暗い山と栄光の山/M・H・ニコルソン
固定観念の枠組みを突き破れ。
先例に縛られることから逃れよ。
つねに意識して、そうしない限り僕らの思考/嗜好は保守的になる。
なぜなら僕らは先人たちの残した知のアーカイブに基づき思考し行動し表現し判断することしかできないのだから。
この本を読んで、その思いをあらためて強くした。
僕らは伝統に縛られて生きていて、ありのままの世界をつねに忘れている。
西洋の世界では17世紀まで、山は忌むべき存在として「自然の恥と病」として、あるいは「いぼ、こぶ、火ぶくれ、腫れもの」として扱われていたのだという。それが18世紀になると突如として「万能の神の作り給うた寺院」だとか「絶えざる犠牲の煙を雲と頂く、自然の聖堂、自然の祭壇」と評されるようになる。
こんな山に対する180度異なる評価の変化の具体的な現象とその変化が起こった理由に焦点を当てたのが、観念史家として知られるマージョリー・ホープ・ニコルソンの『暗い山と栄光の山』という古典的名著だ。1959年初版。
暗い山
個人的には、あらゆる自然万歳な18世紀後半から19世紀前半にかけての科学的探検の流行を綴ったバーバラ・M・スタフォードの『実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』を読んだ直後だったので、そのたかだか100年前に、とにかく誰もが山のことをdisった時代があったことのギャップに驚かされた。スタフォードの本は、まさに先人たちの知のアーカイブをいったん忘れて、未知の領域への探検をはじめた科学者たちの冒険を描いた一冊だった。
スタフォード描く「自然の傑作(natural masterpiece 完全に物象のみの、人手の入らぬ地球形成のこと)への視覚的意識と形態描写が隆昌したのも、その媒体を媒体として明快に調べることに掛かっており、その作業は少なくとも、18世紀初めから進行し始めていた」という話と、本書でニコルソンが「ただ一つのスタンザの中に、アンドリュー・マーヴェルは、17世紀の文学に慣習的であった山への態度を半ダースも盛り込んでいる」と書いて紹介している次のような詩の断片には180度異なる姿勢がある。
汝無法なる山々よ、
巨大なる姿をやおら突き出し、
鉤形の肩をそびやかして、
地を歪め天を威嚇する。
その無格好なる瘤ゆえに、
自然の中心もあらためねばならぬ。
より地道なる栄光へと導く
つつましき道を行くことを学べよ。
「無法」「鉤形の肩」「地を歪め」「無格好なる瘤」など、この短い文のうちに、山を貶める言葉が並ぶ。これこそがニコルソンは西洋の伝統に基づく山のイメージであるという。
さらに、チャールズ・コトンが1679年に書いた『ピークの驚異』からの次のような一節ともなれば、もう山にいったいどんな恨みがあるのだろうと思える書きっぷりだ。
自然がただ恥辱に苦しみ、
あまりの醜さ故に旅人が、
自然の恥部とも呼ぶところ。
かなたには肬、瘤のごとき山々が並び、
他所者には固く懐を閉ざす。
ここには青黒く瘰癧のごとき水泡が
大地の腫れものから流れ出す。
かなたには投げ重ねられた山また山、
巨人がゼウスの御座を襲った時にも似て、
ここは硫黄の海、さながら罪深き
ソドムとゴモラの町跡にも似る。
大地にかけられた詛い
こうした17世紀にまで続く山に対するネガティブな見方は、西洋の伝統によるもので、「17世紀初期の古典で伝統は非常に有力であり、文学に描かれた山々で、ギリシャまたはローマからの借用でないものはほとんど見られぬほどであった」とニコルソンは書いている。山を忌むべきものとする観念は17世紀詩人が直接山をみて抱いたものであるというよりも、古来より山とはこういうものだという風に受け継いできたものを彼らもまた吟味しなおすことなく採用しているにすぎないのだという。
プールは1657年に、「乳頭、隆起、腫れもの、火ぶくれ、瘤」が山に敵わしい比喩であることを教えてくれた。ギリシャ人とローマ人は――ローマ人の方が一層多いが――山を生体構造の用語で描き、動物や人間とのアナロジーを暗示している。山々には「眉、額、肩、背、胸、助骨」があった。若きミルトンが「詩篇」114篇を意訳して、「巨大な腹もつ山々」と書いた時、彼は確かな古典的典拠をもっていたのである。
そして、古代ギリシャやローマからの影響以上に山のイメージを性格づけていたのは、キリスト教神学からの影響であることもニコルソンは指摘している。
たとえば、最初に引用した詩の作者であるマーヴェルについて、ニコルソンはこう書いている。
