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2020年の読書記録 January - March

4月に入ってしまった上に、文字数が膨大に…。備忘録なのでご勘弁ください。
今季はアンナ・カレーニナをきっかけに「文学」観がだいぶ変わりました。こんなに面白かったのか!!という今さらすぎる再発見でした…次は何を読もうかな。

1. 図書室(岸政彦)

幼少期に時々想像していたのが「自分以外の人や物事は全部、この世界を作ったどこかの誰かが動かしていて、自分だけが意思をもって生きている」という世界だった。
幼稚な自我の為せる業だとは思うが、その世界を想像して胸中に湧いてくるのは、少しの気楽さと大きな寂しさであった。そういう、他人があっての自分の人生というもののほろにがさを感じる一冊だなと思った。
岸さんの作品についてはこれまで社会学方面の著作ばかり読んできたが、とあるご縁でこの本に出会った。
今すれちがうあの人もこの人も、過去があって故に今この状態があり、そして(長いか短いか誰もわからないけど)この先があるのだということ、いずれ自分のそれと相手のそれがどこかでまた交差するかもしれないこと。その偶然じたいが持つ、差し込んでくる陽の光のようなあたたかさにじんわりとする。『図書室』『給水塔』どちらも著者の生きた文章がゆっくりと歩を進めるかのように続く。(ただあまりにも日常の気配が濃厚で、そのまま映画にしたりとかはなんだか難しそう…見てみたいけど。それでもこの陽だまりを、例えばことばを持たない小さい子にも言葉で伝えられたらいいなと思う。)

2. プルーストとイカ(メアリアン・ウルフ)

副題「読書は脳をどのように変えるのか?」
脳が読字というスキルをいかに獲得していくかを、古代人類による文字の発明から現代のディスレクシア研究までを取り込んで描いた一冊。専門的な話も多いが非常に読みやすく、読書行為や本を読んでいる自分を、少し上のレイヤーから見下ろしているような感覚で読める。おもしろい感覚。
人間の遺伝子や脳の組織の中で“読字機能”を固有に司るものはなく、生まれた人間は各自の脳内で独自に「文字を読むためのシステム」を構築するという。ディスレクシアは特定の遺伝子や脳構造の欠陥に寄るものではなくて、様々な要因により視覚やイメージの接続を行う脳組織に異変や遅延が生じる結果としてあらわれたもの。言語を司る左脳は読字において右脳より優位に立つが、なんらかの原因によりディスレクシアとされる人々(エジソンやダヴィンチ、アインシュタインもそう)では右脳が特異に発達しており、それが非常に大きなクリエイティビティを生み出している可能性があること。
興味深い話はたくさんあったが、ソクラテスが生涯にわたり文章を書かなかった理由が、思いがけず印象に残った。情報処理技術が自らをも拡張させていくこれからの世界で、人間の脳はどんな変化を目の当たりにしていくのだろうか。
読みながら、幼いころ母に絵本を読んでもらった時のことや、まだ小さかった弟にイソップ物語を読んであげた思い出がふっと蘇った(明け方だったな)。本を読むことが小さくともあたたかい思い出を作ってきたことに気づいた。読んでよかった。

3. アンナ・カレーニナ(トルストイ)

久しぶりの長編小説。
解説で、この作品は当時のロシアのあらゆる状況を描写した「総合小説」だ、と書いてあった。その言葉を聞くのは初めてだったが、確かにと思うところがあった。ものすごくドラスティックな生活史、というところか。
なぜか昔の小説は現代のそれと比べておもしろくない、という思い込みがあったが、それが完全に誤っていたことを痛感した。
近代ロシアの都市や農村で展開される貴族階級社会が舞台だが、人々が日々なにをして、なにを思いながら暮らしていたかがビビッドに見えてくる。
まず思ったのは、とにかく会話の分量が多い。社交界に生きる人たちだからかもしれないが、毎晩のように誰かの家に行き、おいしいものやお酒を飲み食いしながら延々と話している。話題も、本書の主題でもある愛や幸福から、時の政治、農業改革まで、ありとあらゆることで議論を交わしている。そしてそれはよっぽどのことがなければずっと彼らの頭の中で引き続いているようだ。
それは経済的な余裕も時間もあるからなのかもしれないけれど、では相対的に同じくらいのお金と時間があったとして、彼らと同じように人と会話し続けられるほどの知力と気力のある人が、現代にどれくらいいるのだろうと思ってしまう。
自分はそこまで無口なほうではないが、仕事でもプライベートでも、会話には終わりが明確にあるという無意識にいつも拘束されているように思う。ひとつのテーマを提起し、自分の意見を述べ、相手の意見を聞き、それに対する返答を考え、再度話し、…そういうインタラクティブ(単なるやりとりではなくて常に発展し続けるような)なディベートが、たとえ話す相手がいなくとも一人の頭の中で際限なく続いていく。そしてその流れの中に、個性とも言うべきニュアンスが滲み出していて、それもまた小説の楽しみだなと。
訳者の力がものすごいというのもあるのかもしれないけれど、一番驚嘆したのはその文章が喚起するイメージが本当に豊かで、しかも寄せては返す波のように次々と繰り出されるので、なんだか語彙や表現の世界が一まわり大きくなった気がした。あまりにも多かったのでどこが一番、というのも出せないのだけど、たとえば終わりの方のこの部分。

