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いい人

リスクを負えるか。
保守的にならずに、いまを破壊する選択ができるかどうか。
リスクを取れるかどうかもあるし、そもそも保守的な自分の思考の枠を飛びだしてリスクを孕む発想に向かえるかもある。

亭主の仕事は気配のありかたと趣向の盛り付けをきわめることにある。これは景色をつくるということである。
こうしてやっと主客の一線が淡々と見えてくる。そして、遊ぶものと遊ばれるものの交感が生きてくる。それには亭主は、つねになんらかのリスク・テイキングをするべきなのである。
亭主がリスクを負わない遊びには、客も加担を感じられないものなのだ。

と書くのは、『日本数寄』での松岡正剛さんで、もはや、10年以上前に読んだこの本のことをいまだに引用したくなるくらい、亭主としてリスクをとった提案ができるからこそ、場に出迎えた人とのあいだで変化が生まれる。その場は小さなミーティングの場でも、社会という大きな場に対してでも同じだと思う。

保守的な状況を切り拓いて、新しい何かを創造するためには、このリスクをとるという姿勢が何より欠かせないのだと思うから、この松岡さんのことはたびたび思いだされるのだ。

何故?に向き合う大事さは、最近、何度かことばにしている。1つ前の「作ることはゴールではない」はもちろんそうだし、「見えないもののデザイン」でも関連することを書いた。
何故?に向き合い、何かことを起こす理由を明らかにすることからはじめないと、何も変わらないという意味で、それが最も大事だと思うのだが、同時に、その問い自体がちゃんとリスクをとった形で問えているかということも同じくらい大事だと思っている。リスクがとれなければ、ちゃんと「何故?」を問うたとしても、変化の幅はそれほど大きくならないからだ。

また、リスクをとるという姿勢に関しては、課題の設定がされたのちに、事に取り組む際にも同じか、それ以上に強く求められる。課題が明確に捉えられていたとしても、その解を生みだす段階で、当初の問いが孕んでいた本質的な変化に関わる部分が、骨抜きにされたり、角を削られて、もはや何のための活動なのかがわからないような結果にしかならないことは往々にしてある。

「何故?」から問える人は、基本的に、リスクをとれる姿勢が割とできているからこそ、その問いに向かえるという傾向があるが、それを問わない人は逆に、リスクを嫌うか、リスクにつながるような発想そのものができなかったりする。結果、設定された課題の本質が課題解決の過程で失われてしまうのだろう。

それが起こる理由についてイメージしやすくするためにも、ここであらためてリスクと言っているのは何か?を言語化すれば、それはこういうことになる。

いまの安定した常識的な考え、慣れ親しんだ仕組み、人とのつながりを捨てたり破壊したりした上で、どうなるかわからない不確実な未来の上に、単なる仮説でしかない強い思いに基づくアイデアの実現を提案でき、その実行ができること。

と。

ここには3つの要素がある。

1.既存のしがらみや安定を壊すこと
2.うまくいくかも定かではないアイデアに自分はもちろん他人も巻き込んで動かさなくてはいけないということ
3.以上の行為を、ちゃんと有意義なものであると説明できるロジックをもった課題の設定とその解決のためのデザインができているということ

の3つの要素だ。

だから、当然、リスクをとるといっても単なる考えなしの無謀さとは違うことがわかってもらえるのではないだろうか?
3番目の要素にあるように、それは害のない提案以上に、はるかに意思が明確でロジカルに課題から提案へとの組み立てがされた上での意図的な破壊、ときには既存の社会への裏切り行為なのである。

そんな風に破壊や裏切りであることを理解した上で、それを実現するための活動へと自分のみならず、他人を巻き込んでいこうとすること。そのリスクを理解した上でそれをとれるかどうか。できなければ、目的は達成されないのは当然だ。
だから、設定された課題の本質に秘められたこの破壊や変革の危うさを理解、共有しないまま、解決のための活動に向かおうとすれば、そのプロジェクトが角がとれ、骨抜きになる結果に終わってしまうのだ。
こういうこところにこそ、新たな価値をつくりだすことの本質的なむずかしさはあるのだと感じてならない。

だが、それでも、何かを変えるために何かを壊さなくてはならない。もしかしたら壊しただけで、それに代わる新たな価値をつくることはできないかもしれない。破壊の代償は何も生みだすことができない可能性だってなくはない。それでも変化のために歩を進める意味を見いだし、不確実の状況においても計画をもって進むことができるか。そういうリスク・テイキングの姿勢が少なからず、何か新しいものを生みだす際には必要なんだろうと思う。

それは考えなしには成り立たないことだし、何よりいい人でいたい人ではできないことだろう。

だから、本当に何か新しいことが数多くこの社会で求められているのだとしたら、その変革に関わるひとりひとりが自分が「いい人」になっていないか?を問う必要がある。
保守的に自分のこれまでの価値観だけで良い/悪い、できる/できない、意味がある/ないといった判断をしていないか。
あるいは、数あるアイデアの選択肢のうち、できることばかりを解として選んでいないかとか、そもそも、その選択肢はどれも既存のしくみの範疇を超えていないのではないかとか。
そして、何より自分自身の環境、姿勢、まわりの人との関係性、ルールや文化や考え方ややることだったりを変えずに済ませることばかり考えていないか。それらをいったん壊して違うものに変えてみたら、どうなるかをちゃんと考えてみたりしているか。

そうした姿勢で考えることを怠って、無難な答えばかりを置きにいってしまうことを続けたら、その先はジリ貧、単に苦しくなる未来しかない。目の前のリスクに対して及び腰になることで、「変われない」という、より大きなリスクを抱えてしまうことになる。

ならば、いい人を返上して、明確な意思をもった悪人になってみることも必要なのではないだろうか? リスクをとった亭主として、他の人にも加担してもらえる悪事で、次の何かを生みだしたい。

#コラム #エッセイ #ビジネス #イノベーション #デザイン #プロジェクト

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