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新しい研究の場

まだ思い浮かんでいない、自分がこれからやりたいこと・実際したいことを見つける想像力も、その源泉となるのは知識の蓄積なのだと思う。

自分の頭のなかに十分に多様で、それなりの量のある知のアーカイブがなければ大した想像はできない。大した想像じゃなければ、それにワクワクするのはむずかしく、あ、これやりたいとはならないだろう。

自分の人生、ワクワクしたものにするためにも、やっぱり知の蓄積というのは欠かせない。

学ぶことは楽しい

知らなかったことを知る。知るということは何か別の知らないことに気づくだったりする。
リサーチをする、わかろうとすることも同じで、調べれば調べるほど、わかろうとすればするほど、わからないことが増えていく。
それは苦ではなく、知らないということがまだあることに気づく面白さというのがある。すべて知ってしまっているかのような閉塞した勘違いから、その気づきは解放してくれて、どこまでも開けた可能性へと導いてくれる。限界はない

だからこそ、学ぶということはとても楽しい、と、僕なんかは日々実感している。
できれば仕事も忘れて、ずっと調べものをしていたいというくらいに思う。
仕事でもいろいろ調べたり、調べたりしたことをまとめてみて、そこから何か新しい発見を得たりするのが好きだ。
いろんな分野の研究者の話を聞いたり、アーティストの人と話をしたりが好きだ。
そこにはいろんな学びがあるから。学んでいる人と交わり、学びを交差させることはとても楽しいと感じる。そこから日常の限界が壊れていくから。

学ぶ人たちが増えるといい

だから学ぶ人たちが増えるといいと思う。
そして、学ぶ人たちが集い、たがいに話をして、そこから生まれた新しい発見やアイデアを何か形にしたりできる場があるといいなと思う。

しばらく前から新しいカタチの研究の場がつくれるといいなと思っているのは、研究そのものをする研究室というよりも、そうしたさまざまな研究が交差する場のイメージだ。

そして、その研究は科学の研究、工学の研究などだけでなく、人文学的研究や社会科学の研究、芸術や文学なども自由に交差する場だと面白そうだと思ってる。
子別の研究がそこで行われるというより、複数の研究が交わることで新たな学びの方向性が裂け目からはみ出てくるようなイメージだ。

そういう場が街のあちこちでカフェのような場所が具体的な場となって成立するようになるといい。
それが成り立つためには、もっとみんながみんな、ある意味、研究者になるといいのだと思ってる。誰もが学ぶことを楽しみ、学ぶ人が増えるといい

発明の方法

理系だの文系だのはこれからの研究においてはまったく関係ないなと思う。
創造的であり、限界に騙されず、新たな学びの可能性を次々と切り拓ける学びの姿勢があれば、数学的に思考するか詩的に思考するかの違いなんてあってないようなものた。

アメリカの美術史家のワイリー・サイファーは『文学とテクノロジー』で、こんなことを書いている。長いけど、引用してみたい。

誰しもほっとしたことだが、2つの文化をめぐる論争がやっとしずまった。そもそもこの論争は、双方ともが間違いをおかすところからはじまったのである。たとえば、19世紀後期およびその後において、詩人も小説家も画家も、しばしば科学者と同じくらいに一切を方法に賭けていたという一点は、のっけから見おとされていたのである。あの唯美的運動も実は方法に深くとらわれていたのであって、ウォルター・ペイターの芸術の香り高い文章でも、そのあるものは一種の文学的技術主義といっていいものであり、それは最後の語句や抑揚にいたるまで計算しつくされ、どんなにこまかい細部でも、すみずみまで巧緻に工夫されている。まことに矛盾することではあるが、最も文学的な文学がますます増大する技術的文化に反抗するにあたって自ら用いた手段は、技術の洗練ということだったのである。一方、科学はそれ自体一定の方法を正確かつ厳密に適用し、活用することの謂であった。19世紀について語りながら、ホワイトヘッドは「この世紀をそれ以前の世紀と分ける特有で新しいものはなにかといえば、それはテクノロジーである」と言っている。19世紀の偉大な発明は、「発明の方法の発明」ということにほかならなかった。そして同じ時代の芸術もこの意味では発明的だったのであり、いずれも方法を発明することを求めたという点において違いはない。

「発明の方法の発明」としてのテクノロジーによって特徴づけられた19世期においては、対立するかのような文学も、科学も、同じくらい科学技術というせまい範囲に限定されない広い意味での発明の方法としてのテクノロジーに、強く絡みとられていたのだという、この指摘は画期的だと、当時、この本を読んだとき思った。
19世期においては、文学者も、科学者も同様に、テクノロジーによる創造的な研究をまさに実権的かつ実践的に推進していたのだということがサイファーの指摘によりわかった。

しかし、その19世期の実験的かつ実践的な態度は20世紀に入る頃にはすっかり忘れられて骨抜きとなり、発見をするということよりも、発明された結果としての品だけしか見なくなり、その発明に従属することが当然であるかよように、人々から学ぶ、研究する姿勢が失われていった。
そこで、文学は文学、科学は科学という風に矮小な形で固定化されたように、テクノロジーもまた広い意味での「発明の方法」であることは忘れ去られ、単なる科学技術という限界の箱のなかに閉じ込められた。

開かれた学びの場で、学ぶ人を増やす

こういう事態がまったくもって嘆かわしく感じる。
学ぼうとする人が減っていった。残った学ぼうとする人も狭い分野に閉じこもるような事態となった。
その辺りを、機に、ディシプリンという籠に閉じ込められた小鳥のような研究姿勢がデフォルトになってしまったのではないか。

学びを個々人それぞれの喜びとして取り戻せるようにするためには、もっと開かれた学の場があって良いように思う。
べつに、これまでの大学や研究機関がダメだという話ではない。僕がいろんな研究者の人などと話す機会をもらえて楽しい時間をもらえたりするのは、間違いなく、そういう既存の研究の場があるからだ。
だから、そういう既存の研究の場、学びの場はそのままでいい。

いま必要だと思うのはだから、いまの研究者のように大学や研究機関で学べている人以外の人たちが、研究をし学ぶことができるようになる場だ。
僕も含めてもっと学びの機会、研究の機会を欲してる人たちが集ってその機会を得るような場所、仕組みなのではないか。

そういう場をつくりたいなと思う。
もっと学びを楽しむ人が増え、そういう人たちの話をしてみたいので、この話はもっと具体的に考えてみたい。


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