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ストイックなコメディアンたち フローベール、ジョイス、ベケット/ヒュー・ケナー

フィルターバブルという言葉がある。

インターネットの検索やリコメンド、ソーシャルメディアにおける情報表示などが、ユーザー個々に関連性の高いものを優先することによって生じる、自分の見たくない情報が遮断され、泡の中に閉じ込められるように「自分の見たい情報しか見れない」状態を指す言葉だ。

一般的に、フィルターバブルは、アルゴリズムの影響によるものだと言われる。

だが、アルゴリズムの影響によるものだというなら、なにも現代にはじまった話ではない。

常套句とはつまり、ある閉じたフィールドから来る要素である。エンマ・ボヴァリーが、入日ほどすばらしいものはないと思うと言うとき、彼女は感じているのではなく、読書から引き出された人造の感情の部品を操作している。

と、ヒュー・ケナーが『ストイックなコメディアンたち フローベール、ジョイス、ベケット』で、1856年に発表されたギュスターヴ・フローベールの小説『ボヴァリー夫人』の主人公エンマについて書くとき、この「閉じたフィールド」とは間違いなく、数学的思考の産物である。

「フィールド」という語が、ここでのわたしの議論のような場所にまで広まった起源は、整数論の述語だった。数学者たちによれば、フィールドとは、諸要素の集合と、それらを操作する法則の体系からなる。

と、ケナーが書いているとおりだ。

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僕らが閉じたフィールドで生きていると……

諸要素の集合からなるのだとしたら、フィールドとは「閉じた」状態でしかありえない。そして、フィールドには、その閉じた要素の集合のなかで繰り広げられる操作の体系も含むという。

そうであるなら、フィルターバブルの閉じた状態要素のなかで生きる僕たちもまた、エンマ・ボヴァリー同様に、「感じているのではなく、インターネット上の情報から引き出された人造の感情の部品を操作している」だけでしかないのではないか。僕ら自身の言動、思考自体がアルゴリズム仕立ての機械的なものでしかないことになる。

ただし、そんなあらかじめ用意された閉じた要素と操作体系の組み合わせ(=アルス・コンビナトリア!)のなかで機械的に生きる僕らだとしても、「一度そうした理論を手に入れるなら、われわれは、好きなだけの数学の体系を発明できる」と、ケナーが書くとおり、そんな閉じたバブルのなかでさえ好きなだけの発明は可能なので、僕らは日常においてさして困ることはない。

だが、この閉じたバブルのなかでも困ることがないということ自体がいま問題なのだ

というのも、アルゴリズムと僕らの認識は閉じていても、その外での出来事は僕らに見えなくても、実際にはバブルのなかで行われていることも、開かれた現実の地球環境とつながっているからだ。

このアルゴリズム、数学的思考が見えなくしているものがあるということと、ケイト・ラワースが『ドーナツ経済学が世界を救う』において、従来の経済学が基本的に、企業と家計の間の財と労働の相互の供給の循環の図(サミュエルソンの「フロー循環図」)を描いて、そもそも人間に物質やエネルギーを供給してくれ、人間が廃棄するさまざまなものを引き受けてくれる自然環境を見えなくしていることに抗議し、次のような新たな経済のモデル図(組み込み型経済の図)を提示してくれることとに深い関係性があることに、ちゃんと気づける感性が必要だと思う。

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要素を断片化して体系化しようとしたこと

だから、このあいだも引用したばかりだが、ケナーが指摘する以下のことが重要になる。

百科事典が発明されるまえに、「事実」が、事実の観念そのものが発明されねばならなかった。経験の原子としての事実であり、それらを、百科事典編纂者はアルファベット順の場所に収納する。そのことは、だれも、どんな順序でそれらを配列するべきかを知らず、どんな状況でそれらがふたたび要求されるかを知らないことを、劇的に証言する。『オクスフォード英語辞典』によれば、factは1632年以前にはこの意味で用いられていない。それ以前にはfactには、なされた事物、factumであり、行為と身振りの連続体の一部であった。

「事実」は、現実にある地球そのものでもないし、僕らが現実に生きるなかで接する事柄そのものでもない。それは、つくられたものである。このことを忘れさせる「事実」という要素の抽出法が歴史上のある時点で生み出されたのだということを、僕らは意識しておきたい。

なぜ「つくられたもの」や「なされた事物」を意味し、人工的な操作の色合いが強かった"fact"という語が、「事実」という人の手が入っていないかのような意味合いに変わっていったのが、17世紀の中頃だったのか?という歴史的な意味を意識することが大事だ。

1620年にフランシス・ベーコンが『ノヴム・オルガヌム』で、客観的な観察と組織的な情報収集に基づく帰納的推論が、イドラ(思い込みによる誤謬)に陥るリスクを負った演繹的推論にとってかわる必要性を説き、1660年にはそうしたベーコンの意思を引き継いだ科学者や数学者たちが英国王立協会というアカデミーを設立し、実験から法則を導こうとする新たな自然哲学の手法を考案、普及させたり、後代のコンピュータへとつらなる二進法の発明を行なったりしたこととの同時代性を知っておきたい。

