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フーリッシュな知性(後編)非人間的な知

「フーリッシュな知性」と題し、歴史上、至るとき、至るところに見られる「フール」の文化の変遷を辿りつつ、「理解」という人間的な思考の外側に開いた魔の領域に目を向けた「前編」。
さすがに長文になりすぎたため前後編に分割したが、後編では「使える」ということと「理解」の関係の外側にある非人間的な知性、まさにフーリッシュな知性について考えてみたい。

まずは、前編で紹介したチャップリンに続き、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれる喜劇役者カール・ヴァレンティンのコメディ作品に目を向けてみることから始めよう。

壊れているのは、譜面台か、彼らか

『道化と笏杖』のなか、チャップリンとキートンの『ライムライト』を紹介したすぐあと、ウィリアム・ウィルフォードは、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれるカール・ヴァレンティンの『魔法の譜面台』という喜劇についても論じている。

この喜劇は、ヴァレンティンと相方のリーズル・カールシュタットが、『ライムライト』と同様、「またしても音楽クラウン2人組という役回りで、トランペット二重奏を演奏しようと」する姿を描いたコメディーだ。

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はじめ2人の男女のベアのクラウンは「楽譜がないので、2人とも二重奏の同じ旋律ばかり吹く」。
そのあと「楽譜がやってきても、どうやって使えばよいかわからない」ので、楽譜をとりあえず「お互いの背中にぶらさげて、読むためにぐるぐる円を描いてお互いを追いかける」という馬鹿げた振る舞いを繰り返しはじめる。
観客はそうやって徐々にクラウンたちが引き金になって繰り広げられる魔的な混沌世界へと引き込まれていく

ようやく「舞台監督が譜面台を2つ持ってくるが、1つは非常に大きく、他は非常に小さい」。ヴァレンティンの譜面は非常に大きく、カールシュタットの譜面の方は非常に小さいからだ。
そして、ここからクラウンと譜面台の魔術的なドタバタ劇がはじまる。
「クラウン2人組が彼らの愚劣さを譜面台にも押しつけるので、譜面台もそれに感染してさまざまな難儀をつくりだす」のだ。

カール・ヴァレンティンは大きい方の譜面台をとったものだから、彼の小さな譜面は譜面台の隙間から何度も何度も落ちてしまう。リーズル・カールシュタットは小さな譜面台をとったはいいが、彼女の譜面が大きすぎて、譜面台は繰り返しひっくり返る。こういう難儀が何とかかんとか解決されるとすぐ別の問題が起こる。

1つの問題がとりあえずの解決をみても、問題は次から次へと起こる。
それがフールの世界だからだ。

カールシュタットの譜面は高すぎるので、譜面を見上げた彼女のかぶっていた帽子は背中の方に落ちるし、反対にヴァレンティンの譜面台は低すぎるのでしゃがんだ彼の帽子は前へと落ちる。

見かねた舞台監督がそれらの譜面台を舞台から下げ、代わりに大きな両面譜面台をもってきても今度は譜面台がどんどん大きくなって、クラウンたちは椅子の上に立ち上がらなくてはならなくなる。

譜面台がクラウンたちを弄んでいるのか、クラウンたちが譜面台をおもちゃにしているのか、まったくもって渾沌としてわからなくなる

「カール・ヴァレンティンとリーズル・カールシュタットは、大きい譜面は大きい譜面台に、小さい譜面は小さい譜面台にのせるという単純な機械的作業をマスターすることに対する、フールに特有の無能ないし拒否を表現している」のだと、心理学者でもあったウィルフォードは指摘する。

寸法と均衡は幼児を悩ませるものだが、これはそういう一般的傾向の特殊な例である。一覧の譜面台は一個の知的生命の様相を帯びるが、大小という同様な問題に属するエネルギーがこれに力を与えているように見える。フールたちは世界の只中に一個の変容を生みだし、精神と物質のあいだの日常的関係の逆転が起こる。

