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「神」なき世界の人々 『ピダハン』読書記録

ふだんはまとめて読書記録をつけているけれど、先月読んだこの本は圧倒的におもしろかったので、一冊まるごとふりかえっておく。
ふだんの読書記録はこちら。

そもそもピダハンとは

この本–––というより、アマゾンに暮らすピダハン族という人々のことは、以前から名前だけ知っていた。

NHKにいた国分さんという人が書いた『ヤノマミ』という本があるが、てっきりこの本と同じようにドキュメンタリー要素の強い本なのかと思っていた。(「ヤノマミ」もすごくいい本)

そんなことはなかった。
『ピダハン』は筆者のフィールドでの経験を題材に、言語と文化の関係を紐解いた研究書である。数ヶ月前に買って積んであったのだけど、読み始めたら止まらなくなった。

著者は、キリスト教の布教のために特別な訓練をうけ、アマゾンの密林に派遣された宣教師のダニエル・エヴェレット。ピダハン族との共同生活をきっかけに、のちにピダハン語研究の権威となる人だ。

ピダハンは、ブラジル・アマゾン川流域の限られた地域に住み、大昔とほとんど変わらない生活をしている一語族。話者の数は、この本(日本語版は2012年出版)では400-500人とされている。世界に6000以上ある言語の中でも消滅しかけている言語のひとつで、原著出版当時から10年以上経った今では話者はもっと少ないと思われる。

ざっくりの感想

専門的な内容の本だけど、専門知識なしでもおもしろい。その理由は、言語を文法や発音の規則性からではなく、文化や生活との相互関係からとらえているからだと思う。

前述のとおり筆者はキリスト教の宣教師である。彼がピダハン族に出会った当初の目的は、ピダハンにキリスト教の教えを広め、先進国から見れば「素朴で貧しい存在」である彼らに、魂の救済を与えること。そのためには、神のことばである聖書を彼らの日常語であるピダハン語に訳す必要があり、彼らの言語を習得するため筆者は単身でピダハン族の村に住むことになる。

前に読んだ『翻訳のストラテジー』には、世界で一番訳されている本は聖書という話があった。西欧人が未知の言語を「発見」すると、すぐに現地の言葉で聖書を作ろうとするという流れが、現代でも起こることに驚く。

エヴェレットは数ヶ月におよぶ滞在期間に(途中から妻子もアメリカから呼び寄せている)、村の人々と簡単なコミュニケーションを取れるようになり、徐々にアマゾンでの生活に身をならしていく。しかし、キリスト教の概念と教えを彼らに理解させ、回心させることは、結果としてできなかった。

実は、彼はその地で最初の宣教師ではない。それまで多くのキリスト者が布教に挑戦しながら、最後にはすべて失敗に終わった理由は、一つにはピダハンにおいては言語と文化は不可分であり、言語だけを切り離して学習し、それを通じて正確な意思疎通を図ることは不可能であるからだ
そして、これまでの宣教師たちは、「彼ら自身の言語に神のことばを翻訳すれば、回心させることも可能だ」という誤った考え方から抜け出せなかったということになる。

シンプルな言語構造

彼らの会話は、日本語や英語と比べると一見シンプルに見える。語順は英語とおなじ<S+V+O>が基本で、一文に含まれる単語の数も極端に少ない。多くの場合、ピダハン語の文章は以下のようなものだ。

イプウーギが兄弟の呼ぶ声を聞いた。
(中略)イプウーギが行った。行って、見よ。
彼が言った、イプウーギ。それはジャガーだ。
彼が言った、イプウーギ。おまえの弓を投げろ。(…)
(p.191)
※ピダハン語には、通常の話し方とは別に特定の状況下で使われる話し方(「ディスコースのチャンネル」)があるという。普通の話し方では支障がある狩りの最中やお祭りなど、文脈にあわせて叫ぶように話したり、ハミングのように口ずさんだりするらしい。また上記のように、同じことを何度も話すのは、文字をもたない故に、語られた相手の記憶にできるだけ留まるようにする必要があるからである。

また発音に関しては、ピダハン語は極端に音素が少ない。音素はその言語のなかで異なる音をもつ最小の要素のこと。日本語は母音と子音あわせて20個以上の音素があるが、ピダハン語の場合は全部で10個くらいしかない。

単語を構成する音素が極めて少なく、かつ一文に含まれる単語も少ない、という状況で意味の通る文章を成立させるために、必然的に単語じたいが長くなる。
特に面白いなと思ったのは単語のつくりで、たとえばピダハン語の動詞には接尾辞が16種類もある。そのため、それぞれの接尾辞のあり・なしによって、理論上は一つの動詞につき65536通り(=2の16乗)の形が考えられるという。

