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境界に立ち秩序を混沌へと反転する

既知の領域にとどまってみずから閉塞的な状況を生み出してしまっているのに、その状況に不満をいう。
好奇心をもって未知を歓迎しないから、限界を超えることができず、可能性が広がらない。

なのに、ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で書いていたような、不思議の領域に旅立ちイニシエーションを受ける神話の英雄のようには、慣れ親しんだ場所を離れようとしないから、文句を言うばかりで状況は何も変わらない。

英雄はごく日常の世界から、自然を超越した不思議の領域(X)へ冒険に出る。そこでは途方もない力に出会い、決定的な勝利を手にする(Y)。そして仲間(Z)に恵みをもたらす力を手に、その不可思議な冒険から戻ってくる。

すべての学びが本来そうした未知の領域への旅なんだと思う。知っていることばかりを知ってることの範囲でやってしまうのが、どうしてこんなにもデフォルトになってしまっているのだろうと思う。
神話の英雄のような大それた冒険が毎日ある必要はないけど、毎日何か新しいことを学び、毎日昨日と違ったやり方で違う目標を目指すことがデフォルトになってるくらいがちょうどいいと思ってる。

秩序から混沌へ

キャンベルはこんなことも書いている。

人生の状況にことごとくうまく対応できないのは、結局、意識を抑制しているからに違いない。争いや癇癪は、無知が為す当座しのぎの手段であり、後悔は遅すぎた啓蒙である。英雄の通過というどこにでもある神話には概して、男にも女にも、成長段階のどの位置にいるとしても、誰にでも通用するパターンとして役に立つ、という意義がある。

無知ゆえに争いや癇癪が当座しのぎのため必要になり、事後的な後悔によりほんのすこしの啓蒙的学びを得る。
ほんとは周りに渦巻いてる未知なる混沌を見て見ぬ振りして、なんとかやり過ごせないかと叶わぬ想いを抱えて、意識を抑制しているがゆえに、結果、現実(混沌)と思い(秩序、ただし根拠のない身勝手な)のギャップに押しつぶされて、最後は意図せぬまま混沌に落ちこんでいく。まるで、いまの後手後手にまわるコロナ対応のように。
事後的な後悔から学びを得ればマシなほうで、ただただまわりを恨むだけで何も学ばない人も少なくはない。

そうなることを避けたいのなら、みずから積極的に、事実そこにある混沌に目を向け、そのなかに飛び込んでいくことだ。英雄の通過が誰にでも通用するパターンだというのは、その意味だ。

英雄とは表裏一体の関係にある、道化やトリックスターたちが、境界に立ち、秩序を混沌へと反転させる役割を担う意義はここにあるのだろう。

山口昌男さんが『道化の民俗学』で指摘していることも参考になる。
ギリシア神話におけるヘルメスやヘーラクレース、アフリカの神話に登場するトリックスターの野兎やエシュ神、インドのヒンドゥーの神話におけるクリシュナ神、そして、16世紀頃からイタリアを中心に流行した仮面即興劇コンメディア・デッラルテのキャラクターのひとつである道化のアルレッキーノに、共通する要素を下の表のように整理しているが、その要素のひとつが「境界性」である。

いずれの神話、そして、道化芝居の筋でも、これらのトリックスター的、道化的要素をもった神やキャラクターは、いずれもその境界性によって、日常の秩序に混沌を忍び込ませる役割を担うのだ。

世界中さまざまな場所で、古代の神話に境界を越える役割を担うトリックスターが存在するということ。
それほど、秩序をやぶり、混沌を引き寄せることに意味があり、キャンベルが「神話の英雄は、すでに生まれたもののために戦う戦士ではなく、これから生まれるもののために戦う戦士」だと言い、英雄の役割が閉塞的な状況に変化をもたらすことであることを指摘しているように、保守的なものは倒すべき対象だと古代の人々がすでに認識していたというのは興味深い。

境界に立つ

境界性をもつ古代のトリックスターたち。
中でも象徴的なのは、ヘルメスという神の来歴に見られる。

ヘルメスという名は、古代ギリシアの時代、街道の境界に建てられていた石柱ヘルマに由来するものだという。
そのことを確認した上で、山口さんはヘルメスにまつまる、こんな複数の象徴の結びつきを紐解いている。

蛇身の豊穣のダイーモンの姿をとどめたアガートス・ダイーモンとしてのヘルメスと、ホメーロスによって描かれたヘルメスとのあいだにどのようなヘルメスが介在するのだろうか。ここですでに触れた豊穣の石柱が登場する。ここに置いて、ヘルメスはヘーラクレースの前身に近接する。両者ともにヘルマとして表現されたのである。この石柱自体はファロスとしての象徴性を帯びているが、ハリソンはコンツェの『英雄と神々の形態』に収載されている壺絵に描かれたヘルマに注目する。この絵には人頭を戴いた石柱とその前に祭壇、後ろにヘルマより少し低い程度の葉をつけない樹木が一本描かれている。人頭は長い黒髪と、顎髭を生やしており、側面に、図案化されているがまぎれもないカドゥケウスが描かれている。後方の樹は豊穣のダイーモンであるというハリソンの説明をもう少し敷衍すれば、それは「生命樹=宇宙樹」であることになる。とするならば、この絵のファロス、蛇、生命樹等のイコンはいずれも、豊穣観念に帰結することになる。我々はここでもヨーロッパ民俗におけるメイ・フェスティバル(五月祭)における精霊の出現と生命樹の結びつきを思い起こすことができるだろう。

