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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#哲学

図式的な理解を超えて

奇異で複雑なもの、不気味でおさまりの悪いものを、わかりやすく整えて簡単に理解してしまうことなく、見えないものも含めてありのままに受け止めていたいと思う。 それは決して知ろうとしないとか、理解しようとしないとかとか違う。 知ろうとすることや理解することとはまた別のところで、その存在のありようを変化させ続けているものの感じを持ち続けることだといおうか。あるいはその不可視の予感のようなものから目を逸らさないようにすることか。 不定形の言語や図式化といった人工的なツールの狭く形式

意思をもって流れに身を任せる

仕事をする際――いや、もっと広く日常的に暮らしているとき全般に言えることだと思うが――、何をするにも他者のことを慮ることはとても大事で、かつ、そうすることが当たり前なことだと思う。 自分たちが望む状態を実現し、かつ、それができるだけ持続できるようにするためにも、自分本位でだけではなく、利他的な視点ももって、事を進めなくては、よい結果は得られない。 そうじゃないと、苦労しても水の泡になることもある。 だから、どうやって進めるかを考えることは大事だ。 何のために、どうやって

わかるとはどういうことだろう?

わかることに苦手意識をもっている人。 そういう人は、わからないということに必要以上に怯えていたりするんではないだろうか。 自分だけわかってないと疎外感を感じる? わかってないとダメなんじゃないかと不安? でも、ちゃんと考えてみてほしい。 この世界、そんなにわかってることだらけのはずはないではないか。むしろ、わからないことだらけで当たり前だろう。 わかることができないことにそんなに怯える必要もない。 もし、決定的にわかってないことがあるとすれば、そのことだ。 この世界は

混合の形而上学

僕たちはどんな世界で、どうやって生きていくのだろう。 そんなことを考えてしまうとき、いま読んでいるエマヌエーレ・コッチャの『植物の生の哲学』という本になんとなく穏やかな気持ちにさせてもらっているのを感じる。 わたしたちは、こういってよければ地上の居住者ではない。わたしたちは大気の中で暮らしているのだ。 僕らは大気のなかを泳いでいる魚のようなものだと気づかせてもらったとき、世界の見え方がはっきりと変わった。 僕らは何もない空間に存在しているわけではなくて、何もないように見

持続可能性と「人間」の外にあるもの

相変わらず、日本では持続可能性ということに対する意識の高まりが見られない。そのことに僕はびっくりする。 仕事柄、いろんな企業の変革に関わらせてもらっている。だけど、そうした現場でも持続可能性という観点で物事を考えることがデフォルトになってきているとはいえない。変革しようとするなら持続可能性という視点で考えることは、それだけで多くのきっかけが得られて便利だと思うのだけど、あまりそうはなっていないのは何故だろうかと感じることもある。気のせいだろうか? いま何かを変えるとすれば

フーリッシュな知性(後編)非人間的な知

「フーリッシュな知性」と題し、歴史上、至るとき、至るところに見られる「フール」の文化の変遷を辿りつつ、「理解」という人間的な思考の外側に開いた魔の領域に目を向けた「前編」。 さすがに長文になりすぎたため前後編に分割したが、後編では「使える」ということと「理解」の関係の外側にある非人間的な知性、まさにフーリッシュな知性について考えてみたい。 まずは、前編で紹介したチャップリンに続き、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれる喜劇役者カール・ヴァレンティンのコメディ作品に目を向けて

日常の味わい

学びと反省。 それらによって世の中の見え方はすこしずつ変わっていく。学びが世界の見え方を鮮明にしたり、反省によって世界の見え方は書き換えられる。 僕らは世界をそうやって味わっている。 2つの味はちょっと違って、前者はいろんな味のバリエーションはあれど美味しさとして、後者はほろ苦さとして感じたりするが、どちらも自分のなかに新しい何かが吸収されたシグナルなんだろう。 専門性ではなく日常的一般性で引き続き八木雄二さんの『神の三位一体が人権を生んだ』を読んでいるが、この本、なにげ

人工補装具(プロテーゼ)