愛する兄が死んでいく姿を見たとき以来、リョーヴィンははじめて生と死の問題を、彼のいわゆる新しい信念を通して見るようになった。その信念とは二十歳から三十四歳までの間に知らぬ間に形成されて、少年期や思春期の信仰心とこっそり入れ替わっていたものである。彼を怯えさせたのは死よりもむしろ生であった。生命というのものの由来も目的も理由も正体もわからぬまま生きていることに、彼は怯えたのである。有機体、その破壊、物質の不滅性、エネルギー保存の法則、進歩−−こうしたものが、かつての信仰と入れ替わった言葉だった。このような言葉や、それと関連した概念は、抽象的な目的で使うには大変便利であったが、生きていくためには何も与えてくれなかった。だからリョーヴィンは、まるで暖かい毛のコートをわざわざ薄いモスリンの服に着替えて、はじめて厳寒の大気にさらされた人のような気がした。

時代も場所も言葉もまったく異なる人と、それでも共通して抱くイメージや感覚というものがあり、それこそが未知なるものへの理解と連帯のきっかけになるということを知る。リョーヴィンが文中の新しい信念を獲得する過程は、冬眠していた植物の種が雪越しに春の日光を感じて少しずつ上へと向かっていくような、しんどさと希望に溢れていた。
あとは、巻末にある研究者、訳者の解説が非常に面白い。私は本は読めても、文学は理解してこなかったのだとわかった。小説の分析がこれほど面白いと思わなかった。この方面は今年ちょっと深めていきたい。

4. 日本の歴史をよみなおす(全、網野善彦)

歴史における必然を疑うべし。
文字や貨幣といった文明初期のテーマから、女性や職能民の地位の変化、天皇と国名まで、探索対象は多岐にわたる。宮崎駿監督の世界観にも影響を与えたと言われている、故 網野教授の日本中世史。
中でも、ケガレの概念や同じ人間に対する差別が、生まれ醸成されていく過程についての仮説が興味深かった。
後半部分の冒頭にある「百姓」の再定義の話も面白い。高校生向けの教科書などにも載っている当時の職業別人口構成比で「70%超が百姓」という数値があるが、これが海沿いにある一つの村でもほぼ同様の状態とされていたことに目をつけ、「百姓」は本当に一般的な農民のことなのか?という疑問を提起している。
結論としては、「百姓」は必ずしも農民のことではなく、田を持ちながら海や山の恵みを得て生計を立てている人、廻船業(=貿易業)や金融業を営んでいる人も含まれており、いわゆる「水呑(百姓)」という身分にあった人(通例では蔑称とされる)が、実は「農業をしなくても豊かに暮らせる人々」だったのではないか、という話になっている。さらに面白いのが、この「百姓=農民」という概念が、農本主義をベースに国の仕組みを整えようとした政権の活動による結果なのではないか、という仮説。コメは古くから列島の共同体における祭祀・習俗と密接に関わっているため、年貢の基本にも据えられたし、コメ作従事者が士農工商の「農」の大多数であるように言われてきたのでは、という話だ。
ファクトフルネスの重要性が叫ばれる中で、根拠のある数値に必ずあたるという姿勢ももちろん大切だが、重要なのはその数値を見たときにどこまで思考を巡らせられるか、常識とされているテーマにどこの視点から疑問を抱けるかという点にあると理解した。
にしても日本史食わず嫌いだったなーという反省。授業で教わったのは高校2年まで&大学入試は世界史で進んだので、もうキーワードレベルの記憶しかない。けれど、特に記憶が曖昧になっている14世紀前後の動乱期に、今も残る習俗や、現代日本人の常識とされるような物事が始まっていることが多いとあり、改めて学びなおさなければと思った。
単なる時系列で出来事を暗記するのではまったく表層的になってしまうけれど、それぞれの演者(天皇や武士や政府側だけでなく、人口の多くを占めていたはずの百姓なども含めたすべての人々)からの目で出来事の起承転結を追っていかないと、見えてこないものなんだなあと。
あとついでに、長い時間をかけて文書主義を浸透させた政権を引き継いでいるはずなのに、どこのタイミングでこんなに文書管理の杜撰な国になってしまったんだろうなとも思った。
とりあえずは、日本史関連で面白い文献、募集中です。

5. 【STANDARD BOOKS】宮本常一 伝書鳩のように

スタンダードブックスって、随筆ベースのシリーズなんですね。
上の網野善彦さんの本で宮本常一の『忘れられた日本人』の内容が紹介されていたので、数日前に貸出予約をしていたのだけど、文喫でたまたまこちらを見つけ、SBシリーズの記念すべき初見作として読んだ。
網野さんの本でも、列島のいたるところのムラや辺境で暮らしていた常民の話は出てくるが、それはどちらかというと各地で出てくる新しい証拠からある層の人々の実態や変遷を追うような形だ。一方で宮本常一は日本中を歩いて現地のひとりひとりと言葉を交わした民俗学者であり、実在した(そしておそらく多くがこの世を去った)名もない民の言葉をすくい上げた人。よりミクロな個人の生涯を鮮明に描きながら、その目線はかぎりなく優しい。社会学にも通じるところがあるなと思う。
特に、高知県檮原村で出逢った盲目の乞食のおじいさんの話と、宮本自身の祖父や父母といった先代の人々の話が心に残った。
すでに失われて久しいと思われる民俗も多く、自分はもう直接は触れられないだろうとは思うが、こうして文字として残っているだけ、まだ幸せなのだと思う。

