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New Normal ?

あー、なんか本当に夢から醒めた気分だ。

今週は3日オフィスに出社してみた。
フルリモートワークの期間が2ヶ月も続くと、誰もが感じたのと同じように、このままオフィスに出社しない働き方もありなんじゃないかと思っていた。
でも、3日出社してみて思ったけど、まったくそんなことないなと早くも気づいた。

オフィスで働くほうが圧倒的に生産的だ
他人と話すにも話は早いし、発想が豊かになりやすい。
あと画面のなかの映像やPCからの音声のみに縛られないのは、いろんなものを認識して利用するのがやっぱり楽だ。
なので同じ時間働いても疲れない。

いまはそこにオンラインビデオ会議などのいいとこどり(たとえば、移動なく大人数が一度の会議に介することができる、など)もできてるので、さらに良い。

一気に世の中的にリモートワークが進むなんてのは嘘だと思った。
オフィスはなくならない。

そして、コロナウィルスの危機がいったんおさまれば、New Normal(新常態)なんてものもおそらく忘れさられて、現実のものとなることはないのだろうと。

イケてるオフィス、イケてる仲間

生産性がそれほど必要ない業務ならともかく、普通に生産性、創造性が必要な仕事には今後もオフィスが必要だ。もちろん、オフィスと言ってる以上、オフィスワークをしてる業務の話ではある。

もうすこし厳密にいうと、今後も必要なのは、イケてるオフィスだ。
イケてないオフィスは今後は淘汰されていくかもしれない。いま、リモートワークでいいじゃんという話にもなりやすいのも、イケてないオフィスが多いからかもしれない。

同じように、そのオフィスでする仕事がイケてるかどうかもあるんだろう。
オフィスにいる人がイケてるかどうかも。

オフィスに行っても、イケてる仲間とイケてるやり方で仕事ができないなら、そりゃ、行く必要あるの?とはなるだろう。

もちろん、これは他人からイケてる仕事がもらえるかではなく自分でイケてる仕事を作れるかだし、自分がまわりにとってイケてる仲間と認識してもらえる仕事ができてるかということだ。

そういうことはありつつも、それでも、総論すれば、オフィスに行ってオフラインでやる仕事の方が結局は生産性も、創造性も高くなりやすいし、働く上でも楽なことが多いはずだ。

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リモートワークの意味の変更

そのとき、より良く仕事をするために、オフィスそのもの、いっしょに仕事をする仲間、仕事のやり方を「イケてる」ようにすることを優先するためには、何を変えるといいんだろう?

僕はまず、リモートワークというキーワードを「自宅で仕事をする」という意味から変更するのがいいと思う。

リモートワークというものを、「組織の枠、一個のオフィスの枠にとらわれず、いろんな場所、いろんな仲間とフレキシブルに仕事をする」ことという意味に捉え直す。

より生産性や創造性が高まる方向で、必要に応じてフレキシブルに、働く場所やいっしょに働く仲間、やり方を選ぶことができるようにする。
そういうフレキシブルな働き方を実現するしくみを導入できれば、非生産的な仕事、イケてないオフィス、つまらない仕事の仕方は自然に淘汰されていくだろう。

自宅勤務か、オフィスワークかなんて2択で議論することはつまらないが、こういうリモートワークの実現のために、そのために必要なものをデザインしなおすことは面白いと思う。
しかし、それはほっておいて実現するようなNew Normalではない

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古い二項対立―仕事かプライベートか

ここまで書いたことはあくまでコロナウィルスによる危険がほとんど気にしなくてよくなったあとの話だ。

いまはまだコロナウィルスへの感染の危険性があるから、自宅勤務という意味でのリモートワークをある程度は取り入れ続けるのが良いのは間違いない。
社会的な視野における、感染防止のための自宅勤務対応が引き続き必要なのはいうまでもない。

けれど、自宅勤務をする理由が、その方が快適だからとか、通勤が面倒・無駄に感じるから、という理由なんだとしたら、なんのこと?という話だ。
それは仕事の仕方の話ではなく、自分の人生のどのくらいを仕事に振り分け、どのくらいをプライベートに振り分けるかという選択の話なのだから。
そう、コロナ禍どうこうなんて関係ない、近代社会成立以来ずっと続く二項対立でしかない。
古い議論で、ぜんぜんNewな感じはない。

