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デザイン経営における共生志向民主主義

世の中的にも話題になり始めているように、リモートワーク環境下に移行したことで「仕事をしている」かどうかの判断基準が、オフィス(など、仕事の現場)に参加していることから、実際にそれぞれの人がどんな成果を出したかへとシフトしてきている。

以前から問われることのあった「会議で何も発言しない人はどうか?」という問題も、その流れでいけば、会議に参加してるだけで何の発言もしない人(議事録を作成する係でもないのに)は、その時間、成果を出していないのだから、仕事をしていないということになる。

しかし、一方的Zoomなどのビデオ会議ツールではやはり音が伝わる際の微妙な時間的遅れがあって、発言はひとりずつになってしまうし、参加者全員の表情の微妙な変化を俯瞰してみるのがつらいので誰かが発言したそうにしていてもファシリテーターも気付いてあげづらい。
そうなると「発言しない人」というのも必ずしも本人の意識の問題だけでもなくなるので、少なくとも5人以上のビデオ会議は、そもそもの目的が一方的な伝達である以外はオフィス中心の前時代的な慣習に縛られたままのものだから、デザインしなおした方が良いということにもなるだろう。

デザイン経営を行う組織における民主主義的創造性

今週は、自社開催の「デザイン経営2020」というイベントに登壇した。2000人を超える人が視聴してくれていて「デザイン経営」というものへの関心の高さが伺えた。

僕は、後半の分科会の1つ「Withコロナ/Afterコロナを創造的に生き抜くためのデザイン経営の実践」を担当して、事例を交えながら、このコロナ禍でのビジネス的な負の影響からの回復を目指すためにデザイン経営の実践はひとつの解を生みだすために有効なやり方になるのではないか?という観点から話をさせてもらった。

そのイベントのDAY2が来週の火曜日にまたあって、そこでも僕は、Session2「中堅、中小企業の経営者に聞く、デザイン経営の実践」で登壇させてもらう予定になっている。

そのとき、話をしようかなといま思っているのが、デザイン経営を行う組織における民主主義的創造性みたいな話だ。

デザイン経営を進める組織にとって、何が重要なことかな?と考えたときに思い至ることの1つは、その組織で仕事をする人たちそれぞれが、民主主義的に自分の考えを組織としての仕事に反映できる環境になっているかどうかということだ。

ある意味、デザインに求められるのは、ゲリラ的思考であり行動なのだと思っている。

すでにあるものをデザインするというのは、おかしなことだ。まだない存在しないものだからデザインの必要性が生じる。

まだ見ぬものを視覚表現的技術を中心とした創造的手法を用いて、見えるように身体的に触知できるようにプロトタイピングすることで、いまだ存在しなかった物事を現実世界に実現していく役割を担うのがデザインだとすれば、それは少なからず既存の認識、ありよう、しくみに対して、アンチを示すゲリラ的な関わり方をすることになる。

そのゲリラ的な行為を進めるにあたって必要になるのが、民主主義的なチームのありようだ(ゲリラと民主主義を並べたのは、後ほどもう一度説明したいが、先日紹介したデヴィッド・グレーバーの『民主主義の非西洋起源について』で展開されている民主主義の捉え方を参照している)。
冒頭書いたような「会議で何も発言しない人」問題はまさにこの民主主義の真逆をいくもので、デザイン経営的組織からはなくしていきたいものということになるだろう。

そういう意味でも、このコロナ禍がもたらした強制的なリモートワークへの移行は、組織がデザイン経営を行うきっかけとしても悪くないなと感じていたりもする。

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ポストイットに思いを込める民主主義

創造的であるということはゲリラ的であるということでもある。破壊的イノベーションという言い方がされるのと同じような意味で、反体制的なゲリラ的な姿勢が創造には不可欠である。

そのような創造性が求められる仕事の現場における議論には、既存のありきたりな思考から逃れる=リフレーミングするための視点の移動が欲しいので、既存の視点に縛られない多様な見方、既存のものに対する外部性をもった考え方のできる人たちに参加してもらいたい。
そこで「外部のデザイナーを経営に巻き込む」という発想をデザイン経営では行うのだが、ここだけでいえば、正確には外部的視点かつ創造的手法を身につけていればよいので、巻き込むのはデザイナーに限らなくてもよいともいえる(「デザイナー的視点が欲しいのは、ないものをあるものに変えていく段階で、ユーザー視点の専門家が必要になるからだ)。

特に、このリモートワーク環境下では、社内の人も、社外の人も、そもそもオフィスの外にいるのだから、内だとか外だとかいう話はそもそも怪しくなってきているということも、中の人は考えておいた方がいい。
外の人を巻き込んだ方がよい仕事になるよう変革が進むのなら「中の人いらなくね?」となりうるのだから。
そうなったら、デザイン経営はデザイナーを巻き込む経営どころか、外部のデザイナーとのみやっていく経営になってしまう。