境界に立つ石柱としてのヘルマ=ヘルメス。
それはヘーラクレースとも重なっている。

境界とはもちろん街道のあちらとこちらをつなぐものでありつつ、あの世とこの世をつなぐものでもある。ヘルメスには死者を冥界におくる役割があるし、逆に冥界から魂を戻す役割もある。ヘーラクレースにも、アルレッキーノにもあの世を旅する逸話があるのと重なる。

この境界性はまた、道化の行うフーリッシュな行いに代表されるように、秩序ある日常を混沌の支配する不条理な世界に一変させるような、秩序と混沌との境界性でもある。

そして、この境界性において、道化も、ヘルメスやヘーラクレースらのトリックスター的な神々も、キャンベルが描く英雄の旅と重なってくるのだ。

蛇と生命樹

道化やトリックスターは、日常を逸脱した行為によって、笑いを呼び、それにより日常をあっという間に混沌へと落とし込む。

笑い、特に嘲笑が、何故豊穣儀礼に結びつくか。それは、笑いが、「静止」に対する「動く」状態に本質的に結びつくからではないか。笑いにおける動は、そのまま「移行」の観念につながる。儀礼が常に宇宙的な性格を持つこと、そして季節の変り目に集中することを考え併せるなら、笑いのコスモロジカルな意義もまた明らかである。即ちそれは「死すべきもの」を彼方に追いやり、「生成するもの」の出現を促進する。

静。変化のないものは死である
秩序を変えようとしないのは、生成を拒絶する。
既知の領域にとどまってみずから閉塞的な状況を生み出してしまっているのに、その状況に不満をいう人たちはまさに、みずからを苦しめる状況を変えられなくしているのが自分たち自身の保守的な姿勢であることに気づかない

だからこそ、そこに変化をもたらすトリックスターたちが必要とされる。
彼らが変化を導入しなければ、自分でも気付かないうちに社会を閉塞感のうちで窒息死させてしまうくらい保守的なものにしてしまう文句ばかりで高度できない人が多すぎて、社会そのものが死に至って仕舞うからだ。

ヘルメスのもつカドゥケウスという杖には、2匹の蛇が絡みついている。

先オリンピア期に、ヘルメスは豊穣のダイーモン(アガートス・ダイモーン)の呼称の1つであった。この豊穣ダイーモンのファロスのイメージを媒介する表現が蛇であった。この蛇は常に雌雄の2匹の対をなして、それは後にアガートス・ダイーモンとアガーテ・ダイーモンという半神的形姿に展開する。この2匹の蛇の交合は、豊穣の象徴であるが、それが後に、ヘルメスのカドゥケウスにからまる2匹の蛇の原型である。

この蛇は、ヘルメスの杖、さらには道化やトリックスターたちが手にもつ棒のつながるし、これらの棒はようするに、生命樹ともつながる。先のヘルマの石柱の背後に、生命樹が描かれる理由もこれだ。

我々はすでに、ヘルメスの棒が、境界の標識である角柱(ヘルマ)を介して、生命樹の象徴的に対応すること、エロスも角柱によって表現されたことを知った。また棒=生命樹の対応は、カーニヴァル的アルレッキーノの場合にもある程度いい得ることを知っている。

道化やトリックスターは、秩序という停滞を壊すことで、生命に、生成につながっている。
生きるということは変化することだ。変わらないということは静物にとって死でしかない。秩序にばかり身を委ねようとするのは、死に身を委ねていると変わらない。
そのことに対して生きる身体が違和感を感じて居心地悪くなるのは当たり前だ。多くの人が自分を自分でも死の閉塞感のなかに閉じ込めて、その息苦しさをまわりのせいにしている

生きるためのトリックスター性

生きるためには、ここまで書いてきたようなトリックスター性が本来欠かせないはずなのだ。
しかし、僕らの多くがそれを失っていて、みずからの安全圏を離れて未知の領域に踏み込んでいく身軽さを持たずにいる。未知のものを怖れて、外の世界に好奇心をもてないという状態はやばすぎる。

だからこそ、1つ前の「新しい研究の場」で書いたように、誰もが学びを楽しみ、非職業的な研究者になれるとよいなと思っている。

もっとみんながみんな、ある意味、研究者になるといいのだと思ってる。誰もが学ぶことを楽しみ、学ぶ人が増えるといい。

学ぶということは知らないことに相対するということだ。それは自分のいる場所の外に用意された外の既知を手に入れることではない。学びとはもっと創造的なことだ。未知と向き合うことで、新しい知をつくりあげていくトリックだと思う。そういう創造的な手品が本来の研究という活動なのではないか。

学ぶということも、研究するということも、秩序を探す活動ではない。むしろ、混沌のなかで遊び続ける活動だと思う。その過程で新しい秩序だった説明が見つかったとしても、それは学びや研究のゴールでははないだろう。
新たな発見は新たな謎への入口であることが多い。学びや研究を楽しめる人は、その次々、連鎖的にあらわれる謎、混沌にむしろ喜びを感じるはずだ。秩序のなかで安心するなんていう牢獄を求めたりはしない。

2つの世界、天界と人間界は互いにまったく異なったもの――生と死、昼と夜のように異なるもの――として描かれることがある。英雄は、私たちの知る世界から暗黒の世界へと旅立つ。

キャンベルが描く英雄像は、真の学ぶ者、研究者の姿なのだろうと僕は思う。



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