いままでよりプライベート(生産性や創造性にさほど関係ない快適さや、通勤云々)を重視したいなら、それは仕事の割合を減らすという話になる。だとすれば、それは給与を減らすことも含めた契約の見直しの話をしてからだ。
それもなく自宅勤務のほうがいいというのは、ある意味、暴動レベル(ストライキなど)のわがままだ。

それに仕事量を減らして生産性を落とすことは、結局、社会全体でみた場合でも生産性そのものを下げるほうへのシフトすることになる
いまも日本は休業要請などにともなう補償が少ないなんて文句があるが、生産性を減らす方を選んだひとはそんなことを言う筋合いもなくなる。その原資もまた自分たちの生産性によるものなのだから。原資をみんなで増やそうという行動が伴わないなかで、お金を払ってもらうことばかりを期待するのはどうかしてる
そういうことをちゃんと認識した方がいい。

それに結局、プライベートを重視して仕事の側の生産性が減れば、同じような意味でプライベートの充実度にも影響がありうる。
そんなこともちゃんと考えた上で「通勤電車がいやだ」という声を上げるかどうかを判断しないと、結局のところ、それは自分の首を絞めることになりかねないのだということもちゃんと視野に入れたほうがいい。

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職住分離のルーツ

という前提がありつつも、僕もこの期間で自宅勤務によりプライベートを重視することの良さをあらためて知ったのも事実である。
通勤という移動がない分、家族との時間が増えたり、家で仕事をすることで仕事をすることとプライベートで過ごすことの境目を曖昧にできる

しかし、何故、職住は近接しているのではなく、分離した形でいまの社会がデザインされているのかを考えてみない限り、ただただわがままに「自宅で仕事したい」なんて言ってみたところで何も変わらない。
家で(または家の近くで)仕事をしたいという思いと社会の仕組みをより良い関係になるよう仕組みそのものをリデザインしない限り、いつまでも仕事とプライベートという古い二項対立から抜け出せない
だから、その二項対立がどういう背景で作られたかを考えなくてはならない。

もともといまのような職住分離の社会的しくみが定着したのは、近代的な社会が構築されて以降でしかない。

ヴォルフガング・シヴェルブシュが『鉄道旅行の歴史』のなかで書いているように、鉄道が普及する前は、各地方は独立してそれぞれの時空間に閉ざされた形で社会経済を回していた
自宅とは異なる場所で働く人ももちろんいたが、それは基本的に徒歩圏内であった。

各地方の時空間に閉ざされていたと書いたが、これは文字通り、地域が空間的に独立していただけでなく、時間的にもまた独立していたということでもある。
地域ごとにバラバラの時間があるのが鉄道以前には当たり前であったことをヴォルフガング・シヴェルブシュは教えてくれる。

地方は、具体的にその時間を失う。鉄道により、その地方的な時間が奪われてしまう。地方が個々に孤立しているかぎり、地方にはそれ固有の時間があった。ロンドンの時間はリーディングより4分、サヤレンセスタより7.5分、ブリッジウォーターよりも14分早かった。この各個ばらばらな時間は、時差などいわば消えてなくなってしまうほど、その間の交通がまだゆっくりと行われていたころは、なんの障害にもならなかった。鉄道の発達で、路線の時間が短縮されると、地方同士が対決を迫られるようになり、同時にその地方時間も自覚を迫られることになる。

この鉄道による地方時間の消滅が、後に世界的な標準時間のしくみの成立につながっていく。

「時間の統一は、英国では1840年頃個々の鉄道会社が独自に企て」、そののち「1880年には、鉄道の時間が英国では一般の人標準時と」なり、「ワシントンで開かれた国際標準時会議は、1884年にすでに、世界を時間帯に分けたが、ドイツで標準時が公的に採用されたのは1893年のことである」という具合に。
けれど、それは19世紀の末のことでしかない。

鉄道により同じ時間で移動可能な距離が伸びたことで、地域で異なっていた時間が統一されるようになり、それまで職住近接が当たり前だった働き方が電車での移動が当たり前の職住分離の形に移行していく。

