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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#学び

消費者と倦怠

消費者的。 僕らはただ待っているばかりで、期待するものがなかなか現れないと、それが当然の権利とばかりに不満をもらす。ウェルビーイングと言いながら自分に都合のよい良い現実をさも当たり前のように要求し、その実現にすこしでも障害になりそうなものがあればみずからは大した努力もしでもいないのにここぞとばかりに罵声を浴びせる。 いったい僕らは、どうしてこんなにもお気楽で傲慢な要求ばかりするのを当然の権利だと勘違いするようなご立派な身分になってしまったのだろう? 巣の中でピーチクパーチ

学ぶことでウェルビーイングに

昔から「教育」というものがしっくりこない。 学校というものを教育の場と捉えることに違和感がある。 というのも、僕自身が自分の人生のなかで「教えてもらう」ことに苦手意識を感じてきたからだ。教えられる形ではほとんど自分の身に知識やスキルが身についてこないように思えるからで、だから授業中もあまり先生の話は聞かずに自習をしていた。 美術や体育などの実習的な授業は、自分でやってみて、コーチング的に指導を受けられるのでそれはよかったが、講義形式の授業はまったくもって学びになるとは感じて

楽しさの自給自足

自粛期間中、あまりストレスを感じず過ごせた理由がひとつある。 それはそもそも外食をそんなに嬉しいと思わないことだ。だから自身期間中、外食ができない日々が続いても、もともとそういう生活だったから「いつもやってたことができない」というストレスの要因にはならなかった。 家で自分たちで作って食べるほうが美味しいと思ってるから、そんなに外食したいと思わない。 もちろん外で食べて美味しいものもたくさんある。 でも、作ること自体楽しかったりもするので、外食よりも家で作って食べたくなる。

学びの願望

願望というのはなかなか厄介だ。 痩せたい、儲けたい、認められたい。 これらは間違いなく願望だ。 けれど、本当にこれらの願望を、その願望をもつものが叶えようと思っているかというと甚だあやしくなってくる。 痩せたいけど、儲けたいけど、認められたいけど。 そのために必要なことを、これらの願望をもつものがやるかというと、実はそうではなかったりというのはあるあるだ。 痩せたいけど痩せない、儲けたいけど儲からない、認められたいけど認められない。 そのために必要なことをやった上で思う

アート&サイエンス

「2017年04月27日」だからおよそ3年前に別のところで書いた記事だけど、いまの気分にもあっているので再掲。 リサーチだとか研究だとかというと、何かとっつきにくい特別なことのように感じられるかもしれない。 だけど、何かを知りたい、理解したいと思い、そのことについて調べることや、調べてわかったことを元に自分で納得できるような解釈を見つけだすことは、人生において決して特別なことではないはずだ。 自分がわからないと思ったことに立ち向かい、わかるための様々な具体的な行動をすること

すごいけど、完璧じゃない

この時期になると、人を褒めたり、褒められたりという機会が増える。 たしか半年前にもたしか書いたけど、僕が働くロフトワークという会社には、通常の人事評価とは別に、360°レビューという、社員どうしがほかの人のよいところを褒め合う制度があるからだ。 自分で褒めてもらいたい人を指名して、指名された人は指名してくれた人と主に半年間かかわるなかで良いな、素晴らしいなと思ったところを言語化してあげる。 褒めたもらえるほうが嬉しいのはとうぜんのこと、褒める側もあらためて相手のよいところ

境界に立ち秩序を混沌へと反転する

既知の領域にとどまってみずから閉塞的な状況を生み出してしまっているのに、その状況に不満をいう。 好奇心をもって未知を歓迎しないから、限界を超えることができず、可能性が広がらない。 なのに、ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で書いていたような、不思議の領域に旅立ちイニシエーションを受ける神話の英雄のようには、慣れ親しんだ場所を離れようとしないから、文句を言うばかりで状況は何も変わらない。 英雄はごく日常の世界から、自然を超越した不思議の領域(X)へ冒険に出る。

