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図式的な理解を超えて

奇異で複雑なもの、不気味でおさまりの悪いものを、わかりやすく整えて簡単に理解してしまうことなく、見えないものも含めてありのままに受け止めていたいと思う。

それは決して知ろうとしないとか、理解しようとしないとかとか違う。
知ろうとすることや理解することとはまた別のところで、その存在のありようを変化させ続けているものの感じを持ち続けることだといおうか。あるいはその不可視の予感のようなものから目を逸らさないようにすることか。

不定形の

言語や図式化といった人工的なツールの狭く形式的な枠組みに、このどろどろと蠢く世界を押し込めてしまいたくない。

人間そのものも含めて、この世に存在するものは、もっと不定形で取り留めもなく、穢れていて見窄らしいはずだ。
それなのに、なんでも利口な型枠にはめ込んで動きを止めてしまってはなにもかもが台無しだ。

このnoteでこの2020年の最初に紹介したのは、ジョルジュ・バタイユがみずからが主宰した雑誌『ドキュマン』に寄せた彼自身の文章を集めた一冊だった。

その本に所収の「不定形の」という短いエッセイに、バタイユはこう書いている。

ある辞書が、もはや単語の意味ではなく働きを示すときから存在しはじめるとしよう。たとえば「不定形の」は、ある意味をもつ形容詞であるばかりでなく、それぞれのものが自分の形をもつことを全般的に要請することによって、価値を下落させる役割をもつ言葉である。それが指すものはいかなる意味でも権利をもたず、いたるところで蜘蛛やミミズのように踏みにじられてしまう。

この踏みにじられてしまうもの。地べたに、あるいは地中にあって、その存在を認めてもらうことすらなく、足元で踏みにじられるもの。そうした存在、いや、非在の潜勢力にも目を向けられることが大事だと思う。

それはそうしたものにも権利を認めようという話ではない。ただ、そうした地下に蠢く見えない力が、可塑的な変化の源であると認めなければ、僕らは生成力にもあるいは再生力そのものを失い、みずからの社会や生命の持続可能性を失ってしまうのだと思うのだ。

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世界はなにものにも似ていない

だから、形をつくってわかりやすくすることに満足してはいけない。
形をつくることは不定形な可塑的な潜勢力を見落とすこと、蜘蛛やみみずのような存在を踏みにじってしまうことになるのだから。

実際、アカデミックな人間が満足するには、世界が形を帯びる必要があるだろう。すべて哲学というものは、これ以外の目的をもってはいない。つまり、存在するものにフロックコートを、数学的なフロックコートを与えることが重要なのだ。それに対して、世界はなにものにも似ていず不定形にほかならない、と断言することは、世界はなにか蜘蛛や唾のようなものだ、と言うことになるのである。

哲学は、世界に形を帯びさせる。それが知るということだからだ。

しかし、一方で世界は本当は不定形のものであるはずだ。
それは形を持たないのではなく、固定した形にはおさまらない可塑的な性質をもつものだということだ。

いまある形で姿をみせる世界の背後には、見えない無数の潜勢的な形がある。
そのことをちゃんと感じとっていることが大事だと思う。

図式化したりせず

そんな風に思っているからこそ、読んでいる途中のジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『残存するイメージ アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』に、こんな一文を見つけると、すこしうれしくなるのだろう。

この構造を見いだすために、フロイトは――リシェのように――自分が見ているものをやせ細らせたり図式化したりはしないだろうし、あるいはまた、自分が見ているものの「背後」にひとつの観念を探し求めたりもしないだろう。ましてフロイトは――リシェがそう試みるように――そうした構造を図像学的細部に仕立てあげようとしたりはしないだろう。そもそも、「非合理な運動」の無秩序からして、そんなことはできるわけがない。

構造を見いだそうとすること。
通常なら、その発見のために僕らは図式化や、図像学的な理解に頼りたくなるものだ。
しかし、その対象が無秩序な性質の非合理な運動そのものだとしたら、安易な図式化でその構造を理解したつもりになろうとするのは、はじめから選択が間違えていることになる。

不定形なものに形を見いだすような誤った選択肢を僕らは避け続ける必要がある。

蛇たちが蠢き、狂女たちが踊る

では、どうすればいいのだろう。
そのヒントが先の引用の続きにあるように思う。

ヴァールブルクが見た多くの蛇がからまりあいながら蠢くさまと同じものをフロイトは見ていた。

しかしフロイトは、形式の緊張線が存在すること、運動する対称線とでもいうべきものが存在することを、不意に見抜いてしまう。この線は、弛緩したり折りたたまれたりする身体とともに、曲がりくねったり破断したりする。踊ることもあれば、破裂することもある。しかしそれは存在する。およそ把握不可能なその幾何学によってみずからの両側に配置された、身ぶりの渾沌の窪みのなかにすら。

把握不可能な幾何学。無数の蛇が蠢くさま。身ぶりの渾沌。太古から突然場違いなシーンに呼び出される踊り狂う身ぶり。

決まった形を捉える幾何学ではなく、変化する身ぶりを感じて震える把握不可能な幾何学。

その動きは、ニーチェの永劫回帰を思い出させるように強い力をもって時を超えて反復してくる。
キリスト教の聖女の身ぶりに、古代の狂女たちの身ぶりが時を超えて反復する。

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ニッコロ・デッラルカ、ドナテッロ、あるいはベルトルド・ディ・ジョヴァンニの嘆くマグダラのマリアにヴァールブルクが視線をむけるとき、身ぶりによる「表現」は、まずはじめに症状的であるのでなければ象徴的ではないということが明らかになる。この場合、身ぶりの定型が「表現」をするのは、ある強度の瞬間を聖女において結晶化させるためでしかない。そしてその瞬間は、なによりもまず、福音書の物語の象徴秩序に対するあからさまな不法侵入としてあたえられる。反時間の瞬間が、マグダラのマリアの身体において、古代のマイナデスの途方もない欲望を反復する。反実現の身ぶりが、マグダラのマリアの身体において、異教の記憶を蘇らせる。

差異と反復。ポリリズム。抑圧されたものの回帰。

一度歴史の舞台から消えたものが、地中から生き返ってきて、まるで別の文脈のものに憑依するのだ。

目に見える図式的な因果関係ばかりでなく、こうしたある種、ドゥルーズの欲望する機械たちの蠢くさまのような幾何学こそを理解すること。

そのことが非人間たちも含めた民主主義を考えることが求められる、この環境危機の世には必要なことのはずだと感じている。



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