だが、ここで目指すのは、そういうものではない。
外部の人だけに頼るのでは話にならないので、中の人もちゃんとゲリラしないといけない

そこで外部のデザイナーや有識者、場合によってはエクストリームユーザーなどと、中の人がいっしょに、反体制的で創造的な活動をつくるための共同作業を進めようとすれば、それぞれがちゃんと自分の意見を発することと、他人の意見に耳を傾け、それらを統合する形で「まだ見ぬ何か」の構想を生みだす具体的な創造の場が必要だ。

そのとき、そうした共創的な創造の場を、参加者全員の考えが一望できるようにするためにこそ、ポストイットを使ったワークの意味がある。

Zoomのような音声空間では、声が複数同時に存在できないこと、時間の制約に縛られることから、どうしても声の大きな人と小さな人で格差が生じてしまいがちだ。
その問題を克服しようとしたら、複数の「声」を同時に空間に存在可能にする文字による意見の発信を方法として選択する必要がある。
それがポストイットを使ったプレインストーミングを行う意味だ。

もちろん、ここでは「会議で何も発言しない」のと同じようには「ポストイットに何も書かない」ことはできない。書かない理由は、外部的な障壁としては存在せず、本人が書かないこと以外に存在しないのだから。そこで書かなかったらもはや完全に仕事をしていないことになる。

そういう人がいないということが、ゲリラ的かつ民主主義的な態度で行うデザイン経営の実行の前提になるのだと思う。

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グレーバーの『民主主義の非西洋起源について』

ここで先に予告しておいたように、グレーバーの『民主主義の非西洋起源について』における「民主主義」の捉え方について見ていきたい。

書籍そのものは、すでにこちらで紹介しているので、詳しくはそちらの記事で確認いただきたい。

さて、グレーバーは「民主主義」という言葉はかつて、いまとはまったく異なる価値をもったものとして理解されていたということをこのように指摘している。

こうしたことを考えるのは、「民主主義(デモクラシー)」という言葉それ自体を説明するのにも役立つだろう。この言葉は、それに敵対するエリート主義者たちが、中傷の意図をもって考案したもののように思われるのだ。それが文字通りに意味するのは、人民の「力」、さらには「暴力」でさえある。つまり、kratosであって、archosではないのだ(注より「前者は単なる強さや力、後者は正当な支配者を含意」)。この言葉を考案したエリート主義者たちは、民主主義というものをつねに、単なる暴動や暴徒支配とそう変わらないものとみなしていた。

かつての民主主義は、既存の体制側(エリート主義者側)が自分たちによる体制を脅かす、人民たちによる暴力的活動を指すものだった。

だからこそ、フランス革命において主導権を握った人たちも、アメリカの独立運動に関わった指導者たちも、自分たちが行ったものが「民主主義」であると評価されることを拒んだのだ。
民主主義は既存勢力を打倒する力(ときに暴力的な力)そのものだった。

先にゲリラと民主主義を関係づけて論じたのは、このような意味においてだ。

しかし、この暴力を伴う民主主義的な行動を起こす側が、僕らがイメージしてしまうような無秩序な集団であったかというとそうではない。
既存の体制に反対するからといって、その活動を推めるものたちにチームとしての秩序がなかったということにはならない
むしろ、そこには既存体制が締め出した多様な人たちによる別種の秩序があったのだ。

グレーバーはそのことを「18世紀の海賊船の典型的な組織」を例にしながら提示している。

たとえば海賊船の船長は「追跡や戦闘のあいだは全権を与えられていながら、平時においては一般の乗組員と同格の扱いだった」ということや、「どんな場合でも、究極の権力は総会が持つものとされ、大抵はこの全員参加の会議が、きわめて些細な問題に至るまで裁定していた」ことなど。

「1717年にブラック・サム・ベラミーが率いた乗組員は「あらゆる国の人びとの混交」からなっていた。イギリス人、フランス人、オランダ人、スペイン人、スウェーデン人、アメリカ先住民、アフリカ系アメリカ人、さらにはある奴隷船から解放された2ダースほどのアフリカ人までいた」。つまり言い換えればこういうことになる。ここにはスウェーデンの「ディング〔自由民が集う会議〕」からアフリカの村会、そして、〈六部族同盟〉の成立基盤となったアメリカ先住民の評議会に至るまで、直接民主主義の多様な諸制度について、少なくともある程度直接の知識を持っている人びとが含まれている。(中略)これこそは完全な、異文化間の実験空間だった。事実、新たな民主主義的制度の発展を導くのにこれほど好都合な基盤は、当時の大西洋世界のどこにも見出せなかっただろう……。

ここに示されているのは、全員参加による「直接民主主義」のあり方だ。
ここには誰かに任せて「会議で何も発言しない」ような人はいない。
政治に参加しないくせに政権の文句ばかりを言う人もいない。