「低きこと」は「大なること」よりも貴いとされた。彼の前後の詩人たちと同様に、マーヴェルはその教訓の基盤を、彼が「自然に」と呼んだところのもの――古典主義者、ロマン主義者双方のあの合言葉――に探し求めた。しかしそれを見出したのはむしろイエスの教えにおいてであった。
ここではすべてが自然のように
整然と無駄なく作られている。
ここに見られる広がりは
丈高い人が身をかがめ、
狭い入口より入ったという
つつましい時代と精神のもの。
身をすくめて狭き門より
天国に至らんとするかのように。
他の古典派およびキリスト教の詩人たちと同じく、マーヴェルにとっても、美は、アリストテレスや教父たちが教えたように二極の間の中庸であり、それを感受するのは、均整と節度と抑制とを、神が混沌から秩序を生み出した時に自然に下した特質として認識する力、すなわち理性の働きであった。
キリスト教神学において、神が最初につくった地球=大地は平坦で滑らかであり、現代の山や谷の凸凹のあるような状態ではなかったと考えられることが多く、それが身体にあらわれた肬や瘤、腫れもの、火ぶくれのような凸凹の山々には覆われた状態になったのは、アダムの罪をはじめ、ノアの時代の大洪水をもたらすことになった人間たちの罪によるものだとされた。洪水が滑らかで平らであった大地に、醜い凸凹をもたらしたのだ、と。それは人間の犯した罪に対する神ののろいであると。
ギリシャ、ローマの人々にとって「自然の退廃」は重要なテーマではあったが、少なくともヘシオドス[前8世紀]の時代以後は、「四時代」の伝説は、外界の自然の衰退よりも人間の堕落に重点を置いていた。ユダヤ思想やキリスト教思想に見られる、自然の退廃と人間の堕落の対応性に相当するものは古典文学にはほとんどなく、人の罪と、世界の外観の変化との因果関係を考究するようなこともなかった。神の詛いを土に限定して考えたキリスト教徒たちも、アダムの罪が外界の自然に何らかの影響を及ぼしたとする点では一致していた。プロテスタントの表現に従ったミルトンは、神の御子がアダムに語った言葉として「お前ゆえに土(ground)は詛われる」と書いている。
月のクレーター
こうした傾向に変化が訪れたきっかけというのが興味深い。なんと、それはガリレオ・ガリレイが月のクレーターを望遠鏡で見たことがきっかけなのだ。月にもまた地球と同じような凸凹があることを発見した西洋人は、人の罪が大地を凸凹にしたという考えをあらためることになる。なぜなら人がいないと考えられた月にも同じような凸凹があるのだから。
人々はほかの惑星にも、そして、太陽にも同じように山があるのだろうと想像するようになった。そして、遠く離れたあらゆる恒星、そして、そのまわりを回る無数の惑星にも山はあるのだろうと。それは人間の罪に端を発する神の詛いではなくなった。
と同時に、望遠鏡のもたらしたはるか遠くを見渡せる新しい目は、人間に宇宙の膨大さ、無限性を発見させた。それは神の大きさ、無限性であり、同時に、山々の大きさに対してもそれまでとはすこし違う見方をするようになった。その見方は「崇高」である。
この世紀はまた「天才の世紀」であり、その力は「スキエンティア(scientia)」の進歩として表われていた。「スキエンティア」は当時、科学と哲学の両方を含み、私たちの用いる限定された意味の「科学」というよりは、むしろ自然の学である。「果てしなき知の新しい遠景」が地質学へと広がったのは不思議ではないだろうが、近代的な山の見方の源を天文学に求めるならば、それは一見奇妙に思われるかも知れない。しかしいずれ私たちは、17、8世紀に流行したあの「宇宙旅行」の一つに旅立たねばならない。そして長い翼を持ったバートンの鷹を追って天空の旅に出かけ「いと高き天」に登って、あるいは方向を見失うかもしれない。しかし宇宙への旅から私たちは、新しい目をもって地球に戻るだろう。宇宙的尺度の「厖大さ」を経験すれば、宇宙の一点であるこの地球の大きさを、新しい想像力をもって見ることができるかもしれない。
それまで規則的なもの、均整なもの、そして、小さきものに対して伝統的に与えらてきて、それゆえ大きすぎ不規則な形状の山々はそこから除外されてきた「美」という概念に対して、それとは異なりながら人々を感嘆させ畏怖させる力をもった概念として「崇高」が認められるようになりはじめる。
崇高な感覚は、ロンギノスの修辞学がイギリス人の関心を引き始めるずっと以前から、イギリスに到来していた。畏れと歓喜とが混ざり合った、かつては神のみに対するものであった畏敬の心は、17世紀になってまず広げられた宇宙へと向けられ、そして大宇宙から地球上の最大のもの――山、大海、広野――へと移行していったのである。(中略)科学的精神を持ったプラトニストたちは、無限の観念を世界を充満させる神の中に読み込み、さらにそこから発して、讃美と畏敬との結合した荘厳、偉大、厖大の概念を、神から宇宙空間へ、宇宙空間から自然界へと移し替えたのである。17世紀は「無限性の美学」を発見した。