譜面台と譜面と演奏者と演奏という通常の関係性がクラウンたちによって壊され、奇妙な関係世があらたに生み出される。
それはカーニヴァルの日にロバが王に祭り上げられるのと同じことだ。
そして、その魔術的な空間においては、譜面台はまるで人間化したかのように、クラウンたちを虚仮にして嘲笑う。

ハイデガーの道具分析

さて、ここですこし唐突ながら、オブジェクト指向存在論を提唱する思想家グレアム・ハーマンが『四方対象』のなかで触れている、ハイデガーの「道具分析」に目を向けよう。

ハーマンはこう書いている。

『存在と時間』におけるハイデガーの有名な道具分析が示すところによれば、私たちは普段事物を扱うとき、それらを意識の内で、手前にあるものとして観察しているのではなく、手許にあるものとして暗黙裡に信頼している。ハンマーやドリルが私たちに対して現れるのは、大抵の場合、それらが機能しなくなったときだけである。

道具がうまく機能しなくなって、人は道具の存在を気にし始める。
虫歯が痛み始めた途端、歯の存在を意識せずにはいられなくなるようなものだ。
ヴァレンティンらの譜面台は、まさに機能しなくなったことで僕たちの前に現前してくるハンマーやドリルと同じ。
通常の演奏会であれば、意識されることなどほとんどない譜面台という存在が、これほどまで前に出て、手許から滑り落ちて手前に姿を現すのは、クラウンたちの半分狂った知性によるものである。
彼らが譜面台から日常的な機能を奪うのだ。

この譜面台の人間化という事態のフーリッシュな側面にこそ、ハイデガーの道具の問題の本質がある
道具は日常的に機能しなくなって、道具でなくなることではじめて人間の目の前に現れる。「そうなるときまで、ハンマーやドリルは、決して現れることなく宇宙におけるそれらの実在性を成立させつつ、隠された背景へと退隠している」というのが、通常の譜面台の状態だ。

クラウンたちがその道具の道具性を、彼ら自身のフーリッシュな知性によって破壊する。

ハイデガーはこうも述べている。「用具がその用具性に従って存在するのは、他の用具への帰属によってである。例えば、インクスタンド、ペン、インク、紙、下敷き、机、ランプ、家具、窓、ドア、部屋〔等々はいずれもみな互いに帰属し合っている〕」。ハイデガーにとって道具とは、孤立した存在者として存在するものではない。実際、道具の外形は、それ自体、他の存在者を考慮した上でデザインされている。例えば、「屋根付きのプラットフォームは、悪天候を考慮しており、公共の照明設備は暗さを、というよりむしろ陽の光が一定の仕方で変化し現れたり消えたりすること――つまり「太陽の位置」を考慮している」。

用具は用具との関係によって成り立つ。
だとすれば、関係性を成り立たせている一方の要素が壊れれば、連鎖的に用具の用具性は失われていくということになる。
その壊れた一方の要素こそが、クラウン=フールという存在だ。
彼らは壊れているがゆえに、まわりのいろんなものから人間的な意味を有した用具性を破壊していくのだ。

クラウンたちは、ある意味、ハイデガーの道具分析を先取りしているのだと言えるだろう。

フーリッシュな知性

道具はいつも隠された背景へと退隠している。

しかし、そうした日常の秩序は、ウィルフォードが書くように、クラウンたちのフーリッシュな知性によってすっかりと塗り替えられる。
彼らがフーリッシュであるがゆえに、まわりもフーリッシュになっていく。
彼らのフーリッシュな知性は、知性の欠如というよりも、人間社会の日常的知性とは異なる知性なのだろう。
その異質な知性が世界を異質なものへと変えていくのだ。

世界の知的に理解可能な秩序は、一種のフーリッシュな知性にとって代わられ、受身のものたるべき事物が愚行の表現に於いて能動的になる。つまりあの譜面台たちは、人間化したばかりではなくて、2人のクラウンが既に示していた、自然法則とノーマルな均衡に対する同じ侮蔑をむきだしにするのである。クラウンたちは「なぜ」という問いを発するが、お門違いと見てすぐ取り下げる。問題は譜面台の動きを予知してコントロールすることではもはやなくて、刻一刻に譜面台どもが何をしつつあるのかを理解し、それらが示す奇妙な知性と協力し合おうと努めることなのである。

