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持続可能性と「人間」の外にあるもの

相変わらず、日本では持続可能性ということに対する意識の高まりが見られない。そのことに僕はびっくりする。

仕事柄、いろんな企業の変革に関わらせてもらっている。だけど、そうした現場でも持続可能性という観点で物事を考えることがデフォルトになってきているとはいえない。変革しようとするなら持続可能性という視点で考えることは、それだけで多くのきっかけが得られて便利だと思うのだけど、あまりそうはなっていないのは何故だろうかと感じることもある。気のせいだろうか?

いま何かを変えるとすれば、そこには環境、社会という側面での持続可能性への問いが必然的に含まれてよいはずだ。気候変動やエネルギー、食料などの問題だけでなく、少子化なども含めて僕らの社会の持続可能性の問題だろう。
このままでは良い感じがしない。ただ、ぼんやり生きているだけでさえ、そんな風に問題の影響を感じずには過ごせない環境になってきているように思うが、そうじゃないのだろうか。持続可能性についての意識が低いままなのは、その変化を肌感的に感じていられていないということなんだろうか。

外にあるものに対する想像力

たしかに、持続可能性に関する日々の論述が日本語の環境においては決定的に欠けている。世界的には大きな動きがたくさんあるのに、そうした事柄がメディアでほとんど話題にされずにいる。
自分の肌感で変化を感じられない人にとっては、それを情報として見聞きする機会も少ないのだから、変化への意識が高まらない理由のひとつなのかもしれない。

たとえば、この9月、世界131行の銀行が参加による国連責任銀行原則(PRB)が発足している。「SDGsとパリ協定が示すニーズや目標と経営戦略の整合性を取る」など6項目の原則で、化石燃料関連融企業への融資の責任を問うものだ。国連責任投資原則(PRI)として2006年に提唱され、国際連合環境計画が運用している投資に関するイニシアチブの銀行版と言える。

元になったPRIは、機関投資家の意思決定プロセスにESG(環境、社会、企業統治)の課題を反映する責任を問うものだ。
だから、投資の環境においては、持続可能性という視点がとっくに大事な判断基準となっているが、そのことをちゃんと知ってる人も日本だとあまり多くないのではないだろうか。

今回、その機関投資家たちの投資活動に加え、銀行による融資に関しても、同様の観点で企業のESG的姿勢を問う仕組みが成立したということになる。
つまり経済活動を行う企業は、持続可能性に配慮した活動をしていないかぎり、投資も融資も受けせられなくなってきているということなのだから、企業としては活動の方向性をいやが応にも変更せざる得ない状況になってきているわけだ。

海外においては、そのくらい、持続可能性のなかでも気候変動や環境問題に対する意識は高まっているが、それと日本における人々の意識の差は大きい。
特にこのような変化のなかで、ビジネスに関わっている人までが持続可能性に対する意識が低いことが単純に変だ。
ビジネスを考えるうえでマクロ変化を見るのは基本なのに、これほど大きいマクロ変化を見逃しているというのは、現状の中でのみ考える意識ばかりで、現状の「外」に対する意識があまりに低すぎるのではないかと感じる。外を見なければ何も変わらないというのに。

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人間の「外」に目を向ける

いうなれば、僕にとって、この2019年はある意味、そういう持続可能性という観点からも「外」に目を向けることをいろいろ考えた1年だったと思う。

今年の最初の頃に読んだのが、まさに『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』というティモシー・モートンによる人間的なものの「外」を問うことで環境問題に対する新たな視点を得ようとする1冊だった。
モートンがこの本で示してくれた視点をとてもおもしろいものだった。

モートンはその本の「エコロジーは、もしそれが何事かを意味するのだとしたら、自然がないことを意味する」と書いている。
ずっと語られてきた「自然」なるものは人間が勝手に創造したまやかしであって、そのまやかしを追いかけているかぎり、既存の環境問題への取り組みは間違った方向に向かざるをえないとモートンは指摘しているのだ。

