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学びの願望

願望というのはなかなか厄介だ。

痩せたい、儲けたい、認められたい。
これらは間違いなく願望だ。
けれど、本当にこれらの願望を、その願望をもつものが叶えようと思っているかというと甚だあやしくなってくる。

痩せたいけど、儲けたいけど、認められたいけど。
そのために必要なことを、これらの願望をもつものがやるかというと、実はそうではなかったりというのはあるあるだ。

痩せたいけど痩せない、儲けたいけど儲からない、認められたいけど認められない。
そのために必要なことをやった上で思うような結果にならないということよりも、必要なことをそもそもやらなかったために願望が実現されないということの方が多いのではないか。

そのとき、願望とはいったい何だろうか?となる。
叶えようとしない願望とはいったい願望といっていいのだろうか、と。
少なくとも大した願望ではなさそうだ。
宝くじが当たったらいいなと同じくらいでしか。

学びの願望

学びにも同じようなところはある。
なかなか学びにならないという面では同じようなことが起こっている。

ただし、学びの場合、上で挙げたような、痩せたいとか儲けたいとか認められたいとかとは違って、学びたいという願望が明確にある人ばかりじゃないし、逆にその願望が明確でなく強くなくても、なんだかんだちょっとは学びたいとほとんどの人が思っているんじゃないかとも思う。
そして、実際、多くの人が何かを日々学んでいるんじゃないか? 贅沢しなければ、学びの機会は日常にいくらでもある。

しかし、学びがあれば良いというものではない。
学びがあっても、まだ足りないってことだってある。

でも「足りない」って自分で思えるか?
「足りない」って思えなくては、もっと「学びたい」とはならない。
学びの願望とはならない。

「学びたい」と口では言う人はいるだろう。

でも、本当に学べるくらいに学びたいと思っているかは別の話だ。

先に書いたように、願望が実現するためには、実現のために必要なことをやれるかどうかが関わってくるのだから。

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学びたいという願望

ただし、学びの場合、この「実現のために必要なことをやれるかどうか」というところが曲者だろう。

ちゃんと学べたと思えるくらいになるのに必要なことって何かって想像するのはむずかしい。
単に知識の詰め込みなら詰め込む量をある程度はじめに見積もることもできそうだけど、何かができるようになる系の学びは学ぶことの量と結果としての学びは必ずしも単純な関係にはないだろうから。

いやいや、そもそもそんな目的論的な学びばっかりじゃないだろうと僕なんか思う。
合目的な学びばかりが学びじゃなくて、結果何になるかなんてことを考えずにとにかくいろいろ学びたいっていう、そういう願望だってあると思う。
それは、なんとなく学んでみたいという結果に結びつかない思いではなくて、ちゃんと実際の学びに結びつくようなそういう学びの願望。

そういう学びの願望がある人は、ちゃんと自分で学ぶくせがついていたりするのだと思う。
そういう意味で、そういう人は学ぶために必要なことがいつのまにか身についていて、黙っていても、学ぶ姿勢が備わっている。
言われなくても自習できる人だ。
いや、自習以外の学びなんてほんとはない。

学びのくせとはようは自習のくせだ。
時間とか場所とか状況とかに縛られることなく、勝手に自分のペースで自習することがくせづいてるかどうか?

そのことは学ぶ姿勢、学ぶくせが身についてない人をみたときに逆に気づく。

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願望による学び

必要性という外部からの力によって学ぶより、内なる「学びたい」という願望から学ぶほうが、結果につながりやすいのだと思う。

問題を出されなければ解答を考えられなかったり、
期限を決められなければ調べものができなかったり、
課題を明確にしてもらえなければ知恵を絞れなかったり。
そんなじゃないんだと思う、学びというものは。

誰かにやらされて、
何かの必要に迫られて、
社会の常識にただ付き合わされて。
そんな理由でやる学びを学びだなんて思う必要はない。

学ぶことが
自分の喜びになること、
幸せになること、
楽しみになること。

そういう学びにもっと願望をもてればいい

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説明家はいらない

そういう願望ドリブンの学びを邪魔する教育なんていらない。
願望ドリブンの学びができない人が学びの場でつまらなそうにしていてるから、学びたい人が増えないのだと思う。

ジャック・ランシエールの『無知な教師』にこんな一文がある。

たとえば一冊の書物が生徒の手もとにあるとする。この書物は生徒にある科目を理解させるための一連の論証でできている。ところが、今度はその書物を説明するために話す教師がでてくる。そして彼は書物の論証を説明するための一連の論証を繰り広げる。だがこの書物にはなぜそのような助けが必要なのだろう。説明家に金銭を払う代わりに、一家の父親がただ子供に書物を与えるだけではだめなのだろうか。

自習こそ学びであるのに、その自習を邪魔して、外から一方的に説明してあげようとするから学べなくなる。他人の説明が邪魔になって、自分で説明をつくるという能力を身につける機会を奪われる。
なぜ、そんな説明家が必要なのか。

説明は理解する能力がないことを直すために必要なのではない。反対に、この無能力こそが、説明家の世界観を構造化する虚構なのだ。無能な者を必要とするのは説明家であってその逆ではない。無能な者を無能な者として作り上げるのは説明家である。何かを誰かに説明するとは、まず第一にその人に向かって、あなたは自分ではそれを理解できないのだと示すことだ。説明は教育者の行為である以前に、教育学の神話、すなわち学識豊かな者と無知な者、成熟した者と未熟な者、有能な者と無能な者、知的な者とばかな者に分かれた世界という寓話である。

一律の説明=正解を前提にするから、学びの自由が失われてしまう。多様な説明可能性が排除されてしまう。人がそれぞれが自分で答えを見つける工夫をする楽しさを奪われ、学びとはなんともつまらない、抜群ゲームのように感じられてしてしまうかもしれない。

学識豊かな者と無知の者がいるわけではない。
異なる知、異なる説明をもった者がそれぞれいるだけだ。
その多様性を壊すような独裁的な説明者は学びの願望を失わせるだけだろう。

解放することなく教える者は愚鈍化する。解放する者は、解放される者が何を学ばなければならないのかに心を砕く必要はない。彼は自分が学びたいものを学ぶだろうし、もしかしたら何も学ばないかもしれない。しかし、人間の技術によるすべての生産活動のなかには同一の知性がはたらいているが故に自分は学ぶことができるということ、そして、ひとは常に他人の言うことを理解できるということを、彼は知るだろう。

教育のあり方は根本的に変わってほしい。
もっと自習の時間をこそ増やしてほしい。

もっとみんなが自習のくせをつけた社会になってほしいと切に願う。


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