譜面台はあたかもクラウンたちをコケにする人間のように振る舞うようにも見えるが、実は、ウィルフォードが「自然法則とノーマルな均衡に対する同じ侮蔑をむきだしにする」と指摘しているように、人間からみた自然の秩序や社会の秩序の両方ともを同時に侮蔑する存在となる。
しかし、それはクラウンたちの側も同じだ。クラウンたちによって脱機能化される道具の側も、それを促すクラウンの側も、双方ともいっしょに、脱人間化した存在となるのだ。

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脱道具化、脱人間化

ここで、ハーマンにも思想的に近くにいて、同じようにカントの「物自体」以来、モノと精神の二元論に悩まされ続ける西洋思想史の潮流を乗り越えようと、アクターネットワーク理論を提唱するブリュノ・ラトゥールの考え方が思い出される。
というのも、ラトゥールは、『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』でこんな風に書いているからだ。

ぜひとも、人間をモノとして扱い、少なくとも、ささやかな〈議論を呼ぶ事実〉に授けてもよいぐらいの実現性を与え、できる限り人々を具体化、そう、物象化してほしい!

と。
人間を非人間化してモノ同様に扱うことというラトゥールの主張はある意味、ハイデガーの道具分析的な視点を共有しているともいえ、人間にとって日常的な道具性の外で思考し直すことを促している。
その意味では、譜面台というモノが人間化したり、逆に、クラウンたち自身が脱人間化したりして、両者の境が曖昧になる様子からは、ラトゥールが『虚構の「近代」』で展開する、以下のような、近代の自然vs社会といった二枚舌への批判が思い出される。

近代憲法は、人間と非人間を完全に分離することを善とし、同時にその分離をないものにする。だからこそ近代人は無敵になれるのである。「自然は人間の手が作り出したものではないか」とあなたが非難すると、近代人は、自然が超越的であること、科学が自然へのアクセスを可能にする仲介者であること、そこに人間がまったく介入していないことを露骨に示して見せる。そこで「私たちは自由だし、私たちの運命は私たちの手中にあるのではないか」とあなたが言うと、「社会は超越的だし、その法則は常に私たちを乗り越える」と近代人は切り返す。「それではあまりにひどい二枚舌ではないか」とあなたが抗議すると、定義不可能な人間の自由と自然法則を混同したりはしていないと近代人は豪語する。そのくせ、あなたが近代人を信じ、注意を一瞬、他に逸らせたとたんに、何千にものぼる物体を自然から取り出してきては社会集団に移し替える。さらに自然物が持つ確実性を社会集団にも求めてくる。それはあの「達磨さんが転んだ」という子供の遊びのようなものである。

ハイデガーのいう「道具が手許にある」状態というのは、この近代的な二枚舌が問題にされることなく、機能している状態だといえる。自然(本能)と社会(知性)がきちんと分離されている状態ではじめて一般的な道具も、人間的に秩序だった世界も均衡を維持しながら機能するのである。
そして、この均衡を崩すのがフールたちの中途半端な知性なのだろう。

ウィルフォードが「自然法則とノーマルな均衡に対する同じ侮蔑をむきだしにする」と書いていたのがそれだ。
フールたちはいつも舞台裏でこっそり行われていた、ラトゥールのいう「人間、非人間、なかば抹消された神を同時に生産すること、そうした同時生産を隠蔽しつつ3つを独立したコミュニティとして扱うこと、分離した扱いの産物として、水面下でハイブリッド(異種混交)を増殖し続けること」という近代的な手品のタネをそのドタバタ劇を通じて明るみに出してしまうのだ。

