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楽しさの自給自足

自粛期間中、あまりストレスを感じず過ごせた理由がひとつある。

それはそもそも外食をそんなに嬉しいと思わないことだ。だから自身期間中、外食ができない日々が続いても、もともとそういう生活だったから「いつもやってたことができない」というストレスの要因にはならなかった。

家で自分たちで作って食べるほうが美味しいと思ってるから、そんなに外食したいと思わない。
もちろん外で食べて美味しいものもたくさんある。
でも、作ること自体楽しかったりもするので、外食よりも家で作って食べたくなる。

楽しさ嬉しさ

僕が自分でそれを感じる対象と日常的なものが多い。この食事を家で作って食べる楽しさも含めて。
仕事をするのも基本的に楽しいと思ってるし、このnoteを書くのも楽しい。
好きな本を読めるのも、読んだ結果についてまとめてみるのも楽しい。

そして、そういうこと、それぞれをやっているとき、嬉しく思う。

楽しさの自給自足

この楽しさとか嬉しさが僕には大事で、楽しさとか嬉しさを感じにくいものは、あまりやろうと思わなかったりする。

なんか質素だなと思った。

この質素という言葉の選択が適切かはわからないけど、いろんなものを外に求めるというより、どちらかというと楽しさを自分で作っているように思う点で、いろいろおねだりしたりする贅沢さはない。

言い方を変えると、自分で何かをやること自体が楽しいのか。
とにかく楽しさの自給自足な感じがわりと質素だ。

もちろん、食材も、読む本も、仕事の対象となるさまざまな課題も、外から手に入れてるので、完全な自給自足かというと厳密にはそうではないだろう。
けれど、そうした素材を元に、楽しさにつながる行為やものを生み出してるのは僕自身で、やっぱりその楽しさを作ることをやること自体が楽しいし嬉しいんだろうなと思う。

そのあたりのシンプルさが質素だなと思った理由。
楽しむために贅沢なものを外から求めるつもりは僕にはそんなにないんだろうなとあらためて感じる。

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外にあんまり期待しない

自給自足という言葉を使ってみたのは、楽しむことや、自分の人生を満足できるようにすることを、あんまり外に期待しすぎちゃいけないなと思うから。

自分より外側にそんなことを期待しないほうがいいし、ましてやそれが得られないのを自分以外の外の誰かや他人のせいにしないほうがいい。
それはまったくもってお門違いだ。
やりたいことがあれば、自分でやれるようにすればいい(別に、自分ひとりでという意味ではないが、自分が主体的にという意味ではある)。

質素に、すこし背伸びくらいの、身の丈にあったことを楽しめればいいかと僕は思っている。

だから、仕事をする上でも、働き方とか、報酬とかに不満をもったり、もっと良くしたいとか考えた経験って、人生のなかでそんなにない。

給与交渉なんて、人生のうちでしたことはほぼないに近い。それは給与が良いからではなく、そこにそんなに期待する気にならないから。

働き方が話題になることも多いけど、これもいままで不満を感じた経験がほぼない。
もちろん恵まれていたんだろうなと思うし、ストレスを感じたりはあったけど、それについてもそのことにあれこれ不満をいうより、自分で工夫して良くできる部分で勝手に対応してきた。

働き方にしろ、報酬にしろ、そういう外部的な条件に不満をもったり、あれこれ考えたりしても、別に楽しくはならないし満足したりもしないというのが理由だ。

それなら自分がやる仕事をどうしたら興味あるもの、楽しいものにできるかを工夫することに時間を割きたいし、実際、そういう仕事をやることに時間も頭も使いたい。

ようは、ここでも自給自足の発想だ。

そして、これまである程度、そういう楽しい方向にいつでも前向きに進むことが多かったから、だいたい仕事は楽しいことが多い(それはストレスがないというのとは別)。

こういうことを地味にちゃんと楽しめるのが、質素だなと思ったりする。

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質素だけど、倹約的ではない

でも、こういう質素さって大事じゃない?
いい仕事をすることを楽しめるように自分ですることに頭や時間を使わず、報酬とか、働き方とかに不満ばかり言うのって、考え方が貧しくないだろうか?と感じる(もちろん、これは薄給でブラックな働き方を肯定するような話ではまったくない)。

報酬とか、働き方よりも、楽しく挑める仕事がどうかの方が僕にとっては大事な条件だ。

それは仕事以外でも同じで、外から評価されているものとかよりも、自分でいいなと思えるもののほうを大事にしたい。自分が興味をもてたり、楽しめたり、チャレンジしたいと思えるものと思うと、いわゆる外食にしろエンターテイメントにしろ、おもてなし系のものにはそれほど食指が動かない

家でごはん食べたり、本を読んだりの方が楽しい。
まあ、この状況じゃなかったら旅行とかも好きなので、別に極端なインドア派ではまったくないし、倹約的でもない。

そう、広い意味で貧しいのはいやだなと思うから倹約的な発想はない。
ケチケチして、外出しないとかではなく、家で自分で(も)作って食べる方が好きだからそうしてるだけだ。

給与だって交渉しないだけで払ってくれるなら喜んでもらうし、働き方だってよりよい働き方なら拒むことなんてするわけない。
ただ、それを勝ちとるためにあんまり労力を使う気にはなれないだけだ。それは他に時間や頭を使いたいからだ。

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楽しさのサーキュラーエコノミー

まあ、僕のこの選択が本当に質素かどうかは正直どちらでもよい。

ただ、僕がここで言いたかったのは、他人やまわりを気にしすぎて、自分が何を楽しいと思うか、嬉しく感じるかをお座なりにしすぎてはいないだろうか?ということだ。

やたらと他人のことを叩いたり、文句を言ったりするのは、結局、自分で自分の楽しいことができていなかったり、そもそもなにが楽しいかわからなかったりするからではないだろうかと思う。

また、手っ取り早く報酬を働く目的と取り違えたり、仕事をしててあらゆることを楽しめないから働き方に問題の所在をすり替えたりしてしまっているのも、楽しさの自給自足がうまく回ってないからだったりするのではないかと思うのだ。

自分で楽しい仕事をつくりだせるから、また、面白そうな仕事の種がまわってきて、その種を楽しい仕事へと成長させていくことができる。
もちろん、そのためには仕事をちゃんと自分で作れて回せる必要がある(とうぜん、これもひとりで、という意味ではない)。
ただ、それができれば楽しさのサーキュラーエコノミーがまわりだし、持続可能な楽しさを手に入れられるはずだ。

もちろん、ただ働きなんてしたくないし、ストレスだらけの職場でなんかこれっぽっちも働く気はない。
ただ、ここで書いているのは、そもそも、そういう話ではない。
そんなことより、客観的な目で見ても楽しめる仕事ができることこそ、職場選びの大事な条件だと思ってるという話だ。

それが可能なら楽しさのサーキュラーエコノミーを回し続けることができる。
そうなれば不平不満などそんなに多くはなくなるんじゃないだろうか。

楽しさも自給自足なら、その反対の不平不満だって実際は自給自足なのだろう。


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