例を挙げると、「ジョーは釣りに行ったのかな」という質問に対する答えとして、「そうだよ、少なくとも行ったと聞いたよ」という伝聞の意味、「そうだよ、行くところを見たから知ってるよ」という観察の意味、「そうだよ、少なくともボートがなくなってるから行ったと思うよ」という推測の意味を、動詞の形だけで(単語ひとつで!)あらわせるという。「ボートがなくなってるから(行った)はず」という意味が内包される動詞の形があるとは…。毎日ボートに乗って人々が行ったり来たりしている世界でないと成り立たない言葉だなぁと思う。

そしてもう一つの文法上の特性として、リカージョン(再帰)がないということが挙げられる。リカージョンは、たとえば I said that he was coming. という文章に見られるような、「文章の中に別の文章が埋め込まれている」状況を示す(例ではhe was comingが埋め込まれている)。この構造を使うことによって、話者は無限に長い文章を作り出すことができると考えられている。
多くの言語で同じような構造がみられるため、人間の言語に等しく共通する言語法則(自然文法)であるという見方が、チョムスキーを始めとする言語学の権威による定説となっていた。

しかしピダハンにはその構造は存在しない。それまでの言語学にとって「据わりの悪い事実」を、彼らは提示したことになる。そのため、この仮説は現代言語学の世界で大きな論争を呼ぶことになったという。
ピダハン語にリカージョンが存在しない理由については、このあとに見出されたある原則から仮説が提示される。

「2」「赤色」「右」をあらわす言葉がない

村人と話しているうちに、筆者は自分たちの世界では当たり前の概念が、ピダハン語には存在しないことに気づく。

たとえば、ピダハン語には「2」以上の数字をあらわす言葉がない
身の回りのものの多寡は、「一つ」と「(相対的に多い・大きい)量」に該当する言葉とともに表現される。これはピダハン族が数を数えられないからというより、その物体が一つしかないのか、それより多くあるのかが判断できればピダハン的に生活に支障はないからだ、と私は理解した。

また色をあらわす言葉も存在せず、ピダハンの世界では色は「あれは血みたいだ」「まだ熟していない(=緑色の意)」というふうに表現される。

「右」と「左」という言葉もない。方向は川やジャングルなどの地形を用いてあらわされる(「川の上のほう」)。

以上のような事柄からエヴェレットは、ピダハン族はものを抽象化させて形式にはめこむことをしないという仮説に至る。
「赤色」や「右」といった言葉は、「赤色」ときいて日本人がある種の色を想像できることからわかるように、あるカテゴリに対する概念である。数についても同様で、彼は以下のように考察している。

数とは、直接性を越えて事物を一般化するカテゴリーであり、使うことによってさらなる一般化をもたらし、多くの場合体験の直接性を損なう
(p.274)

ここに出てくる「体験の直接性」が本書のキーワードとなる。

創世神話を持たない部族

筆者が彼らの世界に入っていく中で、もう一つの重要な事実に行き当たる。他の地域の民族では当たり前に存在する歴史や神話というものを、彼らが一切持っていないことである。

多くの民族では、一族の起源に関する話=創世神話というものが伝わっていて、それが彼らの部族としてのアイデンティティを強く支えていることが多い。文字を有していればその伝承はよりスムーズに行えるし、たとえ文字を持っていなかったとしても、口承やトーテムなどの物体を通じて代々伝えられる。

神道、仏教や(神ではないけど)清少納言や織田信長といった人物が登場する歴史というものが、もし自分の認知する世界になかったとしたら。たとえば「日本人としてのアイデンティティ」はどう言葉にできるのだろう、と思う。

直接体験の原則

前述したような村人たちの言行を日々観察する中で、エヴェレットは次のような仮説に達する。
ピダハンは、直接的に体験していない出来事を語らない。すなわち「直接体験の原則」という仮説だ。

創世神話がない理由も、ここにある。
自分やまわりの人間が遭遇したことのない出来事については語らない。「神」を名乗る存在には会ったことがないから、その概念をあらわす言葉は存在しない。ピダハンの始原も、自分が現場に居合わせていないから語らない。当然、そうした話が先祖代々語り継がれることもない。
自分や、今生きているまわりの人間が直接体験したことだけが、彼らにとっての現実であり事実となる

