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ビブリオテーク

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読んだ本について紹介。紹介するのは、他の人があまり読んでいない本ばかりかと。
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#歴史

パサージュ論1/ヴァルター・ベンヤミン

街の賑わいとは、いったいなんだろう? 最近、地方のスマートシティ構想に関する仕事に関わるようになって、そんなことを考える機会が多くなっている。 ある街が賑わっているというとき、少なからずその街の経済はある程度まわっていなくてはならないだろうと思う。地域である程度経済が自律的にまわっている状態がつくれていてはじめて、街にもそれなりの賑わいが生じるはずである。だとすれば、街に賑わいをつくるためには、その地域の経済を活性化する取り組みは不可欠だ。 であれば、スマートシティ化を推

パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡/鹿島茂

引き続き、年末年始に読んだパリ関連の本の紹介を続けたい。 年末になる前に読み終えた『ニンファ・モデルナ』も含めて、先日、先々日に紹介したユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』、そして、それを解説した鹿島茂さんの『ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ: 大聖堂物語』と、立て続けにパリについての本を読んでみたわけだ。 その中で今回紹介するのは、ひとつ前と同じ鹿島茂さんの本で『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』。 薄い文庫本なのでさくっと読み終える。 2019年に最後にパリを訪れた

ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ 大聖堂物語/鹿島茂

パリの街とその街の代表的なゴシック建築であるノートル=ダム大聖堂。それらへの愛を綴ったのが、ヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』だ。印刷本に取って代わられる前まで、人間の知と思想をアーカイブし人びとに伝える役割を一身に担っていたのが中世までの建築だったことをユゴーは、その作品で伝えてくれる。 そのユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』を読んだあと、すぐに読んだのはNHKの「100分de名著」から出ている鹿島茂さんによる『ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ 大聖堂物語

ニンファ・モデルナ 包まれて落ちたものについて/ジョルジュ・ディディ=ユベルマン

衣服くらい、人間が着ていたり、きれいに折り畳まれたりしている状態と、雑に脱ぎ捨てられている状態の快/不快の印象が変わるものはないのではないか。 雑に放置された衣服の落ちている場所が家の中ではなく、外の街路だったりすれば不快さは一気にあがる。家のなかにある場合は、誰の脱いだものかがわかるからまだよい。持ち主がわからない衣服が放置されている状態はこの服の中身であった人はどうなったのだろう?と不気味さすら感じる。食べ物が道に落ちてても汚いとは思っても、不気味さは感じないから、放棄

青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年/良知力

この本を読んでみて、革命というものの印象が変わった。 革命というと、大義的なものに導かれて社会変革を促そうとする創造的な面をもった市民の行動のようなものを想像していたが、そういうものではないのかもしれない。自分たちが今日明日を生きるため、生き続けるために、ほんとに最低限ものすら手にすることのできない人々が切羽詰まって行動にいたる、激情的で事後の明確なヴィジョンももたない反抗なのではないか。 19世紀半ばのウィーンでの革命の様子を綴った良知力さんの『青きドナウの乱痴気 ウィ

ポオ小説全集Ⅱ/エドガー・アラン・ポオ

最近、17世紀から19世紀にかけての自然観念の変化やそれに伴う探検ものに興味を持っている。 最初に1726年発行のジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』を読み、続いて読んだのはバーバラ・M・スタフォード『実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』。そこからすこし遡った17世紀の山に対する観念の180度の転換を考察したM・H・ニコルソンの『暗い山と栄光の山』と、実は並行して読み進めていたのが、エドガー・アラン・ポオ『ポオ小説全集Ⅱ』。

暗い山と栄光の山/M・H・ニコルソン

固定観念の枠組みを突き破れ。 先例に縛られることから逃れよ。 つねに意識して、そうしない限り僕らの思考/嗜好は保守的になる。 なぜなら僕らは先人たちの残した知のアーカイブに基づき思考し行動し表現し判断することしかできないのだから。 この本を読んで、その思いをあらためて強くした。 僕らは伝統に縛られて生きていて、ありのままの世界をつねに忘れている。 西洋の世界では17世紀まで、山は忌むべき存在として「自然の恥と病」として、あるいは「いぼ、こぶ、火ぶくれ、腫れもの」として扱わ

