意味は安全ではない
前回の「徴候・記憶・外傷/中井久夫」というnoteで、人間という古くからのしくみと常にアップデートされるしくみの混合からなる複雑な構造の生き物についてのむずかしさについて書いた。
特に、記憶のシステムがどうも厄介に思う。
どういう形式で記憶として残すか/残るかという点で、中井さんが分類しているのは、通常僕らが利用している成人型記憶と3歳以降使われなくなり基本的には消去される幼児型記憶だ。
幼児型記憶は大部分消去されるし、普通は使われないが、「たわむれに撮った写真がアルバムに貼られないまま散らばっているようなもの」として残り、どうやら外傷的障害が発生する際のトラウマ的記憶はこの幼児型記憶のしくみが使われているようである。
重層性や階層秩序性があり時間的空間的前後関係によって決定される文脈依存性をもった成人型記憶と異なり、幼児型記憶は、そうした意味性をもたない。日常的な意味をかいくぐってイメージを操作できる芸術家などもこの幼児型記憶のシステム層にうまくアクセスできている可能性も指摘される。
単純化しても、この2層があるということだけで、人の思考や意識はシンプルにはいかず、時に社会的な生との間で不具合が起こる。人工的に作られた社会のしくみのほうがはるかに単純で硬直的であり、同時に、形の定まらない流動的なものを異物として排除するよう作られているから、そこで複雑な人間の心のシステムとの間で齟齬が生じるのだろう。
硬直化を促す社会システムとは、バタイユのいう定形化のためのフロックコートである。
実際、アカデミックな人間が満足するには、世界が形を帯びる必要があるだろう。すべて哲学というものは、これ以外の目的をもってはいない。つまり、存在するものにフロックコートを、数学的なフロックコートを与えることが重要なのだ。
このフロックコートの源泉となるのも実は人間の記憶であろう。歴史的な記憶、集団的記憶、あるいは、個人の記憶を抽象化して、普遍的なものへと加工したものだろう。だが、源泉は記憶でも、それは容易に変化しないよう、加工され、固定化される。
そもそも、人が生きる上で欠かすことのできない記憶は、人類の歴史同様に、後世からいくらでも書き換えられる可能性をもった真実とは程遠い情報だ。起こったこと自体はあとから変えようがなくても、それをどういう側面から解釈して、文脈のなかに位置付けるかによって同じ事象の見え方は一変する。
変更はされても流動的になるわけではない。結局は安全な形で固定化される。フロックコートはそうやって時には、衣替えの対象となる。
しかし、うまく書き換えて、コントロールできる側面ばかりでもない。
田中純さんの『歴史の地震計』に所収された対談のなかで、イタリアの哲学者マッシモ・カッチャーリがこう言っている。
記憶はきわめて危険な出会いです。研究者としてのヴァールブルクのマニアはまさにプラトンのいう対象への愛、マニア・エロティケなのですが、この対象には動きがあります。これが恐ろしいのです。過去は生きています。過去はわれわれが好きなときに引き出しからカタログを選び出すのではなく、むしろカタログのほうが勝手に出てくるのです。
対象には動きがある。
それは絵画のなかに描かれたもの、科学が抽象化してしまった対象とは違って、硬直していなくて動く。
これが恐ろしいのは、止まっていると信じていた過去からもそれはやってくるからだ。
現在のほうから過去を編集するベクトルばかりが働くわけではない。過去のほうから勝手に現在へと強引なアクセスがある場合だってある。
それは予想外に唐突に起こるから多少なりとも驚くし、気味が悪い。だが、それがいわゆる徴候や予感といった形で、通常の意味の世界からは切り離された世界=文脈への入り口となる。これに気づいて、この観念的なものに身を寄せることができるかどうかで、創造性というものが働くかどうかは違ってくる。
ドゥニ・オリエが『ジョルジュ・バタイユの反建築』で書いている「危険を冒す意味」という話もこれに関連する。
意味とは意味の冒す危険でしかない。意味は、決して与えられることがなく、決してとどまることがなく、つねに危険を冒し、そこには保証はない。意味は安全ではない。
危険を冒して意味の変化を受け入れられるか、安全性重視で既成のフロックコートに包まれた意味を後生大事に保持するか。「亭主がリスクを負わない遊びには、客も加担を感じられないものなのだ」と書いたのは松岡正剛さんだが、フロックコートで意味づけられたアカデミックなパーティーで過ごすか、まだ形の定まらない意味未満の事象と過ごすのとでは、どちらが創造に近いだろうか?
