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混合の形而上学

僕たちはどんな世界で、どうやって生きていくのだろう。

そんなことを考えてしまうとき、いま読んでいるエマヌエーレ・コッチャの『植物の生の哲学』という本になんとなく穏やかな気持ちにさせてもらっているのを感じる。

わたしたちは、こういってよければ地上の居住者ではない。わたしたちは大気の中で暮らしているのだ。

僕らは大気のなかを泳いでいる魚のようなものだと気づかせてもらったとき、世界の見え方がはっきりと変わった。
僕らは何もない空間に存在しているわけではなくて、何もないように見える空間には見えないさまざまなものの混合物である大気(空気)が存在している。その大気がなくなれば1分も持たずに僕らは息を止めるだろう。

その大気のなかでも僕らが必要とする酸素があるのは、植物たちのおかげだ。
タイトルどおり、この本はその植物に目を向けることで生のあり方、そして、この世界について新鮮な考察をしている。
植物が調整し続けてくれる大気のなかで僕らは生きている。その見えない大気のなかに、どんなに忌まわしいものが含まれていたとしても、僕らは「大気の中で暮らしているのだ」ということを、この本は思い起こさせてくれる。

大酸化イベント

『地球外生命と人類の未来』でアダム・フランクが書いているとおり、それまでほとんど酸素が存在していなかった地球に27億年前、大酸化イベントと呼ばれる地球物理学的な意味での大変化が起こっている。

進化は、水を用いて化学作用を駆動するという新バージョンの光合成をあみ出したのだ。水は地球上に豊富に存在するので、新バージョンの光合成を利用する生物は、古い形態の光合成を用いる生物に勝利した。しかし藍藻(シアノバクテリア)と呼ばれるこの生物は、単に増えるだけでなく、水、二酸化炭素、日光を取り込んで、その活動の一種の廃棄物として酸素分子を吐き出し始めたのである。(中略)やがてシアノバクテリアの活動によって、非常に大量の酸素が海洋や大気に投棄されたために、地球全体がその状態に反応しなれけばならなくなった。地質学的な記録は、大気の酸素濃度がわずかに上昇した「ひと吹き」が起こったことを示している。しかし25億年前にはその状態が定着し、わずか数億年のあいだに大気の酸素濃度は100万倍に上昇した。

このシアノバクテリアが引き起こした大酸化イベントがなければ、僕らが存在する余地などまるでなかった。そして地球という環境はそれらの新たしく登場した生命によって大きく変わった
イベント前まで世界を支配していた酸素嫌いの生物たちは居場所をなくし、酸素に平気なシアノバクテリアなどが世界を埋めるようになり、さらには酸素を呼吸して生きる新たな生物が登場して海や大気を支配するようになるのである。

GOE(大酸化イベント)が終わる頃には、かつて地球の主人であった酸素非発生型光合成生物はイエローストーン国立公園の悪臭のする硫黄に満ちた穴や、私たちの胃のなかのような場所で生きる方法を学び、酸素のない巣穴に引き篭もらざるを得なくなった。かくして新たに出現した酸素を呼吸する生命形態が、大洋や大空を支配するようになったのだ。

生命がいまの地球をつくったのだ。人がいまの人新世という地質時代を用意したのもそれと同じことなのかもしれない。

GOEが起こらなかったら僕らなんて存在していない。
その状況はいまでも変わらず、大気のなかで暮らす僕らのような動物は、植物なしでは生きていけない。
そのことをコッチャの本はあらためて思い起こさせてくれる。

まわりに依存して生きる

僕らはどうやって生きているのか。
僕らが生きるために、何が僕らの力になってくれているのか。

高等生物は一度も、生命のない世界と直接的な関係を結んだことがない。あらゆる生物にとって最初に触れる環境は、同じ種の、さらには他の種の個体からなる環境である。生命というものは、〈自分自身が生きる環境、自分自身にとっての場所にならなくてはならない〉もののように思われる。

と、コッチャは書いている。
動物は自分自身が生きるために必要は酸素も植物による供給頼っているし、栄養摂取にしろ、ほかの動物や植物を食すことでしか得ることができない。

その意味で、動物は完全にほかの生命に依存しているし、良い意味でも悪い意味でもほかの生命との影響関係のなかで生きている。そのことを僕らはほとんど気にしないで生きてしまっている
しかし、僕らが気にしようとしまいと、僕らはまわりの影響のなかでしか生きられない。生かしてもらっている。