道化の次元

ここで前編でも引いたジョルジョ・アガンベンの『書斎の自画像』からふたたび別の引用してみる。
イタリアの仮面劇コンメーディア・デッラルテに登場するクラウン、プルチネッラの身振りについて言及する部分だ。

アリストテレスの言うように、悲劇において人間は、役を模倣するために演じるのではなくて、役を引き受け、責任をとるのだとすれば、反対に、喜劇の登場人物は、ただ役を模倣するためだけに演じ、その行動には最後まで無関心で、決してかかわりを持つことはない。そのため、その行動はパントマイムへと転じるのだが、このことが意味するのは、あらゆる責任の糾弾から役をひたすら解放する、ということである。プルチネッラは、彼を紛糾させようとする生の出来事やエピソードを決して生きることはない――彼はむしろ、その身振りが行動の彼岸に、その言葉があらゆる意味の伝達の此岸ないし彼岸に永遠に留まるように、ただひたすら生きることの至福の不可能性を生きているのだ。

プルチネッラの身振りも、他のクラウンたちの身振り同様、意味の領域を抜け出し、無意味へと溶けていく。彼の身振りは、意味を伝達しない言葉のように、何も伝達しない。その何も伝達しない身振りが劇全体の流れを蝕んでいく。

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プルチネッラの身振りがそのように意味を寄せ付けないものであるなら、彼の口からでる声も意味を宿らせることはない。それは獣の声、非人間の声である。

ところで、身振りはまた、プルチネッラ[コメディア・デラルテに登場する道化師]の発する鶏のような声でもある。それは、声というよりもむしろ、イギリスの手遣い人形師たちがそう呼ぶように、「未知の言語」であり、ブルーノ・レオーネが見せてくれたような、ナポリの人形芝居の遣い手が口蓋深くまでピヴェッタ――1本の糸で結えられた2つの真鍮片からなる一種の小さなリールで、呑み込んでしまうことすらある――を突っ込んで発する、人工的な音である。プルチネッラの声――身振り――は、もはやしゃべることができなくなっても、まだ言うべきことはあるということを示している。ちょうどそのおどけた仕草が、どんな動作も不可能となったときでさえ、まだやるべきことはあるのだということを示しているように。

プルチネッラは、道具が道具として機能しなくなった状態の道具である。
「用具がその用具性に従って存在するのは、他の用具への帰属によってである」とするなら、プルチネッラはその関係性のなかには帰属していない。
そして、そうであるがゆえにプルチネッラという存在は「手許にある」のではなく「手前にあるもの」として現れる

このプルチネッラという道化の次元に目を向ける限りで、アガンベンは、ハーマンやラトゥール以上にハイデガーの道具分析の深みを理解しているように思える。
道具が道具性を離れて人間中心の視線を晒すこと以上に、プルチネッラら道化が人間性を離れて非人間的な姿を晒すのとでは訳が違う。
後者のほうがはるかに人間を混沌に突き落とすからだ。
そして、そちらのほうに目を向けるアガンベンが見ているのは、単純な人間的な地の領域を超えた場所ではない。
アガンベンのその目は、ハーマンやラトゥールがオブジェクトやモノの知性を持ちだす以上にはるかに、非人間的な知性としてのフーリッシュな知性をしっかり視線に捉えている。それに比べると、ハーマンやラトゥールの見ているものはまだまだ人間的だ。

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シェイクスピアの『真夏の夜の夢』で、機織り職人のボトムは魔法の力でロバの頭に変身させられる。ギリシア神話のミノタウロスにしろ、インドのガネーシャにしろ、動物の頭をもった者は、このクラウンたちと同じ次元に住んでいる。そこは人間的でないだけでなく、完全に非人間的な者の場所でもない、文字通り半獣半人の次元である。もちろん、それを半分機械半分人間のアンドロイド的な次元につなげてもかまわない。

いずれにせよ、そうした次元に目を向けるとき、はじめて、アガンベンが内秘的な生と呼び、アリストテレスが霊魂の有無の判別基準としたゾーエの次元が開くのだろう。


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