オリエは「歴史は、その結末を知らないときに生きられる」とも書いている。そして、こう続けるのだ。
未来を企てや現在の計算の再現でしかないものに還元してしまうこと、それを建築家が企てを監督するように建設することは、時間を停止する「数学的フロックコート」を未来に着せることである。革命の運動は、未来を科学の監獄から解放する。それは、未知なるものとして、自分の異質性のなかで、科学と対決する。
時間を停止させ、未来にわかりやすい形を与えるためのフロックコートを着せること。そこにある未来はその名に反して既に来てしまっている。もちろん、新しさはない。
だが、未来に創造的な何かを望むのなら、バタイユが言うように「わたしはまるでひとりの娼婦がドレスを脱ぐように思考する」ことも時には必要なのだろう。コートを脱がさなくてはならない。未だ来ぬ未来をあらかじめ型でがんじがらめにしておく必要など、どこにあるのか。「不確実な未来」といった言い方があるが、未来などといったものは、確実でない方がむしろ自然ではないかとも思う。
再び、オリエから引こう。
「盲目の喜び」とニーチェは言い、それを『悦ばしき知識』のアフォリズム287番のタイトルにした。「旅行者」は自分の影に言う。「私の思考が教えてくれるはずなのは、私がどこまできたかであって、どこに行くかではない。私は未来についての無知を好んでおり、約束されたものを欲しがってじりじりしたり、先に味わってみたりする誘惑には屈しない」。
バタイユが私淑したといえるニーチェである。やはり未来に足枷をすることを断固拒む。いや、足枷を拒むだけでなく、「どこまで来たか?」を問うている。そこから先のことは問わず、過去から現在に至るみずからの行動を問うている。
しかし、問題は、この問いさえ、僕らは過去の記憶を偽り、書き換えられるということだろう。いや、この問いに答えるためには、僕らは現在地を自分自身で答える必要がある。
だが、現在地を確かめることは実は、そう単純なことではない。私たちは自分が迷宮入りのなかに閉じ込められたというのだろうか?
私たちは決して迷宮のなかにいることはない。なぜなら、そこから出られない限り、一目でそれを把握することができない限り、私たちは自分たちがなかにいるのかどうかさえ決してわからないからだ。私たちを吐き出そうとしているのか、それとも閉じ込めようとしているのかさえわからない空間。開口部だけで構成される空間。しかも、そうした開口部が外部に向かっているのか、内部に向かっているのか、外へ導こうとしているのか内に招じ入れようとしているのかも見当がつかない空間。乗り越え不可能なこうした空間の両義的な構造を迷宮と呼ばねばならない。
そう。私たちは自分が迷宮のなかにいるのかどうかさえ、わからないのだ。自分の状態も、どこへ向かおうとしているのかさえ、見定めることができないような、目印となるものが何もないような状態。まさに幼児型記憶の世界だろう。
とはいえ、ここまで形を失った状態はさすがにつらい。だから、硬直させすぎたものしか受け取らない姿勢はどうかと思うが、すべての硬直を失くしてしまったら、人間としての生活は成り立たないのだろう。ここはうまくバランスを見つけたいところだ。
そう、うまくいくかは別として……。うまくやらないと、心のバランスが簡単に崩れてしまいそうだから。
大まかにまとめてみよう。
人は意味に置き換えないと対象を操れない。
けれど、対象は当選ながら意味そのものではない。
ようは、ここにはバランスが必要だ。
そして、そのバランスは危うい。
心のバランスという面からみても。
人は意味によって生きている生物でもあるから。
複雑な面をもった生物を生かすのはむずかしい。
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