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なるほどの回数

あ、この人、学びがはやいなと思える人がいる。
それはきっと必ずしも、絶対的な学びのはやさ/おそさではなくて、その時の状況(何を学べる環境にあるか、学ぶきっかけを与えてくれる相手との相性、とか)との関係性においてもあるとは思うのだけど、学びのはやさに必要なのは、学ぶ本人が問題意識をもてているかどうかだと思う。簡単に言えば、学ぶ準備ができているかだと思う。

何かを学ぶためには、その準備として、何を学ぶのか?のおおよそのターゲティングができている必要がある。仮説ベースで問いが立てられているかどうかだ。
問いが立てられていれば、外から回答らしきものが与えられたときに、それを自分が探していた問いの答えだと気づくことができる。あ、なるほど!と自分で答えに気づくことができる。
自分で答えに気づく。だから、「学び」。教えてもらうという受け身では、ほしいものなど見つからない。

自分のなかで問題意識をもてていないと、つまり、自分が何をわかる必要があるかの検討をつけていないと、外からヒントになる情報を与えられても「なるほど」とならない。ヒントを素通りしてしまうことだって、たくさんある。

最近、あ、この人は学びがはやいなと思える人は、やっぱり、この「なるほど」の回数が多い。頻度が高い。
しかも、そういう人に共通するのは学ぶこと、なるほどを見つけることを楽しんでいることだ。逆にいえば、自分を自分が楽しめる状況におくことができない人は、学びの機会をえにくいし、当然、楽しむ機会も逸してしまう。

ここで思うのは、学びにしても、楽しみを得ることにしても、自分をすこしチャレンジが必要な状況におくことができるかどうかが1つの岐路だということだ。チャレンジできない人には学びは当然ないし、楽しみからも遠ざかるのだろうと。

人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。

エルネスト・グラッシの『形象の力』から僕の好きな一節を引用。
この不気味さに立ち向かえるかどうか。わかるということより、わかっていないことにどれだけ価値を感じられるか?

自分の安全圏、快適圏内に閉じこもってチャレンジしない理由、やらない理由をもっとらしく言うことが、何か自分の進む道を計画的にフォーカスすることだと思ってたら大きな勘違いだ。
そんな予定調和の場所に学びも楽しみもない。

「やりたいことをやる」ということの意味を間違えてはいけない。専門性などは頭で決めるものではなく、行動の結果ついてくれば良いものだと思う。特にこの変化がはやく、いろんな領域間の融合が当たり前になっている時代においては。

自分のいまいる場所の外を志向しなければ、学びも楽しみもないと思う。

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