ただし、とコッチャはいう。

ただし植物だけは、そうした「自己包摂的なトポロジーのルール」に背いている。植物は生存のために他の生物の仲介を必要としない。それを望むこともない。植物が求めるのは世界だけ、最も基本的な構成要素からなる現実だけなのだ。構成要素とはすなわち石や水、空気、光などである。

もちろん、植物だってほかの生命に影響を受ける。
しかし、コッチャが言うように、ほかの生命なしにやっていけるのも植物の特徴だろう。そんな植物から見たら、世界はまるで違って見えるはずだ。

混合、大気

「本書は植物の生命をもとに、世界という問題を再び問い直そうというものである」とコッチャがその目的を明かしている、この本には「混合の形而上学」というサブタイトルがついている。

「異なる実体や対象同士の相互作用で生み出される結合の形態は3種類想像できる」とコッチャはいう。
この世界は、「並置」という単なる隣接というあり方でも、「融合」という構成要素それぞれの性質が解体されて新しく対象物が産出されるあり方でもなく、「混合」というそれぞれの物体がそれぞれの性質や個別性を保ちながら相互に深く影響を与えあうものだとコッチャは見る。

流体とは、普遍的な循環構造、すべてがすべてと接触し、自身の形状や固有の本質を失うことなく混合しあえる「場」のことだ。

混合の場においてはすべてが流動的に影響しあって、環境は主体に、主体は環境にいつでも変転するし、内容と器の関係はまったく固定されていない

この流動性ある混合という見方が新鮮で、自分たちがどうやって生きているか、どういう場で生きているかを見つめ直す上で大事な視点だと感じたのだ。

この「混合」という結合状態を可能にしている場が、大気だ。

だから、コッチャの見方をすると、普段意識することなくても知ってはいるはずの大気というものがまったく違ったものに見えてくる。

大気は他から区別され分離された世界の一部分にすぎないのではない。それは世界が自分自身を居住可能にする原理、世界をわたしたちの息吹に開く原理、世界そのものが事物の息吹となる原理にほかならない。世界に在るとは常に大気のごとくに在るということだ。なぜなら世界は大気として存在するのだから。

世界は大気として存在する」。

なんて新しく、そして、この時代に必要とされる視点だろうか、と思う。

想像する当のものになる

共生という見方、地球をひとつの大きな生命体と見做すガイア理論などの見方は昔からあったが、コッチャはここに植物からの視点を入れることで、新たな視点の転換をもたらしている。

すこし長いが引用すると、植物においては、大気=世界への参与の仕方がまるで違うのだ。動物とくに人間が世界に間接的にしか参加できていないのに対して、植物はより直接的な仕方で参加している。

植物にとってすべてのかたちは存在そのものの諸変化なのであって、行為や作用だけの変化ではない。かたちを造るとは、自身の存在のすべてをもってそのかたちを経験することなのだ。ちょうど人が年齢別・段階別におのれの実存を経験するように。
創作行為や技術は、変容のプロセスから創造者・産出者だけは排することを条件に、かたちを変容させることができる。その意味で行為や技術は間接的・抽象的なのだが、植物はその対極として、直接的な変容を突きつけてみせる。つまり植物が産出するとは、常に自分自身の変化を意味するということだ。
意識には、自己自身からかたちを引き離す、あるいはかたちをもととする現実から当のかたちを引き離すことでしか、そのかたちを思い描けないというパラドクスがある。これに対して植物は、主体・物質・想像力の絶対的な密着性を表してみせる。植物においては、想像するとは、想像する当のものになるということなのである。

この最後の「想像する当のものになる」というのに、ハッとする。

僕らは基本的には、自身を現実から引き離すことで世界を認識し世界と関わろうとする。それが視覚偏重の動物である人間のとる方法であり、その方法を「デザイン」という。デザインすることで僕らは世界をより自分たちにとって良いものにしようと日々努力している。

しかし、植物のやり方はそうではないとコッチャはいうのだ。
これにはハッとさせられた。面白い。

植物は、わたしたちの文化を定義づける、こういってよければ形而上学的な衒学趣味からすると、常に開いた傷口のようなものだ。抑圧されたものの回帰といってもよい。

というコッチャの本、引き続き読み進めたい。


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