これらすべてのがらくたを誕生させたのと同じ人々が、「普遍言語」についても騒いでいた。それは王立協会[1660年創立、自然科学振興を目的とする]の初期の企画であり、偉大なニュートンの関心をもしばらく引いた。後世が、そのことばや情念や観念を代置可能な部品から構成できるようにするために、印刷工は綴りを、辞書編纂者は言語を、百科事典編纂者は意見を力ずくで標準化した。

二進法につながる普遍言語開発の試みと、辞書や百科事典編纂の試みは、いずれも代置可能な要素=表象を部品として思考や創作を可能にする文化を開くものだった。

ロベルト・コードリーによる世界初の英英辞典『アルファベット一覧』が1604年に生まれたのを皮切りに、以降17-18世紀と辞書編纂、百科事典編纂のブームが起こってくるのとも同時代のことなのだ。

辞書では、人間のことばがアルファベット順に列挙されうる語へと分解され、百科事典では、人間の知識が非連続的な断片へと切り分けられ、同様な原理によって記録される。

と、書くとおり、辞書や百科事典とは、言葉や知識を断片へと分解して、アルファベット順などの体系に基づき閉じたフィールドに記録しおさめたものにほかならない。

それが舞台のうえで俳優たちによって、曖昧さも含んで発声され、と同時に、すぐに消えていく演劇のせりふの不確実さ、不確定さが嫌われて、1642年にはシェイクスピアらが直前まで育んできたエリザベス朝演劇の終焉を告げる劇場封鎖令が発せられたのも同じ時期であることを忘れてはいけない。
自然や人間的な活動がつねに成長し変化していくものであるがゆえに不可避的にもつ曖昧さは、科学者や数学者であるピューリタンたちに嫌われ、排除され、書物のなかに文字や数式の形で変わることなく固定される確実性に置き換えられていった。

本物らしい事実データを集めて蓄積すれば価値が生まれることの歴史

価値を印刷された紙幣に置き換える

もちろん、そうした要素であるデータの蓄積をもとに、価値を増大させるという発想がまったく同時期に資本主義のしくみを発展させたことにも目を向けることが重要だ。最初の銀行券(紙幣)は、1661年にストックホルム銀行が発行し、1694年にはイングランド銀行も発行している。

紙幣という紙に印刷された、それ自体は実質的にはほとんど価値をもたないプロダクト(つくられたもの)は、にもかかわらず、額面に表示されたはるかに多くの価値と等価であることが保証される。
この発想は、辞書や百科事典における説明が意味や知識を表象したり、限定された実験環境からつくられた事実があたかもあらゆる状況下での普遍的な自然法則を裏付けるものの証拠=エビデンスとして用いたりすることと同じだ。そして、これらはほぼ同時期に発明され、それを当たり前とする社会システムの構築へと至った。それが17世紀に同時に起きたことである。

ケイト・ラワースが指摘したような人間社会から、自然や地球環境が締め出されたのはこの時期だともいえる。

閉じたフィールドのなかでの必然的な失敗

ミシェル・フーコーは、17世紀を転期として表象化に向かったヨーロッパの歴史を論じた『言葉と物』のなかで、こう書いている。

博物学が可能になったのは、人々がよりよく熟視することを学んだからではない。厳密な意味において、古典主義時代は、できるだけものを見ないように努めたといえるだろう。17世紀以来、観察というものは、ある種のものを体系的に除外することを条件とする感覚的認識となったのだ。

17世紀にはじまる観察、経験の文化、観察や経験を通じて得たものを辞書や百科事典あるいは、ミュージアムやリンネの近代分類法に代表される分類表(テーブル)に、断片化して蓄積していく態度は、その実、フーコーが上記で指摘するように、ある種のものを見なくなるようにするという、まさに冒頭指摘したようなフィルターバブル同様の状況を生む。

そうした歴史的な流れのなかで「フローベールにとっては人間精神の最終的な局面における完全な不毛性のイメージであった編纂物」があふれた社会が生まれた。フローベールの生きた19世紀の中頃ですでにそうなのである。その社会の問題をフローベールは、小説として描きだす。閉じたフィールドのなかの要素を組み合わせて生きる人々がなぜつねに失敗に至るのか?を暴きだす。

われわれは、フローベールの諸々の主題の連続性に気づく。最初から最後まで、かれは文化のフィードバックの偉大な研究家であり、本が本の読者に及ぼす作用について本を書き、みずからの本がその読者に及ぼす作用につねに注目した。われわれはまた、『ボヴァリー夫人』ではその構想がまだ根本的に素朴であることに気づく。エンマは、読んだ小説の主題と感情とを人生に転移させ、予想どおりに失敗した。