実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記/バーバラ・M・スタフォード

1753年、アイルランド出身の医師でありアイザック・ニュートンの後を継いで王立協会会長を務めた科学者でもあり古美術蒐集家でもあったハンス・スローン卿の死後、そのコレクションをもとに大英博物館=ブリティッシュ・ミュージアムは設立された。 スローンがイギリス政府に寄贈した蔵書、手稿、版画、硬貨、印章など8万点が、その他政府所有の蔵書とあわせて展示された博物館が1759年に開館することになったのである。 世界初の公立の博物館の誕生だ。 それから100年あまりのときが過ぎ、イギリスの

スペクタクルの社会/ギー・ドゥボール

ちょうど500番目のnote。 キリのよい今回、この本を紹介できるのは、ちょうどよいかも。 ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』。 冒頭この文章からはじまる。 近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。 人間がみずからの生を直接的に生きることができず、目の前に立ち塞がる表象にまみれた社会で生きることしかできない、そんな社会。 そんな社会で生きているこ

中世ヨーロッパ ファクトとフィクション/ウィンストン・ブラック

「すべて嘘だった。」 この帯の言葉だけはいただけない。 根拠のない誤った記述によって、なかったものをあったかに見せてしまう歴史記述の過ちが中世のイメージを損ねてしまう。それが本書が明らかにしていることだ。 この「すべて嘘だった」という言葉は、その歴史記述がおかしたのとおなじ過ちを犯していないだろうか? 読めばわかるが「すべて嘘だった」なんて主張を著者はいっさいしていない。 ただ現代に伝わるヨーロッパ中世のイメージの多くが誤解によるもので、その誤解を生み出してしまった要因が

ストイックなコメディアンたち フローベール、ジョイス、ベケット/ヒュー・ケナー

フィルターバブルという言葉がある。 インターネットの検索やリコメンド、ソーシャルメディアにおける情報表示などが、ユーザー個々に関連性の高いものを優先することによって生じる、自分の見たくない情報が遮断され、泡の中に閉じ込められるように「自分の見たい情報しか見れない」状態を指す言葉だ。 一般的に、フィルターバブルは、アルゴリズムの影響によるものだと言われる。 だが、アルゴリズムの影響によるものだというなら、なにも現代にはじまった話ではない。 常套句とはつまり、ある閉じたフ

ベナンダンティ 16-17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼/カルロ・ギンズブルグ

16世紀後半から17世紀の前半にかけて、オーストリアやスロベニアの国境に接するイタリア北東部のフリウーリ地方を中心に、もともと農耕儀礼の一部であったと思われる農民たちのあいだに浸透していた振る舞いが、異なる事案を対象にして繰り返される異端審問の過程を経て、悪魔崇拝の儀礼サバトと混ざり合い、その意味が変化させられていく。 農耕民とカトリック教会に属する人々のあいだの文化の違い(ときには言葉の違い)も絡んで、解釈の変容が生じた歴史的過程を、フリウーリの図書館に保管されていた当時

アリスに驚け アリス狩りⅥ/高山宏

分断。 なんらかの内に閉じ込められて、外の世界との交流が断絶されている。 ひとつには、昨年来のコロナ禍で人とのオフラインでの交流機会が激減し、とりわけ内輪以外の人との交流や出会いがむずかしくなっている状況がある。家族やおなじ会社の人たちなど、既存のコミュニティの内での交流は維持できていても、新たな人や物事と出会う機会はだいぶ制限されている。 あるいは、もうひとつにはオンラインの世界でも外との分断がある。所謂フィルターバブルである。検索やリコメンドのロジックがユーザーの興味

オリエンタリズム(上)/エドワード・W・サイード

知は搾取する。 いや、正確には知と無知の混合によって、知る側による知られる側からの搾取が行われる。 知ることによって奪い、知らずに奪う。 もちろん知ることで奪うことを避けることもできる。 こうした知の功罪を、認識しなおすことがいまの時代、つよく求められている。 オリエント(東洋)をみるオクシデント(西洋)の広範にわたる思考様式としてのオリエンタリズムを西洋による帝国主義の問題と関連づけて論じた、もはや古典である、1978年にエドワード・W・サイードが発表した『オリエンタリ