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名づけられないもの

猫は「名前はまだない」といったまま、最後まで名をもたなかったが、すくなくともまだ人間に存在を認められていないものは、名前がない。

だからこそ、イノベーティブなものには名もないし、それを簡潔に説明しうる言葉などはなくて、とうぜんなのだが、どうもイノベーションはまだ生まれないのか?とか言ってる人や、どうしたらイノベーションは生まれるのか困ってるんですとか言ったりする人に限って、名前がないものに拒否感を示す。そんなの意味ないんじゃないですか?と。

いやいや、その姿勢でどうしてイノベーションを生みだす側にいようとしてるのか、さっぱりわからないなーという気持ちになるのは毎度のことなのだが、そんな方々には、ぜひ一度、ジョルジュ・バタイユが雑誌『ドキュマン』における企画「批判辞典」の一項目として書いた「不定形の unform」の以下の文章を読んでほしいと思う。

不定形のある辞書が、もはや単語の意味ではなく働きを示すときから存在しはじめるとしよう。たとえば「不定形の」は、ある意味をもつ形容詞であるばかりでなく、それぞれのものが自分の形をもつことを全般的に要請することによって、価値を下落させる役割をもつ言葉である。それが指すものはいかなる意味でも権利をもたず、いたるところで蜘蛛やミミズのように踏みにじられてしまう。実際、アカデミックな人間が満足するには、世界が形を帯びる必要があるだろう。すべて哲学というものは、これ以外の目的をもってはいない。つまり、存在するものにフロックコートを、数学的なフロックコートを与えることが重要なのだ。それに対して、世界はなにものにも似ていず不定形にほかならない、と断言することは、世界はなにか蜘蛛や唾のようなものだ、と言うことになるのである。

人は決まった形を求め、フロックコートをかける。不定形などろどろしたものはとらえがたく不気味なのだろう。扱いにくい。
定形の形を求めることは、ひとつ以上の意味を表す言葉を名前として固定することと同じことだ。
つまり、バタイユのいう「不定形」は、名のないものというのと同じようなことを指している。

世界を形として見たがる傾向は、つまらぬ停滞を生み、敵と味方を分け隔てる口実となる。自分と異質なものを排除するための武器にもなれば、保守的に新たなものを受け入れない盾となる。
それは自らの見方にバイアスをかけるが、かかっているうちはそのことに気づかないから厄介だ。

そして、多くの人は定形が前提の思考に慣れすぎてしまっているから、名前で語ることで、自分がどんなに新しいものの登場を妨げているかも、自分と異なる意見を受け入れられない要因となっているかにも気づけないままだったりする。

とりわけ、そうした人たちの保守的すぎるがゆえに、自分とは違う人たちを認めず、やたらと攻撃したがる姿勢はほんとにあまりに無益なので、せめて違う人のことはほおっておけばよいのにと思う。別に、それを認めたからって自分が否定されるというわけでもないのだから。

そういう事柄について、『ジョルジュ・バタイユの反建築』でドゥニ・オリエが書く次のような文章には、なるほどという納得感がある。

辞書は世界を自分が世界のために仕掛けたおとり鏡の罠にかける。それは、まるでノアが箱船に載せるために被造物を点呼したようである。名前を呼ばれて答えなかったいかなる種も大洪水を生き延びてはならない、つまり、繁殖してはならないのだ。名づけられないものは、何よりまず名前の伝達からなる繁殖からは排除されている。名は死を生き延びる。

辞書への掲載とノアによる点呼を重ねあわせたのには納得した。

名のないものは生き延びられない。
まさに、名のないものを受け入れないノアのような人たちがたくさんいるから、名もない状態で産声を上げるイノベーションの種は次から次へと踏み潰される。神の鉄槌によって、大洪水に沈んでいく。多くの名もなき種が水のなかに沈んでいく。

しかし、そういう名もないものはしぶといのだ。
オリエはこう続ける。

バタイユの言語は、たえず賭けに投じられ、言語自身のなかにある名づけられないものに対する欲望として欲望の舞台にのせられる。それは、記号体系に対して、「数学的なフロックコート」の下にある裸--それは自らの再生産のなかで自らを確固たるものにすることを禁止する--を再び出現させる欲望、「私はまるで一人の娼婦がドレスを脱ぐようにしてものを考える」という欲望である。

新しいものは名前もフロックコートも羽織らず、裸のままで、蜘蛛やミミズや唾のように、人知れず蠢くことをやめはしない。その蠢きから目を背けないでいたいものだ。

まあ、背けるも何も、そういう不安定で形の決まらない名もなきものにこそ、僕はワクワクする。だから、気づけば背けることはない。問題はちゃんと気づいてあげられるか。
自分のバイアスをとにかく、ひたすら取り除いて、気づく感度をあげておきたい。ちゃんと名もなきものの不定形の蠢きに賭けたいと思う。

オリエは他の箇所でこう書いている。「意味とは意味の冒す危険でしかない」と。危険を冒してこそ、意味ははじめて意味を成す。それは賭けの結果から生まれてくる。「いい人」でも書いたとおり。リスクを負わない遊びからは何も生まれない。

意味は、決して与えられることがなく、決してとどまることがなく、つねに危険を冒し、そこには保証はない。意味は安全ではない。

のだ。
けれど、安全をとる、安定を望む人たちが、間違った形で、科学や哲学を妄信する。

科学、哲学(「〜について」の言説のモデルである)は、意味を固定し、閉じた言語のなかに蓄積することを望む。その閉じた言語の言葉は、明確に定義され、有限で数えられる公平な結びつきにしたがって序列をつけられて分節化される。したがって、科学や哲学は、概念の支配のもとで割り当てられた語彙に意味を供給する。

そう。科学や哲学自体からは新しいものは生じない。不定形なものに期待するには、それとは別の危険な賭けが必要だ。

反対に、バタイユのエクリチュールによって賭けに投じられる〔=作用している〕意味は、蓄積されるのではなく、消費される。意味を持たない供儀によってしか意味は生じない。

消費に供儀。それは安定した意味ではなく、常に変化する操作を表している。常に変化を追い求めていると、名もなきものがセンサーに引っかかってくる機会は増える。

そんな名づけえないものについて日々考えを巡らせることができている、最近は僕自身にとっては、何気に充実しているのだと思う。
リスクをとる遊びは面白い。
いま僕の手の中にあるものも「名前はまだない」。

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