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記述するという生存戦略

こんな時代だからこそ、記述することをもっと大事にしないといけないと感じている。

みんなが自分で観察したことをちゃんと自分の考えとして自分の言葉で記述する。それを他の人と共有し合い、そこを起点に議論の輪を広げて、ネットワーク的な知を組み立てていく。

フランスの社会学者のブリュノ・ラトゥールがアクターネットワーク理論で提唱していることも、古くは1967年の『発想法』で川喜田二郎が提唱したKJ法も、目指しているのは記述による知をネットワーク的につなぎ合わせることにより、既存の理論や観念に捉われない新たな仮説、解釈、説明を創出することだ。
ようは、未知のもの、未解決のものに、新たな発想による有効な説明、解釈を与え、問題の解決の糸口を見つける方法としての「記述」である。

アブダクション

KJ法はアブダクション的な推論方法であると、川喜田二郎自ら言っている。3つある推論方法のうち、演繹、帰納とは異なる推論としてのアブダクションだ。

3つの違いをWikipedia から引くとこうなる。

演繹法:演繹は、仮定a と規則「a ならば b である」から結論b を導く。妥当な演繹は、仮定が真であれば結論も真であることを保証する。
帰納法:帰納は、仮定a が結論 b を伴ういくらかの事例を観察した結果として規則「a ならば b である」を蓋然的に推論する。帰納は、推論した規則が真であることを保証しない。
アブダクション:アブダクションは、結論b に規則「a ならばb である」を当てはめて仮定 a を推論する。帰納が仮定と結論から規則を推論するのに対し、アブダクションは結論と規則から仮定を推論する。アブダクションは、推論した仮定が真であることを保証しない。アブダクションそれ自体としては、形式的には論理学でいう後件肯定に等しい。

仮説、規則、結論の関係が異なることがわかるだろう。

・演繹は、仮説+規則から、結論を推論
・帰納は、仮説+結論から、規則を推論
・アブダクションは、結論+規則から、仮説を推論

言い換えれば、

・演繹では、結論が未知
・帰納では、規則が未知
・アブダクションでは、仮説が未知

であるときに、それぞれ用いる推論方法だということになる。

KJ法がアブダクションの方法だというとき、それはなにが起こってるかも知ってるし、なんとなくどういうパターンで起こってるかもちゃんと整理すればわかるけど、つまりこれが何なのか、どういう事態なのかが説明できないときに必要な推論方法であるということだ。
ようするに、いまみたいに既成の思考では捉えがたい事態(パンデミックだったり気候変動だったり)をどう理解し、これからどうすればよいかを考える上での起点となる仮説の合意をつくる上で役立つ推論方法だということだ。

既存の理屈に当てはめない

『社会的なものを組み直す』において、「社会的なもの」をあらかじめ存在するものとして仮定してしまう旧来的な社会学的姿勢を批判し、人間のみに関わらず、あらゆる生物、あらゆる非生物、あらゆる人工物が互いに影響を与え合い、依存し合うなかで生まれるものが社会であると考えるラトゥール。
その彼が次のように書くとき、これもまたひとつのアブダクション的な姿勢における「説明」であることがわかるだろう。

説明することとは、謎めいた認識作用の芸当でなく、事物と事物を結びつけること、つまり、ネットワークをたどることからなる極めて日常実践的な世界構築の取り組みである。したがって、社会科学で用いられる因果論をANTは共有できない。私たちの場合には、AがBに関連していると言われるときには、常に社会的なもの自体が生み出されているのである。

「事物と事物を結びつけること」、それはまさにKJ法でデータ同士の類似性をみて、その関係において新たな「説明」=解釈を発想するのと同じ作業である。「ネットワークをたどることからなる極めて日常実践的な世界構築の取り組み」こそが未知なる現実に新しい意味をもった見方を発見するさまにほかならない。だからこそ、社会はあらかじめ存在するのではなく、AとBの関係性を説明するとき、いっしょに生み出されるものだとラトゥールはいうのだ。

つまり、アブダクションとしての説明を見つけること自体が社会を可能にする。
既存の「社会的なもの」を無批判に前提とした中身のないその概念ですべてを説明したつもりになるのでなく、自分たち自身で感じたことを丁寧に労力をかけてつなぎ合わせながら、新たな社会を創出していく

川喜田二郎が『続・発想法』で、こう書いているように、僕らは既成の理屈に目の前の出来事を当てはめて「わかったつもり」になってしまうのではなく、感じたことに素直に向かい合いながら、何が起こっているかを自分の言葉で「説明」することが必要なのだ。

もっとも注意を要することはなにか。それはたがいに親しいと感ずる紙きれ同士を集めることであって、このさい、「感ずる」という能力がさきに立たなければならない。ところが不慣れな人は、感ずるという能力よりもさきに、理屈を考えて集めようとする。

まさにそうした意味において、KJ法にしろ、ラトゥールの提唱するアクターネットワーク理論にしろ、アブダクションにおける説明や解釈の創出とは、未知の出来事に立ち向かう方法なのだといえる。

