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スペクタクルの社会/ギー・ドゥボール

ちょうど500番目のnote。
キリのよい今回、この本を紹介できるのは、ちょうどよいかも。

ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』

冒頭この文章からはじまる。

近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。

人間がみずからの生を直接的に生きることができず、目の前に立ち塞がる表象にまみれた社会で生きることしかできない、そんな社会。

そんな社会で生きていることに気づくこともなく、表象をみずからの生や感情や真実や価値や正義や悪や問題だと勘違いして生きて、不満を感じて、愚痴や要求や言い分や思想や諦念を口々に言葉にして生きる現代の僕らのスペクタクル性!ああ、なんという。

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諸個人の社会的関係がスペクタクル

今回ようやく読み終えたが、実はこの本、これまでに2回ほど、わりと最初のほうだけ読んで途中で読むのを挫折してる。

それでも今回あらためて読んでみようと思ったのは、冒頭の引用にもある、この社会における「表象」の問題をあらためて考えてみたかったからだ。

ドゥボールのいうスペクタクルは、表象=イメージそのものではないらしい。

スペクタクルはさまざまなイメージの総体ではなく、イメージによって媒介された、諸個人の社会的関係である。

また難解な!

表象=イメージに媒介されることでしか、互いに関係しあうこともできなくなった、コミュニティ=共同体が崩壊し、金銭をあいだに挟んでしか様々な社会的コミュニケーションが成立しないような社会における個人的な関係性がスペクタクルだということか。

なるほど、かつてはただひたすら難解にしか思えなかった、こんな一文も、いまのタイミングなら難解さそれ自体は変わらずとも言わんとするところに思い当たるところはあるなという実感とともに読めた。

以下にあるような、社会の深いところにまで入りこんで、とうてい除去できるとは思えない分断さえも、いまのこの日々たがいに怒号しあう声か、あまりに紋切型でたがいを称賛しあう声ばかり――つまり敵か味方の単純な白黒しかない、わかりやすすぎる情況――に覆われたこの日常社会のなかにまみれていれば、否応なく実感をともなって読むことができる。

分断とは、それ自体、世界の統一性の一部である。すなわち現実とイメージとに分断されてしまった包括的な社会的実践の一部である。自律的なスペクタクルは社会的実践の前に差し出されるが、この社会的実践の方もまた、スペクタクルをそのなかに含んだ現実的全体性である。だが、この全体性のうちに生じた分裂は、スペクタクルこそがその実践の目的だと思わせるまでに社会的実践を損なってしまうのである。スペクタクルの言葉は時代に支配的な生産活動の記号から構成されるが、これらの記号が同時に、この生産活動の究極的な目的ともなるのである。

白と黒のひたすらな分断。
表象と直接的な生の完全なまでの分断。

お金と個人的な生

最近お金や経済について書くことが多くなっているが、お金も、商品も、経済的に使用より交換が優先される価値観も、どれもきわめて表象的であり、それらを通じて、人間社会はきわめてスペクタクルなものになってしまっている。

いったい僕らの生はどこへ行ったのか。
ときおり不在の生をかすかに感じとれるような気がすることがあるので、それを覆い隠した表象の分厚い膜の存在が恨めしく思える。それが表象でしかないことを感じとることまではできても、そこから目を逸らすこともそれを乗り越えていくことも、いまの社会システムのなかではむずかしすぎる。

社会生活に対する経済の支配の第一段階は、あらゆる人間的現実の定義を存在から所有へと明らかに堕落させてしまった。蓄積された経済的成果が社会生活を完全に占拠してしまった現在の段階は、所有から外観への全面的地すべりが行われている段階だ。そこでは、あらゆる実質的「所有」が、己れの即時的威光と最終的機能を「外観」から汲み取らねばならない。同時に、あらゆる個人的現実は社会的なものとなり、社会権力に直接依存し、それによって作り上げられることになる。個人的現実は、存在しないという限りにおいてのみ姿を見て現すことが許される。

存在から所有への堕落。さらに所有される財の蓄積が、所有を外観へと地すべりさせる。外観あるいはさらにその先のデータへと。所有は外観により測られ、いまやデータによって測られる