それゆえ、モートンが提唱するダークエコロジーは、いまの現在の穢れた大地をありのままに、そこに立ち生きる僕たち自身の存在を含めて受け入れる態度だ。それは自然というものを必要以上に美化し、それゆえに人間存在や人間の活動すら思考から除外して、その美しさをひたすら追求しようとするディープエコロジーの陥りがちな美的態度とは正反対の姿勢を取ろうとする。

「心地よいエコロジカルな思考は不気味なものを隠そうとする」ことを指摘するモートンは、その反対物として「不気味なものは、人間であることと人物であることのあいだの隙間によって作り出される」として、その例にフランケンシュタインを挙げる。

フランケンシュタインの怪物は、読者の視野の「前方」へと引っ張り出された環境の、ゆがめられたアンビエントな部類のものだが、つまり、まさにその形式がひどい分裂を具体化している「現実的なものの回答」である。阻害された社会の残酷さの恐ろしいほどの醜さであり、啓蒙された反省の苦痛に満ちた雄弁である。

美しい自然のみを前景化する視点は、まさにこのフランケンシュタイン的なものを視野の外に追いやろうとすることで、逆に不気味なものを大量に生産する。その視野に追いやっているものがマイクロプラスチックであり、CO2であり、コットンを大量生産するためにまかれ土壌を汚染する農薬なのだろう。
モートンが指摘するのは、そうした視野の「外側」に追いやったものを引き受け、それらと一体化することだ。外にあるものを内に引き受け、自分たち自身がフランケンシュタインであることを認めることだ。

なすべき課題は、不快で不活性で無意味なものを愛することである。エコロジカルな政治は、エコロジカルなものについての私たちの視野を、たえまなくそして容赦なく再設定しなくてはならない。昨日は「外側」であったものが今日には「内側」のものになるだろう。私たちは奇怪なものと同一化する。私たち自身が、ガラクタの小片と細片でみすぼらしくつくられている。もっとも倫理的な行為は、他者をまさにその人工性において愛することであって、その自然さや本来性を証明しようとすることではない。

穢れた環境を外から眺めてどうしよう?と考えるのではなく、その穢れと一体化し、自分たち自身が穢れて息絶え絶えの末期的な存在だと認識を変えない限り、ことははじまらないというのがモートンの思考姿勢だ。

本当の意味で「外」を考えるというのはそういうことだろう。
それっぽくいえば、それは「外」を自分ごと(内なること)として考えるということなのだから。

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自然と社会という偽りの境界線

この人間がフランケンシュタインであることを認めることを推奨するモートンの視点は、『虚構の「近代」』という著書の後半部分で「そろそろ民主主義について語る必要があるだろう。もっともここで問題にするのは、モノにまで拡張された新たな民主主義である」と書くブリュノ・ラトゥールの考え方とも重なってくる。

ラトゥールが「ものにまで拡張された新たな民主主義」の必要性を説くのは、近代においては、モノ(非人間あるいは自然)と人間(あるいは社会)が分断されてきたと彼が考えているからだ。これはモートンが「不気味なものを視野の外に追いやった」ということにも近い。
つまりは、見ずに済ませている「外」なるものは、もともとは人間の内にあったものだということだ。それは「フーリッシュな知性(前編)理解の外で」「フーリッシュな知性(後編)非人間的な知」で指摘した道化=フールなどの精神的あるいは肉体的な不具者を辺境的な存在として扱う視点とつながったものだ。自分たちと異なる存在を「異なる者」としつつ、それを側に置いて関係性を維持しようとする態度自体がきわめてフランケンシュタイン的な混合物感がある。