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共生志向の民主主義

さらに言うなら、彼らは別に既存の政権を打倒するような革命家たちでもなかった。

あくまで、自分たちの暮らしや生き方を守るために自分たちのあり方を自分たちで決め、そこへの侵入に対して対処しようとしたに過ぎないとも言える。
そんな彼らを排除しようとしたのは体制側のほうだとも言えるだろう(もちろん、海賊の側もほかの誰かの船の積荷を奪ったりなどの悪事をしたことは、打倒の対象になっても致し方なかった)。

この延長線上に、グレーバーは、メキシコ・最貧州で、あるチアパス州でのサパティスタ民族解放軍たちの活動の姿勢をみる。

グローバル化は惑星規模の意思決定構造の必要性を生じさせることになったけれども、惑星規模で人民主権の見せかけを維持し続けようという企てなど――ましてや人民参加の実現など――、馬鹿げているとしか言いようがない。(中略)こうした背景のもとで、サパティスタの出した答え――革命とは国家の強制的装置を奪い取ることだと考えるのをやめて、自律的コミュニティの自己組織化を通して民主主義を基礎づけなおそうという提案――は、完璧に有効である。

国家の強制装置を自分たちの側に奪う革命ではなく、あくまで自分たちの自律性をコミュニティの自己組織化を通じて実現しようとする、そうした意味における民主主義。

これは、環境問題的な側面や、それにも伴う経済的格差や移民の問題に焦点を充てて、その問題が地球という惑星におけるテリトリー(争い)の問題だとした、ブルーノ・ラトゥールの『地球に降り立つ』でのこんな主張と並べて考えてみると、直接民主主義により自律性をもったコミュニティが複数存在し共生する社会を模索することがこれからのグローバルレベルの課題であることがわかるはずだ。

ヨーロッパにとっての現状は、潜在的移民と100年契約を結んだに等しい。私〔=ヨーロッパ〕はあなたの許しを得ずにあなたの土地に入った。あなたも私の許しを得ずに私の土地に入るだろう。それはギブ・アンド・テークの関係だ。それ以外の道はない。ヨーロッパはすべての民族の土地を侵略した。今度はすべての民族がヨーロッパにやってくる番だ。

そして、こういうことと同じような意味において、デザイン経営的な組織においては、組織の内外関係なく直接民主主義的な誰もが主体性をもって実現したい未来に向けての活動を自律的に行なっていく活動が求められるのだと思う。

そこにおいて新しい民主主義におけるキーワードが「共生」なのである。

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意見だけでなく、パース的な意味での記号も集めて

最後に「共生」というキーワードを意識すると、デザイン経営において、エクストリームユーザーを活動に入れたり、文化人類学的なフィールドリサーチを通じて、たくさんの社会的、文化的情報を集めることの意義もみえてくるのではないだろうか。

人類学者のエドゥアルド・コーンが著書『森は考える 人間たち的なものを超えた人類学』のなかで書いているが、人に限らず、ほかの生命や無機的な存在も含めて、物事を行動に結びつけるのは、人間的な言葉だけでなく、広い意味での「記号」、チャールズ・パースの記号論的な意味での記号だという風に視野を広げると、いまだないものを新たにデザインする際には、観察から社会に存在するさまざまな記号を集めることがリフレーミングの基点として重要な意味をもつのだという理解にもたどり着くはずだ(ちなみに、先述のグレーバーもまた人類学者であるのは偶然ではないはずだ)。

それは多様な人たちが創造の場に集まって多様な意見をいうのと同じように意見を発しているのだから。

記号は精神に由来しない。むしろ逆である。私たちが精神あるいは自己と呼んでいるものは、記号過程から生じる。倒壊するヤシを意味あるものと見なすその「誰か」は、人間であれ非人間であれ、この記号とそれに似た多くのほかのものの「解釈」のための座となる―― どれほどはかないものでも――おかげで、「時間の流れにおいてちょうど生まれたばかりの自己」である。
(中略)
これらの諸自己は、「ちょうど生まれたばかりであり」、世界から遮断されていない。精神の「内側で」生じている記号過程は、複数の精神のあいだで起きるものと本質的に異なるものではない。

まさにラトゥールもいっているような「モノにまで拡張された新たな民主主義」である。

コロナウィルスという非人間的なものとの「ウィズ」を考えること、さらには、環境的な視点において地球というみんなのテリトリーで多様なコミュニティがどう共生を続けていくかという難問に取り組まなくてはいけないこれからにおいて、ここまで書いてきたような意味での民主主義的な姿勢としてデザイン経営をビジネスに取り入れることは、きわめて大事なことではないだろうか?

それには、ひとりひとりのビジネスマンが直接民主主義への参加に耐えられるよう、自分の声、自分の言葉をもった存在に生まれ変わらなくてはならない


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