ドゥボールとも交流のあったジョルジョ・アガンベンが剥き出しの生が政治的管理の対象となったことを考察するのと同じように、ドゥボールは個人的現実はその非存在を外観(あるいはデータ)によってのみ表象可能であることを指摘する。

スペキュラティブな生

剥き出しの生が政治的監視対象となるということは、ドゥボール的にいえば、それは生をスペキュラティブにみる哲学の対象としか見なくなるということである。

見られる表象。その表象に人間みずからもなっていく。人は直接的な生を生きるのではなく、哲学化された生を生きることになる。

どんなに哲学とは無縁と思える人であろうと、その生が哲学であり、哲学でしかないことにすこしも変わりはない。

スペクタクルは、人間の活動を、見るというカテゴリーの支配下で理解した西洋哲学の企図の持つ弱点のすべてを受け継いでいる。したがって、それは、この思考から生じた厳密な技術的合理性の絶えざる展開に基礎づけられている。スペクタクルは哲学を実現するのではなく、現実を哲学化する。すべての人の具体的な生が、思弁的(spéculatif)な世界に堕落したのである。

スペキャラティブなものへと堕落した生。

それは生きられるよりも考察され見世物にされ非難され怒号を浴びせられ笑い者にされる。あるいはスペキュラティブな生はおもちゃにされ商品にされ芝居じみたものとなり悲劇となり喜劇となりメロドラマとなりゴミのように捨てられリサイクルに回される。

ゆえに、自由も解放も休息も余暇も忘却も、すべてがスペクタクルな商品の一部でしかないし、哲学的なスペキュラティブな創作物であっていかなる現実的な生からも分断されてしまっているのだ。ちょっと長いがこういうことだ。

分離された事物を分離された生産方法によって生産することに成功したまさにそのことによって、原始社会では主要な労働と結びついていた基本的な経験が、いまや、システムの発展の極において、非―労働の方へ、無活動の方へとその場を移しつつある。だが、この無活動は、いかなる点でも生産活動から自由ではない。それは生産活動に依存し、不安とあこがれを抱きながら生産の必要と結果とに従属している。この無活動は、それ自体が生産の合理性の産物なのである。活動の外に自由はありえないのに、スペクタクルの枠内であらゆる活動が否定されているのは、まさに、こうした結果を包括的に築き上げるために現実の活動がスペクタクルのなかにすべて完全に取り込まれてしまったからにほかならない。したがって、余暇の増大による今日の「労働からの解放」は、いかなる意味でも、労働のなかでの解放でも、この労働によって作られた世界の解放でもない。労働のなかで奪い取られた活動は、どのようなものであれ、労働の結果への従属のなかに再び見出されることはありえない。

余暇は労働のなかに組み込まれた商品のひとつでしかない。余暇も含めての労働なのだ。その労働もまた、あらかじめ表象化されていて、すこしも現実的な、生の直接的な活動ではなく、どこまでもスペクタクルな社会の一部でしかなく、僕らが自由な時間と感じている余暇などは、あらかじめ労働の一部としての時間の奴隷である

さて、時間ととはなんだろう?である。

円環の時間から歴史の時間へ

生が思弁的なものとなり、現実が哲学になるとき、言葉や外観、データなどの表象に世界は覆われ、人間は直接的な生からも、野生的な自然の生からも切り離されることになる。

野生的な循環的な時間は、機械的なリニアな時間――歴史――に取って代わられる

そこには経済が成長し続けなくてはならないものという考えに至る根本的な原因があるだろう。

人間という、「〈存在〉を揚棄する限りにおいてのみ存在する否定的存在」は、時間と同一の存在である。人間が自らの自然を占有したということは、人間が宇宙の展開を把握したということでもあるのである。「歴史そのものが自然史の、自然の人間への生成の、1つの現実的な部分である」(マルクス)。しかし逆に、この「自然史」は、歴史のこの全体性を再発見できる唯一の部分である人間の歴史の過程を通してしか現実には存在しない。それは、宇宙の周辺部への星雲の後退運動に時間のなかで追いつく射程を持った現代の望遠鏡のようなものだ。歴史は常に存在してきたが、常に歴史という形態で存在していたとは限らない。社会を媒介にして行われる人間の時間化は、時間の人間化に等しい。時間の無意識の運動は、歴史意識のなかで姿を現し、真実のものとなるのである。