ラトゥールの指摘もこの混合感につながる。
ラトゥールは本書で自然と社会のその分断ゆえの近代の問題を指摘しながら、非対称に扱われてきた両者の間に、対称的な関係を新たに樹立しようと試みている。
自然と社会を分断し、自然は人間の社会とは無縁であり、人間社会は自然から置き去りにされていると頑なにまでに主張しつつ、その実、近代は自然と社会の混合物=ハイブリッドをひたすら増殖させてきたことをラトゥールは指摘するのだ。

近代人は、自ら生み出す発明が社会秩序にどのような影響を与えるかについてはまったく頓着していない。それが彼らの保険になっている。一方、人類学者の主張を信じれば、前近代人は自然と文化の繋がりを、取り付かれたように入念に調べ上げる。有り体に言えば、ハイブリッドについて熟考する人々(前近代人)はそれをできるだけ制限しようとし、逆に、ハイブリッドをどのような危険にも結び付けずにただ無視しておこうとする人々(近代人)はそれを極限にまで増殖させるのである。

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ようするに、ありもしない自然と社会(人間)という境界線を設けて両者が別の世界に属するものであるかのように扱いながら、その実、自然にあるもの(つまり有機物/無機物含めたあらゆる物理的なもの)を素材としなければ何も生産できず、かつ、その生産よる影響を自然に返さずにおくこともできない人間の社会的活動をひたすら増やしていくことに賭けてきた近代のどうしようもなくハイブリッドなあり方をラトゥールは明示しているのだ。

動物も、道化も、外に追いやって

ラトゥールがもうひとつ指摘するのは、そもそも人間そのものが様々なものの混合によるハイブリッドな存在としてしかありえないということだ。
ようはいろんなものの組み合わせによるフランケンシュタインである。

「テクノロジーの形態を模した」「動物園の形態を模した」「機械の形態を模した」「思想の形態を模した」「神の形態を模した」「社会の形態を模した」「心理の形態を模した」などがすべて集合して変形作用を作っている。これらのさまざまな形態が連携し、やり取りし合って「人 anthropos」という定義を作り上げている。

もともと人間そのものがハイブリッドで不気味なものも含んだ存在であるなら、その認識そのものが「モノにまで拡張された新たな民主主義」の基盤となりうるだろう。

だからこそ、ジョルジョ・アガンベンが『開かれ 人間と動物』において、次のように書いている問いが大事になる。

もしつねに人間が絶え間のない分割と分断の場である――と同時に結果でもある――とするならば、人間とはいったい何なのか。この分割に取り組むこと、すなわち、どのようにして人間が非人間から、動物的なものが人間的なものから――人間のうちで――分割されてきたのかを自問してみることのほうが、いわゆる人間の価値や権利といったお題目について立場表明することよりもはるかに急務なのである。

動物からみずからを分割にすることこそに人間の本質があるという指摘だ。人間は「動物からみずからを分割する動物」である、というわけだ。動物を外に分割し、不具者たちをフールとして分割する。もちろん、ラトゥールのいう自然と社会を分ける近代的なあり方とも通じる。

そしてラトゥールの指摘と同じで、みずからと動物のあいだに境界線を引きながらも巧妙に、一度は別物とした動物とのあいだにハイブリッドな関係を築くのだ。道化をみずからの側に置いた中世
からルネサンスまでの視点と同じだし、近代になって彼らを身近からは遠ざけ、サーカスあるいは銀幕のスクリーンに閉じ込めた視点とも同じである。

自然も、動物も、道化たちも、みな人間の側から隔離され、塀の外、檻のなか、スクリーンやディスプレイのなかへと追いやられた。つまり、人間の外に、である。それが起こったのが近代であり、持続可能性を問わなくてはいけないような「人新世」の時代に入ったのもそれ以降だ。人間がそれらを外に追いやることで、人間の活動が地球の地質年代をも次のステップに促すような新地質年代・アントロポセンは始まっている。

