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世界は頭のなかに

「目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいる」。

エルネスト・グラッシの『形象の力』の冒頭に置かれた、上の言葉で終わる文章が僕は好きで、ときおり思いだす。
もうすこし長く引くとこういう流れのなかに上の一文はある。

人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。

僕のnoteではずっと同じことを問いとして言語化してきているように、僕らは自然=世界からほとんどの時間を切り離されて過ごしていて、そのことに自覚的であることが必要だと僕は思っている。

僕らは生の世界とはほぼまったく接していない。
自分自身で考えることのできない人は言うまでもなく、自分で考えている人ですら、世界そのものではなく、世界をなんらかの形で抽象化したものを素材に考えているのだから、直接的に生の世界に向き合うことはほとんどない。

単純化して言えば、僕らは世界そのもののなかで生きているとしても、直接的には自身の頭のなかのイメージに置き換えられた世界で生きているのであって、世界そのものを認識して生きているわけではない

目に見えない一本の糸が見えない

いま、またこの文章を思いだしたのは、世界からほとんど切り離されているなかで、果たしてどれくらいの人が、グラッシのいう「目に見えないほどの一本の糸」に気づくことができるか?ということが問題だと感じているからだ。
文字通り、「目に見えない一本の糸」が見えてない人がほとんどなのだろう。そもそも僕らの生きる世界の裏に、ここで「自然」と呼ばれるものが存在していることがわかっているのか?ということでもある。

ただし、グラッシの文章を読んで、隠れた「自然」というものがあると理解するとまた間違う。
隠れているのは、いわゆる自然という言葉で連想されるものではなく、ほぼ人工物によって成り立っている世界そのものや僕ら人間が行う言動も含めての「自然」である。だから、僕は自然=世界としたわけだ。

なので、現実という言葉に置き換えても良いのかもしれない。

僕らはほぼすべてにおいて現実がみえていない

でも、そのことに自覚的な人は、現実とのあいだにつながった「目に見えない一本の糸」の存在を感じようとする。
あるいは感じられなくても、現実そのものではない、それぞれの人によって異なりうる「現実感」が複数存在していることを理解し、ただ、そのいずれもが現実と見えない糸でつながっていることを前提として他人と接しようとする。

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社会的距離で分断された社会で

そのことがいま問題になるのは、この社会的距離によって個々人が分断された状況では、いつもは一緒にいることで同じ世界を共有しているという幻想を抱けているのが成り立たなくなり、それぞれの頭のなかの世界の差がいつも以上にくっきりとしてディスコミュニケーションや、世界観の違いをもとにした対立が起きているからである。
どれも本当の世界ではなく、自分の頭の中なかの世界でしかないということを前提としない限り、協調的な関係性は実現しえないのだから、これは問題だ。

グレアム・ハーマンは『四方対象』で、ハイデガーの「道具分析」の考えを参照しつつ、こう書いている。

『存在と時間』におけるハイデガーの有名な道具分析が示すところによれば、私たちは普段事物を扱うとき、それらを意識の内で、手前にあるものとして観察しているのではなく、手許にあるものとして暗黙裡に信頼している。ハンマーやドリルが私たちに対して現れるのは、大抵の場合、それらが機能しなくなったときだけである。そうなるときまで、ハンマーやドリルは、決して現れることなく宇宙におけるそれらの実在性を成立させつつ、隠された背景へと退隠している。

「退隠」というハイデガー哲学の用語が登場する。
世界そのもの、現実はいつも、それが僕らの日常においてうまく機能しているとき、僕らに気づかれないよう退隠している。
物理的なものだけが退隠するのではない。
ハーマンが「私たちは、意識から退隠するのは客観的で物理的なものではなく、世界それ自体が、あらゆる意識的なアクセスから退隠する実在でできているのだという点においても、ハイデガーに同意せざるをえないのである」と書くように、世界に存在する人間の言動や物事の振る舞い、暗黙的なルールや作法までを含めて、それらがうまく機能しているあいだは退隠している。
その存在になんとなく気づくのは、それがうまく機能しなくなったときである。

その意味で、いまのこの世界全体で日常が機能不全に陥っている状態では普段、人々の目からは退隠している現実がすこし垣間見えている状態ではある。
ただ、そこでも正常性バイアスが邪魔して、日常が壊れて生まれた亀裂から覗く現実に見て見ぬふりをしたり、見えていても受け入れられない状態になっている人がこれまたほとんどだ。

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異なる世界像に囚われたまま、どう協働するか?