ここまでくるとスタフォードの描いた18世紀の科学的探検家たちの世界は間近なものになる。
知と文学表現の更新作業
人々が山々の崇高さという魅力に気づきはじめたからといって、それまで伝統的に積み重ねてきた知や芸術的表現のアーカイブの厚みは容易にそれを新たなものに置き換えられるものではなかった。
絵画的表現に関しては、忌むべきものをわざわざ描くことも少なかったため、更新すべきアーカイブに悩まされるより、新たに風景画の分野を立ち上げればよかったからまだマシだ。
しかし文学の領域では山々を詛うような表現が山ほどあった。マーヴェルやコトンのような17世紀初期から半ばにかけての詩人たちもその伝統的な表現にしたがっていたことは最初にみたとおりだ。
ゆえに文学や哲学の領域では、崇高なものをあらわすための新たな文学的な表現の更新が不可欠だった。
その大規模アップデート作業の幕開けを担ったのが、神学者であり地質学者でもあったトーマス・バーネットが1682年に出版し、当時の社会で大いに話題となり、以後のコールリッジやワーズワスなどのロマン主義の詩人たちにも大きな影響を及ぼすことになった『地球の聖なる理論』だった。
他のことはともあれ、バーネットは彼の世代を、イギリスではかつてなかったほどに「山の意識」に目覚めさせたのであった。彼の賛同者も反対者も、神学的、科学的、あるいは美学的な意味で、山岳論争に加わる必要を感じていた。『地球の聖なる理論』出版の時以来、山の戦いはもはや小競合いではなく、大戦となった。印刷機からは次から次へと書物やパンフレットが流れ出し、バーネットの理論を攻撃したり、擁護したり、また拡充したりした。
バーネットがあらわした新たな山の見方、それに対する表現の言葉は、バーネットに影響を受けて、実際にアルプスなどの山々に向かったマレットやトムスンなどの18世紀の詩人たちの叙景詩を生むことになる。
18世紀の初め、「山の栄光」はまだ十分に輝いていなかったとはいえ、「山の暗さ」はすでになくなっていた。マーヴェルの「無法」で「鉤形の肩をした」大地の醜である山々はすでになく、また谷を称揚するために山を貶めた初期キリスト教の歌も(伝統的讃美歌を除けば)今は見あたらない。山々は怪物であることをやめ、変化と多様性を持つ自然の不可欠な一部となっていた。そひて最も著しい変化の一つは、「逍遥」詩人と「自然学的神学」詩人の両方に見られる、山の描写の広汎さであった。
こうした置き換え作業があってこそ、ワーズワスやシェリーらの自然讃美のロマン主義も可能になったのだと思うと、詩的価値としてはロマン主義詩人たちに軍配があがったとしても、観念史的な視点での大きな観念のイノベーションを支えたという点ではバーネットからマレット、トムスンらにつながる動きのほうがはるかに重要だったのではないかと思ったりする。
17世紀という大きな山に挑む
最初に読みはじめたときは、山々をそのもの自体を感じることなく伝統的な知の先例にしたがって忌むべきものとしてしか見れなかった人々のことを視野狭窄ではないかと思ったりしたが、そうではないのだ。僕らだって同じで、先人たちの知のうえでしか思考も判断もできないわけで、現実を自分自身で見ることなんてほとんどできていないはずだ。
いつも17世紀という時代の歴史的な革新に注目することが多いが、この本でもあらためて17世紀の革新に驚かされた。そんな時代の観念の変化に光を当ててきたのがニコルソンだったりする。これまでも『円環の破壊』というまさに世界がつるっとしたなめらかな正円から、凸凹が崇高なものとして認められ歪んだ楕円の世界に移っていくさまを詩人たちがどう描いたかを綴ったものや、そうした変化の原動力ともなった科学を牽引した英国王立協会の面々の様子を、同協会のメンバーでもあったサミュエル・ピープスの残した日記をもとに読みといたその名も『ピープスの日記と新科学』などを読んできたが、そのなかでも本書は一番の名著だと思った。
そんなニコルソンも大きな社会的変化をもたらした17世紀。逆にいえば、現代の問題の元凶の多くが17世紀の革新を発端にしているわけで、僕らが更新し乗り換えるべきはまさにこの17世紀という巨大な山なのだ。
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