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分割する者と人新世

そのはじまりである近代において分類学を体系化した生物学者であるリンネの思考をアガンベンは参照しながら、こう書いている。

人間を、持ち前の特徴によってではなく自己認識によって定義するということは、つまり、人間とはそのようなものとして自己認識するものであり、人間とは、人間たるべくしてみずからを人間として定義しなければならない動物である、ということを意味している。

人間は自らを自然や動物から分割することではじめて「人間」になりうる。近代的な人間の定義がここからはじまる。

そして、この点にこそ、ロージ・ブライドッティの『ポストヒューマン』において、モノと人間を一緒くたにした視点としてのポストヒューマンを模索することが、人新世=アントロポセンを生きる上で大事なことなのかが明らかになる。

ブライドッティはこう書いている。

ポストヒューマン理論は、「人新世」として知られる生物発生学上の時代における人間にとっての基本的な参照単位について再考するにあたって助けとなる生産性に富んだ道具なのである――ここでの「人新世」とは、〈人類〉がこの惑星のすべての生命に影響を与える地質学的な力をもつようになった歴史的な契機のことである。さらに言えば、ポストヒューマン理論は、わたしたちが、人間の行為者と人間以外の行為者の双方と地球規模で相互作用をおこなうにあたっての基本的な教義を再考する手助けともなりうるだろう。

ラトゥールが「モノにまで拡張された新たな民主主義」を問い、モートンがダークエコロジーを唱えるのと、根本は同じだ。日本人が見ずに済ませている「外」にちゃんと目を向けるどころか、その「外」がそもそも人間が自分たちを「近代的人間」として定義しなおすために捏造したからくりであり、かつ、そのからくりがあるゆえに、人新世の気候変動や環境汚染やエネルギー問題などが生じてしまっているということ、ようするにそれはどこまでも内なる問題でしかないということがここで指摘されているのだ。

「わたしたちは実際にポストヒューマンになっている。あるいはわたしたちはポストヒューマンでしかない」とブライドッティは言うが、本当にそのとおりになれている人が、この日本にはどれだけいるのか?と思うほど、この国は「外」にも「内」にも無関心で、ひたすら悪い意味で保守的だ。

人間という枠組みを考える

アガンベンは『開かれ』のなかで、こんな風にも書いている。

人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間の産出が、今日の文化において賭けられているかぎり、人類学機械は、必然的に排除(つねにすでに勾留でもある)と包摂(つねにすでに排除でもある)によって機能している。事実、まさに人間がそのつどそのつどつねにあらかじめ前提とされているからこそ、人類学機械は、一種の例外状態、つまり外部が内部の排除でしかなく内部が外部の包摂でしかないような未確定の領域を現実に生み出すのである。

人間と自然、人間と動物、健常者と不具者、人間とモノ。こうした二元論を越えようとする試みが、グレアム・ハーマンやブリュノ・ラトゥールの試みであるし、ブライドッティのようなポストヒューマンを問う哲学がある。

これらは、知性というものを「人間的」領域に閉じ込めてしまうこと、あるいは西洋的な知性に閉じ込めてしまうこと、を問い直すものだ。いま持続可能性という観点からも疑われているなか、同じように、僕らは、非人間的な知性というものをいかに考えるかが喫緊の課題でなのだろう。

けれど、ハーマン自身がハイデガーの道具分析を参照しているように、「使える」ことと「人間的」であることの関係性からはとうの昔にその問いは始まっていたのだとも言える。 ましてや、道化たちの身振りが日常の秩序を破って、世界そのものを使えなくするとき、それは古代から続く不具者たちに対するまなざしのなかに、持続可能性はむしろ社会のなかにちゃんと埋めこまれてあったのではないか?という気にもなる。
道化的なフーリッシュな知性や、カーニヴァルの伝統を外に追いやったからこそ、持続可能性に対する意識もろとも失われたのではないだろうか。

思い起こしてみると、僕の2019年の問いは、この辺りをぐるぐると回っていたようだ。



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