目の前の状況に固有に妥当する報告を見出す

いま、この現実に既知のことと未知のことがあると単純に二分してしまう思考がそもそも間違いなのではないかと思う。

どんな対象(物的対象でも出来事的対象でも)でも、それそのものか既知だったり未知だったりするわけではない。
どの対象にだって既知の部分も未知の部分もある

既知のものとしてそれ以上説明を試みようとしないのか、まだまだその対象には関心を持つべきだと考えて新たな説明の仕方を発明するかの違いである。
対象に対する好奇心だったり、ちゃんと相手を受け止め、つながり続けようとする気持ちや姿勢があるかということでしかない。

「記述するということは、具体的な事態に注意することであり、目の前の状況に固有に妥当する報告を見出すこと」だとラトゥールが言うのはそういう意味だ。

対象の側に既知と未知の違いがあるのではなく、既知か未知かは、それを見る僕らの側にしかその区分はない。

だから、起こっていることの意味はひとつではないということでもある。
ピンチに思えることもピンチなだけではない。ピンチなだけにしてしまうのは、凝り固まった自分たち自身の思考だ。それは目の前で起こっていることを見ようとせず、ピンチだと思い込むのに都合の良い部分だけを見て満足しようとする思考の怠惰による偏った解釈でしかない。

具体的な事態に注意すること。見ないフリをしていたものにもあらためてちゃんと目を向け、まだ明らかにされていない事態の側面をこそ記述すること。生き抜いていくためには、そうした姿勢こそが必要なのだと思う。そういう目で物事に目を向ける姿勢でいてこそ、頭上に光は差してくる。

記述から遠ざかるという危機

数週間前から世の中的にnoteへのアクセスが減っている傾向があると思う。ちょうど世の中でいろんなことが自粛になり、リモートワークになる会社が増えたり、不要不急の外出を人々が減らしはじめた頃からである。
いろんな人のnoteのフォロワー数を見ていても、フォロワー数の伸びがガクっと減っている。
もちろん、僕のも含めて。

投稿数まで減ってるかどうかはよくわからない。だから、記述が減ってるかはわからない。
しかし、記述されたものが読まれる機会、読もうとする意思が社会全体から減っていることは数字的にも明らかだ。
普通に考えると、外出したりできなくなって、むしろ時間的な余裕はできているはずなのに、その時間がnoteを読んだりする時間にあてられないどころか、反対に記述に向かう時間は世の中的に減っているということになる。

この様子にこそ、僕は危機感を感じる。
まさに世の中全体の思考停止感があからさまになっている様子をまざまざと感じさせる出来事のように思う。
ラトゥールが『地球に降り立つ』で気候変動にともなう危機に対して、まず第1に何をすべきかという問いに対して「これまでとは違う記述を作り出すことだ」と言っていることからしても、いまの記述を避ける世の中的な傾向はもはや危機回避の姿勢すら感じられなくておそろしい。

記述することでしか向き合えない

ラトゥールが次のように書く「自己変容」の態度としての記録、記述がいまこそ必要なのではないかと思う。

あの種の社会的なものに向かうこの種の科学は、①つながりの連鎖に目を向けて数多の異論やモノを記録するだけの時間をかけるべきだし、②一歩進むごとに増殖していく媒介子を結びつけるのに必要なだけの手間をかけるべきだし、③そうした新たな紐帯を協同して綿密に作り上げているアクターと同じくらい、反省し、周りとつながり、自らを際立たせるべきなのである。この新しい学は、差異を記録し、複数性を取り入れる力がなければならず、新たな事例にアプローチする度に自己変容する力がなければならない。

記述を怠ること。
ピンチに思えることをそれ以上深く吟味したり別の角度から眺めたり、そもそも、この世界のいろんなアクターが実際どのように過ごしており、互いにどういう関係になってるかをあらためて観察し記述してみようとすることもなく、ただただピンチのようだと思い込んで済ませてしまうことほど、バイタリティに欠けた姿勢はないのではないかと強く思う。

なぜ、こんなにも世の中を自分の目でみて考え記述しようとしないのか。
よく騙されてはいけないとかいう言葉を聞くが、本当にそう思うなら自分の記述を見出さない限り、結局「騙された」状態から抜け出すことなどできない。

なぜ、誰かの報告ばかりを鵜呑みにするか、あるいはその反対に反発するかするだけで、自分自身で物事を見つめて自分自身の考えを自分自身に対して報告しようとしないのか。他人がどうかではない。自分がどう考えどうするかでしか、自分とも他人とも世界そのものとも向き合うことはできない。

書くことによる報告の命運は、すべての媒介子の命運と連続しており、他方の学派のように断絶していない。1つの輪が切れるだけで鎖は切れてしまう。社会的なものが、一続きの痕跡であるならば、さかのぼってたどることができる。社会的なものが、組み合わさったものであるならば、組み直すことができる。

1つの輪が切れるだけで鎖は切れてしまう。
輪が切れるのはそこに記述がないからである。
記述することでしか鎖はつなぎとめられない。ネットワークはつくれない。それは社会が組み直されることの機会がないということでもある。それでは僕らが生き残れる確率はない。

僕らにとって、記述することこそが生存戦略であることをひとりひとりが自覚しないといけない。
記述を怠ってよい人なんてこの世界にひとりもいない




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