それはヒュー・ケナーが『機械という名の詩神』で、詩人のT.S.エリオットの作品を読みながら、次のように「通勤」の新規性として書いているような社会的変化を生みだしたのだ。

新奇だったのは通勤という形態である。時間で管理されていたため、通勤は何千もの人びとをひと所に収束させた。そこでは、人は個人の時間にしたがって行動していたものの、それはほかのすべての人が共有する時間でもあった。人類がこれほどの規模で抽象的なものを共有したことはなかった。通勤によって同席したさせられた人びとは、互いを知らないばかりか、自分たちがなにを共有しているのかさえ気づいていなかった。

鉄道が多くの人が同じ時間に移動する通勤を生んだのだから、電車があり続けること、電車に乗って向かう職場があり続けることを問わないまま、通勤はいやだなんていっても何も変わるはずはない。
本当にそれを変えたいのなら、代わりの仕組みをデザインしなおさないといけない。

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分離・分割が前提の社会のデザイン

さて鉄道普及によって通勤がイギリスで生じていたのと同じ時代のアメリカでは、こうして可能になった職住分離の働き方をさらに生産性を高めるものとするため、科学的管理法の父と言われるフレデリック・テイラーが職場と住宅の分離(仕事の時間とプライベートの時間の分離)を標準化する。

面白いのは、これが職場の側で職住分離を前提とした働き方のデザインとしてのテイラーシステムを生み出しただけでなく、もう一方の住居の側でも分離を前提とした生産性の向上を目指したデザインが行われた点だ。

たとえば『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』で、こんな話が紹介される。

ビーチャー姉妹は、家事労働を軽減するために、まず具体的な設備に注目します。設備を使いやすくすれば、家事の時間や費用や労力が節約できると考えたからです。家庭内で家族全員が家事に参加することを表明しています。それは当時のアメリカの中産家庭でサーバントを雇うことなしに、つまり家族ではない黒人を使役しないことを意味します。

南北戦争を経て、黒人奴隷の解放が進んだ19世紀の終わりに、ビーチャー姉妹はいまのシステム・キッチンの原型をつくり、キッチンとダイニングがつながった住宅の設計をした。
この際、参考にしたのがテイラーシステムであり、フォードの大量生産方式だったと言われている。
そして、テイラーシステムが職場における科学的管理法であったのと同様に、家庭における生産性の向上のためのデザインが、家政学という学問の成立にともなう生活空間の改革として企図されていることは注目しておくべきだろう。

キッチンに始まって生活空間を構想しデザインした人が、建築家ではなく家政学者だったことが重要です。もう一つ見逃せないのは、黒人奴隷解放の小説『アンクルトムの小屋』の作者としてよく知られるハリエット・ビーチャー・ストウが、同時に生活空間の改革者だったことです。

ようするに、鉄道による移動の生産性と、大量生産方式による工業製品による職場労働や家事労働のシステム化による効率化の実現が、機能を縦割り的に分割し、それぞれの機能ごとの生産性を可能な限り向上するとともに、それらの個別の機能を最適な形に組み合わせる全体マネジメントの仕組み(ある種、中央集権的なパノプティコンできる管理法による)を可能にした。

ようするに、ここでつくられた仕組みが、状況は明らかに変わったいまでも、その分離・分割前提のデザインを引きずっていることが、現在において働くという面でも、プライベートを幸福にするという面でも不便な状態を作っているのだ。
だから、ここらあたりからちゃんとリデザインの方向を考えないとNew Normalなんてただのかけ声でしかなく、現実のものになんてならない。

New Normalは待ってて自然と訪れるようなものでなく、意図してデザインして実現するものだ。

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アフターインターネットにおける職住近接

解決すべき問題がより複雑になってきている現状では、機能別に分かれた組織でも生産性をあげようとすれば、個々の機能同士が絡み合うことが多くなったし、その絡み方自体、状況に応じてフレキシブルに変化させていかないと対応できない。

それは、従来的な中央集権的な管理法ではとても対応しきれないし、管理主体をある程度分散させていくためにもインターネットをはじめITS的なテクノロジーがピアトゥーピアでの相互管理も可能にしていることをもっとうまく仕組みに取り入れるようにしないといけない。