後にフローベールは、巷のさまざまな物事の見方を集めた『紋切型辞典』という作品を構想する。たとえば、その辞典では、海は「「海。『無限』の象徴」という巷にありふれた紋切型をもって説明される。

この紋切型をそのまま、不倫相手の男と浜辺で眺める海に対して、「『無限』の象徴」だとつぶやいてしまうのが、エンマ・ボヴァリーである。いや、エンマのみならず、相手のレオンをはじめとするあらゆる登場人物がどこかの本に書かれていたり、誰も彼もが話しているような紋切型を反復する。それが彼らの人生を破滅に追いやるのだとフローベールは言っているかのようだ。

フローベールの物語は原因を特定していた。もし三文文士が至上のリアリストであるなら、それは、現実の人物たちの行動のモデルが、三文文士の想像力の産物であるからだ。確かに、レオンとエンマとの会話の起源であった『辞典』の諸項目について、フローベールは、何千ものレオンやエンマの対話に耳をそばだたせる必要はなかった。「海。『無限』の象徴」を、かれは他の小説から直接に取ることができたし、おそらくそうしたのだろう。

まさに、フィルターバブルさながらである。
インターネットという知の保管庫がなくても、印刷というテクノロジーを用いて実現された辞書や百科事典やそのほかすでの本がすでに同じ状況下をいまから150年以上前につくりだしている。

ジョイス、フローベールの失敗のその先で

本が本の読者に影響を及ぼし、その読者に向けての本がまた影響される。「読んだ小説の主題と感情」が人生に転移されるとき、人生は「予想どおりに失敗」するし、そうした失敗をする主人公を機械的な方法で描きだす小説そのものも失敗する。

まさにそれはテクノロジーと人間や自然を含む現実世界の関係づけのしかたにおける失敗だ。

しかし、フローベールより後のアイルランドの作家ジョイスは、フローベールが「人間精神の最終局面」と感じた不毛性からスタートする。

フローベールにとっては人間精神の最終的な局面における完全な不毛性のイメージであった編纂物は、ジョイスにとっては、ある実例、機会となった。

ジョイスは、本の閉じたフィールドそのものを創作、考察の対象としたのだ。彼の採用した具体的な戦略は、「ページ、数字を打たれたページ、あらゆるコピーで同一であるページを利用しようと考えたのは、参照文献なるものだった」。

実際、彼がホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしつつ、ダブリンの街の1日をその作品に封じ込めた『ユリシーズ』では、多くの参照文献への注釈がつく。

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ジョイスの分身でもある登場人物のスティーヴンが学校で少年に朗読させる《泣くな、悲しむ羊飼いよ、泣くな》は、「17世紀の詩人ジョン・ミルトン作の牧歌的哀歌「リシダス」(1637)の一節」と説明される。

そのすぐあとの「だからこれは、……一つの運動でなければならない」は、「アリストテレスは『霊魂論』第2巻第5章で、可能態においては」と参照元を明らかにしている。

ゆえに『ユリシーズ』はひとつの百科事典でもある小説だと言える。長い時間のあとダブリンの街がなくなっても『ユリシーズ』があれば再現できるとジョイス自身語ったというくらい書物のなかにダブリンの街を封じ込め、さらにどんなに外部の膨大な量の書物とつながりを持っていたとしても、その作品は自己に閉ざされた境界をもつ閉鎖系なのだ。

物理的な書物とは、一なるもの、ひとつの全体であり、自己に閉ざされ、境界をもち、じっさいに綴じられている。ことばに住まわれ、有限で、限定され、自己充足的な活動、円環的な運動に充満している。そして、一都市についての本を書くと決意してから、およそ10年の黙想のあいだ、ジョイスは、天才の直接性で、書物としての書物の可能性――物理的な要領、数字を打たれたページ、無限の相互参照という利点、視覚的な提示の機会――を熟慮した。

しかし、これさえあれば、いつでも再生可能とされた『ユリシーズ』のなかのダブリンの街は、あくまで「つくられたもの」としての事実性をもったダブリンでしかなく、本の中に描かれ固定された事物とは異なり、つねに変化し続けるさまざまな物事で構成されたダブリンは決してひとつの閉じた系ではなく、さまざまなものに対して開かれた生きた生態系であるはずだ。

もちろんホメロスは『ユリシーズ』の背後に存在するが、ジョイスによるホメロスの変形のうちでもっとも重要なのは、『ユリシーズ』のテクストが組織され展開させるのが、記憶のなかでなく、「テクノロジー的空間」と呼びうるもの、初めからそれにむけて計画された印刷ページのなかであることだ。

テクノロジー空間は、記憶をはじめとする曖昧でうつろう性質をもったものさまざまなものを排除してしまう。僕らの議論もそれと変わらず、曖昧さや多様性を排して固定的、保守的なものになりがちだ。

それは僕たち自身の生を危機に晒す要因にほかならない。俗にいわれるフィルターバブルの危険以上のものに気づかせてくれる近代テクノロジーに対する分析がここにはある。


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