この時間を論じた第5章、第6章あたりが今回読んで、すごく面白かったところだ。

自然史の一部としての直接的な生とともにある現実から切り離されて、機械的、歴史的時間のなかで「人間は時間化」される

「死も出産も、時間の法則として理解されることはない」のが、歴史以前の古い社会である。その社会において「時間は、閉じられた空間のように不動のまま」であり、「自然に対する直接的な経験にしたがって、円環的な時間モデルによって時間を組織する」のだ。

ところが「より複雑な社会が時間の意識を持つようになると、時間を否定することがむしろ社会の労働となる」。意識において作られた時間をみずから否定することが労働であるとは、労働とはそもそもの最初から時間に呪われているとはいえないか

話はすこし逸れるが、円環的な時間をイメージしようとするなら、それを植物の時間としてイメージすると良いのではないかと思う。僕は前に読んだエマヌエーレ・コッチャの本を思い出しつつ、このあたりの時間の話を読んだ。

息を吸い込むとは、わたしたちの中に世界を到来させること、つまり世界がわたしたちの内にあるようにすること、息を吐くとは、わたしたち自身にほかならない世界に、自分自身を投げ出すことである。世界に在るとは、わたしたちが知覚し、生き、夢見ることのできるすべて、将来的にできるかもしれないすべてを含みもつ究極の地平の〈内部に〉、単純に身を置くことではない。

とコッチャが書くとき、この呼吸によるみずからの内に世界を到来させるありかたは、表象によって直接的な生からも分断されたスペクタクルな社会の人間のありかたとは正反対だ。あらためてコッチャの師がアガンベンである意味を思った。

時間と文字

時間という表象こそが、言葉が文字となることや洞窟に壁画が描かれるようになることなどと同様、人間を自然から切り離すことになる初期的な表象のひとつなのだろう。時間の発見とともに労働は生まれ、その労働を権力が牛耳ろうとする

政治権力の誕生は、産業の出現まで根本的な変動はもう経験することのない時代のとば口で、鉄の溶解などの最後の技術的大革命と関連して生じたと考えられるが、それはまた血縁による絆の崩壊が始まった瞬間でもある。その時から、世代から世代への継承は純粋な自然的円環の圏外に出て、方向づけられた出来事、権力の継承となった。不可逆的な時間は支配者の時間であり、王朝こそがその第一の尺度である。文字がその武器であり、文字のなかで、言語はさまざまな意識の間の調停という、独立した完全な現実に到達する。だが、この独立性とは、社会を構成する調停者としての、分離された権力の一般的独立性と同一のものでもある。文字とともに、生きた者どうしの間の直接の関係のなかではもはや誰も持たず、誰にも伝わらない意識、すなわち非人称的な記憶という、社会の管理者の記憶が生まれたのである。「文章は国家の思想であり、文庫はその記憶である」(ノヴァーリス)。

非人称的記憶。身体から切り離された記憶が文字とともに生じている。法人が可能になるのもそこからだ。

自然史の一部としての時間とは神話の時間である
前歴史的な時代としての神話の世界である。歴史的時間以前という意味では、おそらく文字の時代というより、ホメロスら口承文学の声の時代である。

神話は政治に利用されるが、現代的な意味での政治が可能になったのは、非人称的記憶が可能になる文字の時代を待たなければならなかったはずだ。

「一神教とは、神話と歴史な妥協の産物、いまだに生産を支配している円環的時間と、諸民族が衝突し再編成される不可逆的な時間との妥協の産物であった」と、ドゥボールは書いている。
西洋でいえば、ローマの時代に、キリスト教がつくられたのは、まさに、声の文化と文字の文化の衝突が生じた時代であったからといえるのだろう。

歴史が消費物としての商品となる

文字化された歴史、歴史化された時間のなかで、モノも、その意味、価値も不可逆的な流れのなかで、商品となっていく。歴史そのものまでも商品となるのだ。

社会の根底に存在する歴史は、表面に出てくると消えてしまう傾向がある。不可逆的な時間の勝利とは、モノの時間への変身でもあるのである。なぜなら、その勝利の武器はまさに、商品の法則に従った事物の大量生産だったからである。それゆえ、経済の発展によって贅沢な貴重品からありふれた消費物へと変化した主要生産物とは、歴史なのである。それも、生の質的使用をすべて支配するモノの抽象的な運動としての歴史だ。かつての円環的時間は個人と集団によって生きられた歴史的時間の増大部分を支えていたが、生産の不可逆的時間の支配は、この生きた時間を社会的に取り除こうとするのである。

