パサージュ論1/ヴァルター・ベンヤミン
街の賑わいとは、いったいなんだろう?
最近、地方のスマートシティ構想に関する仕事に関わるようになって、そんなことを考える機会が多くなっている。
ある街が賑わっているというとき、少なからずその街の経済はある程度まわっていなくてはならないだろうと思う。地域である程度経済が自律的にまわっている状態がつくれていてはじめて、街にもそれなりの賑わいが生じるはずである。だとすれば、街に賑わいをつくるためには、その地域の経済を活性化する取り組みは不可欠だ。
であれば、スマートシティ化を推進する場合でも、いかに地域そのものに持続的に経済が動いて、地域の人や企業、そして税収を通じて自治体にもちゃんとお金が落ちるかたちで、地域内でお金がまわる構造を考えなくてはならない。スマートシティ化ということで、外から入ってくる大企業だけが潤う構造にしてしまえば、街の賑わいなどは夢のまた夢だろう。
しかし、相変わらず、街に賑わいをというと、駅周辺や大きな駐車場をもった郊外に、大規模商業施設を誘致してなんとかしようという発想があとを絶たない。人口減少社会において、ある程度の客数を必要とするそのモデルが持続不可能なのは明らかなのに。働く環境も大企業を誘致してなんとかしようという発想になる。地域内で働く環境を作らないと、地域にお金もナレッジもたまらないというのに。
大規模商業施設に魅力的な商品目当ての人を集めるモデルが19世紀の半ばに生まれたということは、1つ前、鹿島茂さんの『パリのパサージュ』について書くなかで紹介した。
パリに世界初の百貨店といわれるボン・マルシェが開業したのが、1852年のことである。これを皮切りに次々と百貨店が生まれることになり、19世紀の初頭から街の人びとの賑わいつくりを一手に担っていたパサージュが役割を終えることになった。
そんなパサージュこそが、次々と移り変わっていくモードによって人びとを魅了し、遊歩者=フラヌールと呼ばれる人の群れを集めたさまを論じるのが、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』だ。
年末年始に読んだパリにまつわる何冊かの本を続けて紹介してきたが、その掉尾を飾る1冊として、そんな時代の変換点を描きだすこの本を紹介しながら、19世紀以降のモデルとなってきた商業中心の街の賑わいモデルをいかに超克していけばよいかを考えてみたい。
19世紀はじめに生まれた賑わいのモデル
前回紹介した鹿島茂さんの本にあるようにパサージュが生まれたのは、1810年代で、20年代に最も多くのパサージュが作られている。その後、1940年代頃まではパサージュの建設は続き、商業的に成功したものもあれば、あまりうまくいかなかったものものある。
成否の要因は立地的なものもあれば、パサージュの意匠や、誘致した店の種類にも拠ったようだ。しかし、パサージュが当時のパリの繁華街の中心的な役割を担っていたのは事実のようである。それがわずか半世紀程度の限られた期間であっても。
ベンヤミンは1852年の『絵入りパリ案内』からこう引いている。
建物のあいだにつくられた室外の通りでありながら、ガラス屋根で覆われて雨や風も避けられ、大通りを走る馬車にも邪魔されることなく買い物を楽しめる新施設パサージュは、19世紀のはじめ、産業革命によって可能になった大量生産品を、同時に登場した大衆に見せ、売る最初のしくみとなった。
ベンヤミンは当時の流行画家グランヴィルの芸術の秘められた主題は「商品を玉座につかせ、その商品を取り巻く輝きが気晴らしをもたらしてくれる」ことだと言っている。そして、グランヴィルが「生命のない対象を描くときのこざかしい手練手管は、マルクスが商品の「神学的気まぐれ」と呼んだものに相応して」おり、「この手練手管は、「スペシアリテ」[特産品、特選品]なるもののうちに込められている」のだとも述べる。生命のない対象が魅力あるスペシアリテに変貌するのは、グランヴィルの手練手管というだけでなく、大量生産された産物をモードに変える商業的な手練手管でもあるはずだ。そう、広告という手練手管である。
商品を展覧するしくみとして、万国博覧会や百貨店に先んじたのが、パサージュなのだ。人で賑わう広告的手法で人びとを魅了するのは、現代のインターネット時代においても変わらない。人が集まる広告メディアの19世紀前半版がパサージュだったのだ。