とにかく、いつまでもツリー型の階層構造によるマネジメントに固執するのはナンセンスでしかない。
オフィスも機能別の縦割り型組織と中央集権型管理を前提としたデザインでは、いま求められるフレキシブルな対応や、縦割りの壁を超えた連携には不向きで、役立つどころか障壁にすらなりかねない
先に書いたイケてないオフィスとはそれで、通勤したくないという理由にはそういう面も含まれるだろうから、「通勤したくない」をそれを口にする人たちのせいにばかりにもできないと思う。

そういう観点も含めて考えれば、あらためてアフターインターネット時代の職住近接の形もデザインできるはずだ。
そうすれば、オフィスの話だけでなく、生活において買い物やら外食やらする場所もあらたにデザインできるようになる。電車による通勤が必ずしも前提でなければ、地元というエリアの意味が変わる
ターミナル的なエリアにばかり商業施設を集中させる必要はなくなるだろうし、電車に乗らずに済ませられる距離内で楽しむというあり方を定着していければ、地域の活性というのもいまとは全く違う形にできる。

しかし、繰り返すが、こうしたNew Normalは待ってて自然と訪れたりはしない。それは意図してデザインして実現していくものだ。

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勝手に生まれるNew Normalも

一方、勝手に生まれて定着してしまうNew Normalもありそうだ。

こっちはむしろありがたくないものが常態化するという話なのだと思う。
望むものは自分たちでつくりださないと現実化しないが、望まざるものは気がつけばいつのまにかそこから抜け出せない形で定着してしまいそうだから厄介だ。

望まないものとは、ヘイトである。
敵対的争いである。
異なるもの同士が互いに利権を争うことにまつわる物理的、心理的な衝突である。

現在のような非常事態を機に、通常のシステムがいったん停止したのを悪い形で利用しようとする者は少なくない。
ここまで書いてきたように普通の人でも「リモートワーク権」というこれまでまったく認められてもいなかったものを、さもそうすることが当たり前のように、それを自分たちのものにしたがるように、この機に乗じて、自分のものでなかったものを自分のものにしてしまおうとする輩は少なくない。

これまで貧窮していた者がそう流れるだけでなく、逆に、富む者はさらにこの機に利益を得ようとすることもある。
国と国のあいだで、異なる国民どうしのあいだで、人種間で、富むものと貧しいものとのあいだで、たがいに自分たちのほしいものを確保しようとして、限られた資源をたがいに奪いあう争い、中傷合戦となる。

ブルーノ・ラトゥールが『地球に降り立つ』で警告していたことに重なる。

グローバリゼーションのグローブ(Globe=世界)を実現する惑星(planet)、地球(earth)、土壌(soil)、領土=テリトリー(territory)など、どこにも存在しない。これまではすべての国がそのグローブを目指してきた。だが、もはや誰にとっても、確実な「安住の地」はないのである。
これにより、私たちの一人ひとりが、次のような問いに直面することとなった。今後も現状をつねに超えていく近代の夢を見続けるのか、それとも自分たちと子孫が暮らせるための新たなテリトリーを探し始めるのか。
問題の所在を否定するか、着地できる場所を探すかのどちらかである。

望みもしないNew Normalを生みだす動きの参加者になってしまわないように

このヘイトのやりとりが、社会においてNew Normalな状況を生み、それに対応するための法整備やしくみの変更、社会におけるさまざまなデザイン変更をもたらすことはあるし、それが文化そのものを変えかねない。

まったくもって歓迎しない新しさだ。
なのに、おそらくこちらのNewのほうが、本当はほしいと思うNewより実現してしまう
というのは、後者のNewを望む声自体が、他者への配慮を欠いて、前者のNewを呼び起こすから。
そうなってしまえば、ほしいものの実現は遠ざかるばかりで、一方自分たちまで気づけばいつのまにかほしくもなかったヘイト合戦に巻き込まれてその参加者になってしまうだろうから。これは注意しなくてはならない。

結構、大事な局面に入ってきているのであって、ひとりひとりがちゃんとまわりのことも配慮して、考え、行動することが、強く求められる状況になっているのだとあらためて思う。



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