時間は過ぎ去ってもモノは消えない。かつての神話の時間であれば、モノは時間とは無関係であったから、時間は止まっているかのように変化は可視化されなかった。しかし、歴史の時間の時代となり、モノが時間の表象となるとき、事情は変わり、それは蓄積もできるし、成長可能であるかのように表現できるようにもなった。

大量生産はある意味時間の発展、成長の物質化、外観化にほかならなかった。その見方であれば経済は成長するものだと考えられるのは無理はない。モノ化された富がひたすら蓄積され、増え続けるようにしか見えないのだから。

そうした経済社会のなかで、歴史は陳腐な消費財と化す。消費財としての歴史のなかで、時間化された人間がひたすら浪費されるのが、いまの時代だと言えるだろう。

スペクタクルな生

そうしたなか、人々の生活時間は擬似的に円環的なものであるかのように表象されることになる。

人は擬似的に繰り返されるサイクルのなかで、ひたすらイメージを消費しながら、スペクタクルな時間のなかで暮らしていくことになる。

消費可能な擬似円環的時間とは、狭い意味でのイメージの消費時間としての、そして同時に、最も広い意味での時間商品のイメージとしての、スペクタクルの時間である。あらゆる商品の媒体であるイメージを消費する時間は、スペクタクルの装置が十全に行使される分野と不可分であり、また、それらの装置が、個々の消費すべての場として、またその中心にある姿として、包括的に提示する目的とも不可分に結びついている。

スペクタクルな社会において、スペクタクルな生を生きることしかできない僕らは、ひたすらイメージを浪費し、それに不満を述べたり文句を言ったり共感したり感動したりYouTubeの動画に描かれたまま行動したりInstagramの誰かと同じ服を着たりビジネス本に書かれた情報に従って仕事の判断をしたりか、その反対にそれらを否定して自分で考えて行動してるふりとしてみずからのイメージを制作するかしかない。自分のオリジナルとやらも、結局は余暇が労働の一部の商品でしかないのと同様に、スペクタクルな商品のコピーでしかない。

1967年に書かれた本だから、例として挙げられているものは古臭いが、以下で描かれた情況は50年以上すぎてもなんら変わらないだろう。この緊急事態宣言下で「もう、家でじっとしているなんて我慢できない」なんて言って、外に飛び出そうとしてしまうのも、結局は、余暇というものが労働の一部でしかなく、スペクタクルな消費社会における、スペクタクルな生に許された唯一の行動だからなのだろう。つまり、その強力で逆らうことのできない命令に比べれば、緊急事態宣言下のどんなお願いも行動になんら影響を及ぼすはずのないものなのだろう。

「家でじっとしているなんて我慢できない」生は、きわめてスペクタクルな生なのだといえる。

よく知られているように、現代社会が常に追い求めている時間の節約というもの――輸送の速度に関してであれ、インスタント・スープの利用に関してであれ――が何であるかは、アメリカ合衆国の住民がテレビを見る時間が1日平均して3時間から6時間だという事実に明確に現れている。時間消費の社会的イメージはと言えば、それはもっぱら余暇とヴァカンスの時間、あらゆるスペクタクル的商品と同様、離れたところに描かれ、誰もが望むことを暗黙の前提とした瞬間によって支配されている。この商品は、ここでは明白に、現実の生の瞬間として与えられ、その円環的な回帰を待つことが求められている。だが、生に割り振られたこれらの瞬間自体のなかに、再びより強度になったスペクタクルが姿を見せ、再生産されるようになる。現実の生として描かれたものが、結局は、単により現実的なスペクタクルの生でしかないことが明らかになるのである。

このスペクタクルな世界から僕らは抜け出すことができるだろうか。

それはどうかはわからないが、ただひとつ言えることは少なくとも自分たちが直接的な生からも分断されたスペクタクルな社会を生きているのだということを自覚することが大事だということだろう。


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