半世紀後に百貨店に取って代わられるまで、パサージュはその半室内的な空間に多くの人の賑わいを集めることになる。勢いよく走る危険な馬車に怯えることもなく、雨や風を凌ぎつつも陽の光も浴びられる半外部空間であるパサージュは、いまでいう「ウォーカブル」な通りとして人びとの行き交いと滞留の両方をバランスよく可能にし、さまざま人びとのあいだの交流を可能にしていた。商業施設中心の賑わいモデルが生まれたのはその頃だ。
だとすれば、いま問われるべきは、街の賑わいをつくる目的は、その当時に始まった広告モデルを可能にするためのなだろうか?と言うことではないだろうか。
モードと死
19世紀初頭、ヨーロッパの人びとは新たな賑わいのかたちを欲していたのだろう。
というのも、それはちょうど古代から中世を経てかたちを変化させながらもずっと続いてきたカーニバルイコール祝祭のような別のかたちの賑わいが社会から抹消された時期でもあったはずだから。聖と俗が反転し、日常では忌避されていた食欲や性欲などの肉体につながるものが解放される祝祭は、近代が自然と人間とを切り離す以前において、自然のなかの人間というありようを肯定するために必要なものだったのだろう。そこにおける賑わいは、死んで動かなくなった対象を崇める商業的な賑わいとは正反対のものだったといえる。
そして、もうひとつの変化も見逃してはいけない。
ユゴーが『ノートル=ダム・ド・パリ』でも描きだしたような広場での罪人の処刑などがまちの人びとを陽気にさせる見世物としてまかり通っていた時代がすくなくともフランス革命でのコンコルド広場での王たちの処刑の時代までは続いていたが、それも18世紀の終盤か19世紀のはじめのどこかで大きく様変わりして、かつての見世物は残酷だと糾弾されるようになったあとの時代でもあるからだ。
海の向こうのイギリスで、シャーロック・ホームズが残酷な事件を解決するというかたちで殺人犯の心理や行動を日の下にさらすのは、19世紀の後半のことだが、それも形を変えた広場での処刑であっただろう。
だからこそ、ホームズよりすこし前に花開いたパサージュを舞台としたモードの饗宴について、ベンヤミンがこう書くのはすこしも不思議ではない。
在庫一掃という名の死への誘い。その反復がレヴォリューションとは。
18世紀半ばの革命を経たのちに到来したのが、パサージュを舞台とする大量生産品によって節制された安価な死の再生産であったことに気づくベンヤミンの鋭さは驚くべきだと思う。
死体化した商品のまわりにできる人だかり。確かにそれは、かつて処刑が行われた広場に集まった人びとの賑わいの代替としてはきわめて理に適ったものかもしれない。
モードにおける〈いま〉と〈かつて〉
さて、この『パサージュ論』、僕としてはずっと前にも一度読もうとチャレンジして断念したこともあるベンヤミンの未完の作品だ。未完といっても途中まで書かれたものというよりは、まだ作品として書きはじめる前の構想段階でのベンヤミン自身のメモ書きや他作品からの引用の断片的集まりである。
そんな『パサージュ論』をこのタイミングであらためて読もうと思ったのは、昨年末に読んだジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『ニンファ・モデルナ』で言及、引用されていて興味を持ったからだ。
ユベルマンは捨てられて忘れ去られた襤褸布のようになったニンファが街路の路肩に回帰してくるさまを論述したその小さな作品のなかで、「「街路にいる」とはなにを意味しているのか」を問う。この襤褸布自体、先の死体としての商品とぴったり重なるのだし、商品がいつでもゴミになるというのは、この「循環型社会」への移行が問われる現代の世の中ではあまりにも自明なことだ。モードな最新の衣類と襤褸布はどこにも違いはない。
ユベルマンは襤褸布が回帰する都市の街路に照明をあてたその上で、パサージュという19世紀の初頭に突如現れて花を咲かせ、ひとときのあいだに忘れ去られたこの特殊な街路とその街路が生まれた時代に注目したベンヤミンを次のようなかたちで召喚していた。
「いま」というイメージのうちに、忘れられた「かつて」がそれとなく内包される時代。それが大量生産とそれを求める大衆の創造によって可能となったモードの時代である。