歴代のキリスト教宣教師による教えが受け容れられなかったのも、これが理由とみられる。神や、イエス・キリストという「お話の中だけの存在」の言葉は、彼らにとっては現実とはなり得ない。

ただし、ピダハンの世界にも霊的存在はある。しかしそれはピダハン本人が「直接見た」場合のみに語られる。寝るときに見る夢も、そういう意味では本人が見たものとみなされるため、ピダハン同士の会話では事実として語られるし、登場する精霊たちも実在すると考えられている。(エヴェレット一家には感知できないが、ピダハンの人々には「視えて」いるものの存在も、冒頭で示唆される。)

先述した、ピダハン語でリカージョン(再帰)が起こらない理由もこの原則の影響とみられている。筆者は、直接体験を重んじるピダハンの文化が、言葉と文法に制約を課しているのではないかと考える。
リカージョンは「誰々が〜〜ということを話した」という構造を可能にし、それはしばしば、他の民族では神話や神託を語る場面で使われる構造だからなのかな、と私は思った。

あらわす言葉がないから、それを語る文化が存在しないのか、文化的に語られないことになっているから、対応する言葉がないのか、に対しては議論のわかれるところのようだ。言語と文化は「にわとりと卵」の関係にあるようにみえる。

概念をもつことは、賢くて幸せなことなのか

直接体験した物事だけで会話をする人々のことを知ると、自分がふだん語っていることや身の回りの世界で、いかに概念が占めている割合が多いかに気づく。仕事でも8割がた概念でしゃべっているような気さえしてくる。
概念は人間が思考を深めるときには不可欠であり、したがって人間の幸福を生み出すのに大いに役立ってきたけれど、同時に人間を不幸にもすると思う。

諍いや戦争など人間同士の対立は、多くの場合宗教やカネといった「概念」でしかないものからうまれるし、病気も名付けなければ「どこかの不調」である。

その点、ピダハンの人々はそうした種々の空想上の産物に囚われず、のびのびと目の前の生を享受しているように見える。
もちろん、アマゾンには人を襲うジャガーなどの獣もいるし、ピダハン人の多くは蚊が媒介するマラリアで命を落とす。筆者も滞在中はワニやタランチュラに遭遇したり、丸太ほどの大きさのアナコンダに川で襲われかけたり、家族がマラリアで死にかけたり、常に危険と隣り合わせの生活をしていた。ピダハンは平均寿命は世界的にみても低い。
しかし長さではなく質を考えたときに、よく聞く「今ここ思考」や「半径5メートルの幸せ」といった考え方を、よりポジティブに、自然に実践しているのは彼らのほうではないかという気がする。

ピダハンは深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。そういう彼らは原始的な存在だろうか?人類学ではそのように考え、だからこそピダハンが神や世界、創世をどのように見ているか懸命に探ろうとする。
(p.378)

このようなピダハン族の世界観に身を浸すなかで、筆者はなんと、キリスト教すら捨ててしまう。宣教師としての任務から離れ、ピダハンの研究に身を投じたのである。最初の接触から30年間にわたる研究の総括として、一般人にもわかるように書いたのが、この『ピダハン』という本だ。
キリストや、天国・地獄の概念がなくとも(そしてそれは他のあらゆる宗教も同列だ)、日々目の前にあらわれる幸せや危険に対する感覚のまま生きる彼らの姿を間近に見たことで、福音者というある種「概念的な」役目から自分を解放せざるをえなかったのだと、思う。

もう一つのエピソードとして、幼少期に父とともにピダハン世界の中で育ったエヴェレットの長男ケイレブ・エヴェレットも、のちに人類学と言語学の研究者となり、『数の発明』という本を書いている。こちらもものすごくおもしろそうなので気になる…

おわりに:映画「メッセージ」との類似性

「メッセージ」という映画がある。地球上に突然あらわれた宇宙人との交感を描く作品だが、「ピダハン」を読みながらこの映画のことをふと思い出した。

ピダハン族を宇宙人になぞらえる意図はない。ピダハンの言語と世界観を想像するとき、そして自分の言語世界の限界を感じるときに、言語が思考を規定するという「メッセージ」の主題が立ち上がってきたからだ(メッセージの時は、思考を規定しているように見えたのは言語というより文字だったけど)。言語学では、サピア=ウォーフ仮説といわれる考えだ。

この書評だって、本のテキストから私が受け取ったいくつかの概念を再度表現したものにすぎない。
まちがった解釈はしていないつもりだけど、ピダハンたちの世界を味わうために、言語と文化に興味のある人にはぜひ、本書を読んでほしいと思う。
それこそが直接体験になるのだから。






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