのためには必要なものの見方である。その際、この見方を具体的なアクションとして支えるのが、デッサンのようなプロトタイプ、実験方法なのだと思う。

そうしたデッサン的なアクションをどれだけ重ねられるか。
こういうことを考えてるとやる気が出てくる。

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