新しい研究の場

まだ思い浮かんでいない、自分がこれからやりたいこと・実際したいことを見つける想像力も、その源泉となるのは知識の蓄積なのだと思う。 自分の頭のなかに十分に多様で、それなりの量のある知のアーカイブがなければ大した想像はできない。大した想像じゃなければ、それにワクワクするのはむずかしく、あ、これやりたいとはならないだろう。 自分の人生、ワクワクしたものにするためにも、やっぱり知の蓄積というのは欠かせない。 学ぶことは楽しい知らなかったことを知る。知るということは何か別の知らな

知識を深める、とは

知識を深める。 簡単に言うが、いまひとつピンとこないワードではあった。 でも、今日そのことについてピンとくる説明にあった。 解像度を上げる1つには「解像度を上げる」ということ。 何らかのテーマについて、どれほど解像度高く理解できているかということ。 どういう状態が解像度が高いかと言えば、特定のテーマを提示されたとき、そのことについて、どれだけ長い時間、さまざまな角度から語り続けられるか?ということだろう。 確かに、それならピンとくる。 僕も1時間でも2時間でもずっと語

日常の味わい

学びと反省。 それらによって世の中の見え方はすこしずつ変わっていく。学びが世界の見え方を鮮明にしたり、反省によって世界の見え方は書き換えられる。 僕らは世界をそうやって味わっている。 2つの味はちょっと違って、前者はいろんな味のバリエーションはあれど美味しさとして、後者はほろ苦さとして感じたりするが、どちらも自分のなかに新しい何かが吸収されたシグナルなんだろう。 専門性ではなく日常的一般性で引き続き八木雄二さんの『神の三位一体が人権を生んだ』を読んでいるが、この本、なにげ

普通にできることのレベルを上げる

フォロワー数が30000人を超えた。 10000人を超えるまで8ヶ月、次の20000人までは6ヶ月だったが、今回は5ケ月で30000人に到達。ペースが上がってるのは、noteそのもののユーザーが増えているからなのだろう。 とても万人向けとは言えない内容のこのnoteに、その3倍の3万人のフォロワーがいるのはいつも不思議に思いつつも、現にそれだけの方が気にしてくれているのだと思うと、何ともありがたい気持ちになる。 とはいえ、フォロワー数が30000人を超えたとて、僕の書く

大人の学び

いま読んでるエイドリアン・ベジャンの『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』は、いろいろ示唆的だ。 例えば、税収を増やすには、所得と資本に対する税率を下げるといいという話かある。「なるほど」と思った。 アメリカの経済学者アーサー・ラッファーは、所得と資本に対する税を減らすことを提案し、それが税収の増加につながると主張した。彼は正しかった。彼が提唱した変化は経済全体の流れを解放し、経済が成長したからだ。現在の結果、効率と生産性と経済活動が増加した。

時代が必要とすること

プロジェクトを進める際、陥りがちな失敗として、ゴールの達成ばかりに気を取られてしまうということがある。 いや、完全な失敗とは言わないまでも、終わったときに到達したかった場所はここだっけ?となるケースがあるように思う。 目標は達成したが、実現したかったのはこれ?ゴールの達成だけを目指してしまうと、場合によってはゴールの達成によりプロジェクトを終わらせることが目的化してしまうことがある。本来何を目指していたのか?ということとズレたものを追いかけるということが起きてしまう。 また

なるほどの回数

あ、この人、学びがはやいなと思える人がいる。 それはきっと必ずしも、絶対的な学びのはやさ/おそさではなくて、その時の状況(何を学べる環境にあるか、学ぶきっかけを与えてくれる相手との相性、とか)との関係性においてもあるとは思うのだけど、学びのはやさに必要なのは、学ぶ本人が問題意識をもてているかどうかだと思う。簡単に言えば、学ぶ準備ができているかだと思う。 何かを学ぶためには、その準備として、何を学ぶのか?のおおよそのターゲティングができている必要がある。仮説ベースで問いが立て