すでに死体となって忘れ去られていたものだからこそ、モードな商品として「いま」に回帰可能なのだろう。
古いものが新しいものである
モードとして現れ、人びとを魅了する「最新のもの」と、忘れ去られた「古いもの」の関係について、ベンヤミンはこう書いている。
これはいまでも大衆が未知のものを避けようとし、慣れ親しんだ既知のものに愛着を感じることを思い出せばわかる。人びとが「懐かしい」という言葉と同時に感じるのは、忘れていたとそれに対する新鮮さだったりする。人びとは知っているものにしか魅力を感じることができないし、それがすでに忘れていたものであれば思う存分魅了される。目新しさとは完全に忘却していた対象に対する懐かしさに他ならない。
やがて万国博覧会や百貨店という形で産業が生みだす「目新しいもの」を陳列しては大衆をそれら商品の虜にさせるモードをエンジンとした消費社会がつくられるようになる。
そこにいたる萌芽としての19世紀初頭のパサージュに目を向けた上で、「そのつど最新のものが、すでにあったものを媒体として出来上がるというこの劇こそは、モード本来の弁証法的劇なのである」といったベンヤミンはまさにこの作品で、モードにおける〈いま〉と〈かつて〉の関係を明らかにしようとしていたのだ。
忘れ去られたものが蘇る
このベンヤミンのしぐさは、この『パサージュ論』の2巻目にも大きく取り上げられるボードレールのしぐさをなぞったものだ。
そして、そのボードレールが彼にとっての現代とかつてとしての古代を結びつけたのは、彼よりすこし先行するユゴーが古代を召喚するさまに影響を受けてのことである。
僕自身、ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』をこの年末に読んだのは、読み始めた『パサージュ論』にユゴーの作品に登場する「奇跡小路」への言及があったからでもある。
ベンヤミンはこんなメモを残している。
ここでもまた死と同様に、忘れ去られたものたちの臭いが深く関係している。
ここで言及されるようなユゴーが描く中世の奇跡小路とパサージュの重なりもまた、〈いま〉と〈かつて〉の関係として、忘れ去られた〈かつて〉が別の装いをまとって〈いま〉に回帰するかたちのひとつだからだ。
パリという街自体が、死を忘れるための巨大な装置なのかもしれない。次のような凱旋門に関するメモを見るとそれがわかる。
凱旋を祝する建造物というよりも、聖なる門の外に殺戮の記憶を置き去りにするための装置としての凱旋門。パリで最も有名な凱旋門である、エトワールの凱旋門が出来上がったのが、パサージュ全盛の1836年というのは、ただの偶然だろうか。
死を忘却させ、異なる魅力に変える装置がある。そうした場所であるからこそモードが可能なのだろう。
死体をバラバラにして売っているというのに
横たわる死体。そのボディから死のイメージを拭い去り、別のイメージで飾り立てるところにモードは生まれる。生命のないものをスペシアリテに変えるグランヴィルの手練手管同様の操作が魅力的なモードを可能にする。そして、そこに人びとの賑わいを生むことが19世紀以来、手を変え、品を変え、繰り返し行われてきたことだろう。門で締め出したのは、死のイメージであって、実際街のなかは死体だらけになる。もちろん、そんな状態で持続可能性などあったものではない。それが長らく行われてきたことなのだろう。
つまり、こういうことと同じだ。
生を奪われ、バラバラにされた死体が美しい言葉で彩られ、人を魅了する商品となる。死と無機的な形象のみが街中に展覧されるのだ。
どんなものでも殺傷とは切り離せない。商品とはそもそもそういうものなのだが、凱旋門よろしく、どんな商品も綺麗さっぱり殺傷のイメージは取り除かれている。殺傷だけでなく、あらゆる汚れたイメージが除かれた状態でモノは売られる。この死や穢れとは無縁にモノを売り買いできるようにした仕組みが近代以降の産業革命というものではなかったか。
そんな風にしてできた、自分はあらゆる穢れと無縁だと信じる人びとを、大衆と呼ぶのだろう。そして、そんな人びとを集めて、街をふらつかせることがいつしか賑わいだと考えられるようになった。
それは広場で処刑を喜んで見ていた人たちよりもまともなことだろうか?
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