そうなると単に日常の機能不全だけが残る。

この機能不全に対処するためには、まず、自分たちそれぞれが、世界はそれぞれの頭のなかにあるイメージだということに気づいた上で、たがいに異なるはずの世界像を抱えたまま、どう協調を可能にするか?を考えることが必要になる。
つまり、それがリモートワーク、テレワーク、在宅勤務など、なんと呼ぼうが異なる環境にいて、協働するときの最初に解決すべき問題なのだといえる。

どんな仕事でも作業を行うには、物理的なものであれ非物理的な概念的なものであれ、素材がないと成り立たない。
いままでのように同じ空間で同じ出来事などをあれば、さまざまな素材をどう解釈しているかはそれぞれバラバラでも、同じ環境で共有された対象が「目に見えない一本の糸」で協働社会同士をつなぎとめる役割を果たしていたから、大きなズレが起こらないよう対処することができた。
それが、作業そのものを同じ場で同じ時間で複数の人と行うワークショップなどの手法を仕事に取り入れることのメリットだった。

でも、この分断された状況では、たがいに異なる世界像をもった者同士をつなぎとめる、作業の素材を揃えること自体に工夫が必要となってくる。
それぞれの目の前にあるのは、それぞれがいる異なる環境にあるバラバラの対象なのだから、それらの対象がこれまでのように、異なる世界像を見ている人々のあいだを媒介する役割を果たしてはくれない。

だから、別のかたちの工夫で、それぞれの頭のなかにある世界像を連絡させるようなものを現実世界で共有できるような見える化の工夫が不可欠になる。
これを用意せずに、リモートワーク、在宅勤務が成り立つと考えるのはちょっと浅はかすぎるだろう。

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頭のなかの世界を晒す

共通の環境に存在する対象がもたらしてくれる、つなぎとめの機能に頼ることのできない、社会的距離によって分断された現状において、それぞれの人がそれぞれに抱え、かつ、そこから逃れる術などない「頭のなかの世界」を前提にし、それぞれが頭のなかの世界にいたままで、違う頭のなかの世界にいる複数の人々と協働しようとすれば、どうするとよいか。
まず、協働のための素材を共有するためにも、それぞれの頭のなかの世界にあるものを記述し(文章でも、Zoomなどを使った口頭でのやりとりのなかの話し言葉による描写でも)、相手もそれを扱える状態を作る必要があるのだと考える。
ラトゥールがいうような記述することの重要性がここでも明らかになる。

そうでなければ、同じ素材を扱って同じ作業をすることで、これまでと同じ仕事の目的を果たすということがむずかしい。
目的を果たすことが大事で、そのためには状況が変わればこれまでの方法は見直す必要がある。
そこで手段と目的を取り違えると、状況が変化しても目的ではなく、手段を維持しようという間違った選択をしてしまう。
ここにも正常性バイアスの罠がある。

環境的に分断されている、いまの状況の問題は、いかに仕事を進めるために必要な素材を共有できるようにするか?である。

物理的な環境における素材に頼らない以上、個々の頭のなかの世界にある素材を直接共有し合うしかない。そのとき、言語化力をはじめとする、表現力の重要性がこれまで以上に問われることになる。
表現力といったが、質だけではなく、スピード、オープンに共有する仕組みや姿勢も問われる。また、表現されたものをアーカイブしたり、検索可能にすることも必要だろう。
当然、表現力と同時に表現されたものを読みとく力、理解する力も求められる。

これらはもちろんいままでの環境でも求められていた力だったが、この分断された社会ではその力がないことが誤魔化しのきかないことになる。
分断された社会では、ある意味、記述され、見える化され、共有化されてないものは存在しないのと同様になる。存在しないものを素材に仕事はできない

これがいま多くの企業において問題になっていることの本質ではないだろうか。
こうした視点での人材育成、スキル強化、さらには、こうした活動を組織的に可能にするシステム整備がどの企業においても急務なのだろう。


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