もっともっと、ちゃんと常識にとらわれず、知識や言語やさまざまなイメージなどの人間的な錯覚を強いるものに惑わされることなく、現実を、現在を生きていたいと思う。 それは正しい答えを見つけるということではなく、答えという静的なまやかしに安住してしまう罠を免れて、常に自らが何に捕らえられているのかを反省しつつ、そのヴェールの奥にあるものを探求し変わり続ける姿勢ではないかと思う。 まわりはひとつも悪くない。 いつでも間違いは自分の側にあり、自分の未熟さに原因があるのだから。 現在見

動物としてのバランス

物事の行いやすさというのは、体系化された手法の中にあるのではなく、もともとの身体の感覚がもつ性質に忠実かどうかだと思っている。 手法から入るのではなく……いまから10年以上前に「デザイン思考」の本を書いたときも、デザイン思考を手法として利用する以前に、自身の感覚を研ぎ澄ませて、感覚に従った判断ができるようになっていないと、オブザベーションも、KJ法を使った発想もできないと思って書いた。 すこし前に「理解力と転換力」という記事で、手法だけでは足りず教養が必要だと書いたのも、手

環境は私を含む

うまくいかないことを外部の環境のせいにしてしまう。 社会のせい、経済のせい、会社のせい、誰かのせい……。 この人新世のこれだけ環境問題が叫ばれる、グローバルに相互につながりあった現在の世界において、自分にとってうまくいかないことを、そんな風に自分以外の外部のせいにしてしまえるなんて、どれだけ考え方が保守的で時代遅れなのだろうかと感じる。平成が終わろうとしている状況で、昭和のにおいがプンプンする(いまだに「サラリーマンは気楽な稼業」とでも信じているかのように)。 社会や組織

文書を書くことで……

書いてみないとわからないことがある。 普段から文章を書き慣れていない人は、文章とは、自分が「わかっている」ことを書いて表現するものだと思っているかもしれない。 けれど、頻繁に文章を書いている人なら知っているとおり、書きはじめるときには何を書くかが定かではないことでも、書き進めることで何を書いているかが、自分でもわかってくるということがある。 僕なんて、むしろ、そういう場合の方が多いくらいだ。 文中にはいる1つの要素さえ、思いつけば、まず書きはじめることができる。思い浮か

自然の極と精神の極

自然と精神、あるいは、自然と文化。 古くからある、この二元論の思考装置がいま機能不全に陥っている。 いや、壊れたのは最近のことではない。 20世紀のはじめには、すでに修理が必要なことは指摘されてきた。 だが、上手な修理工は現れることなく、ほとんど機能しない形骸化された二元論の残骸だけが横たわりつつも、それに代わるものなく人々の思考を制限している。 もはや、そこから得られるものはないというのに……。 近代の「憲法」ここにこの二元論の装置を別の形で描いた人がいる。 純化と翻訳

パッチワーク・モンスター

そうそう。こういうことなのだ。 僕らはすこしも世界から疎外されてなどいない。 私たちは粘着性の汚物の中にいるというだけでなく、私たち自身が汚物なのだが、私たちはそこにひっつくやり方を見出すべきであり、思考をより汚いものにし、醜いものと一体化し、存在論ではなくてむしろ憑在論を実践すべきである。 すでに読み終え、一つ前のnoteで紹介したモートンの『自然なきエコロジー』より再び。 汚物の中にいる汚物がまわりとひっつくやり方は、ロマン主義の時代にすでに生み出されていた。そ

記述/痕跡

パリンプセスト。 羊皮紙にすでに書かれていた内容を消し、その上に別の内容を記述する、リサイクルの方法。 紙が普及する前、記録用のメディアとして用いられていた羊皮紙は、高価であるがゆえに、そうした使われ方をする前提で使われた。現代では、一度消された記録を復元する技術が開発され、その復元から重要な発見がされることもあるというが、消されたということは当時「重要ではない」と判断されたということだ。 何が残すべき記録であり何がそうでないかどうかを判断するのは、時代などで判断基準が異なっ