6. 無縁・公界・楽(網野善彦)

『日本の歴史をよみなおす』より10年以上前に世に出た著作。
全体的に微に入り細を穿つ、いかにも学術書という感じで、『日本の〜』ほどの読みやすさはない。しかし、後の作品で登場する様々な論説の萌芽が見られ、「この時の仮説が『日本の〜』でああいう形に結実したんだな」と感じる部分が随所にあった。
興味深かったのは、立場の弱い人(女性や下人など)がそれまでのすべての人やものとの縁を切り(=無縁の存在となる)最後に駆け込む先である「縁切り寺」のようなアジールが、中世日本の多くの場所に存在していたということ。寺院だけでなく、市や辻や山・河・津・浦といった外部環境も、無縁の場所という通念があったらしい。そこには、有縁の場所にはない独自のしきたりや一種の暗黙の了解があったと見られるが、数少ない史料から当時の空気感を蘇らせようとする研究者の努力と想像力に驚かされる。
巻末に本論への数々の批評に対する論評があるが、一筋縄でいかない問題に対して様々な立場の人たちが意見を戦わせ、新しい見地を拓いていく様子が見受けられ、深い感銘を受けた。優れた批評は相手を決して貶めることなくむしろ称揚しながら、学界そのものの視野を広げていくのだと思った。
批評・論評はSNSでも毎日目に入ってくるが、最近は相手をいかに論破するかということばかりに重点が置かれているように見える。姿勢ではなく、ファクトとイマジネーションの掛け合わせで相手を圧倒するような、そういう批評がもっと増えればいいのにと思う。

7. ナウシカ解読 -ユートピアの臨界-(稲葉振一郎)

今季、2冊めのナウシカ本。
赤坂憲雄版とはかなり方向性が変わり、アカデミックな印象。
特にハンナ・アーレントとユージック、哲学をもつ2人の言説を絡めながらユートピアとは何かを探る部分は難しくも非常に面白い。
「青き清浄の地」に生まれる予定だった人間の「卵」を地獄の業火で焼き払ったことで、計画された人類の未来そのもの、すなわちほぼイコールで自分たちの子孫の未来をもぶち壊したということに、今更ながら気づかされた…(遅い)
宮崎駿監督が描くユートピア(ナウシカにとっては、存在は感知できても到達することはできない、もはや概念でしかない楽園)は、読者である私に安住することを求めない。それどころか、ナウシカでは約束された未来以外の選択肢を、血を吐きながら探させるという、ひたすらに戦いと連帯が要求される過酷な世界を描く。これを一つの物語の類型としてユートピア文学と言い切ってしまうことは、あまりに虚しい、時間の無駄である。
まだ私には言葉が足りない。ナウシカについてはいつか自分の言葉で話せるようになりたい。

8. 異形の王権(網野善彦)

『日本の歴史をよみなおす』『無縁・公界・楽』に続き、網野先生に従いて「異形」の世界を垣間見てみる。タイトルの「異形の王権」とは鎌倉幕府を倒し南北朝時代へ導いた後醍醐天皇のことだが、その時代に到るまで市井の中に普通に在った異類異形の人々にも目を向け、日本中世における「異形」の扱いがなだらかに変化していき、ついには天皇その人をして倒幕・南朝樹立という異常な行動に走らせたさまを追っていく。
すぐれた日本史とはけっして平面的な出来事の羅列に終始せず、現れる有名無名の人々の思想と行動を一枚の絵巻物語のように言語化してくれるものだと知る
明確な境界線をもっていなかった聖と賎のふたつの概念が別れたのが南北朝以降のことだという。それまで、聖なるものとケガレは両者ともに「異常でない=ケ」の世界の反対側にあるものとされた。そして聖の側に立っていた職能民・河原者・遊女・その他数多の名をもつ人々が、ある一人の異常な天皇による動乱の時代を経て、被差別階級に貶められていく。
古来から何百年何千年も続いてきたかのように思える習俗や考え方が、実は本当にすぐ近くの過去で偶然あるいは恣意的に生み出されたものではないか、ということを考えるきっかけになりそう。
最後に、鶴見俊輔氏による解説より。

戦争中に、日本の伝統として、すわることや米の飯を食うことがやまとだましいをつくるもととして強調・強制されていた時に、民俗学者柳田国男は、その伝統とはいつからの伝統かと問いかえした。それぞれの地域にあるくらしかたを記述して旅して歩いた民俗学者宮本常一は、自分の記述する日本の民俗を、アジアから北アメリカ、南アメリカにむかう大きな移動の旅の中に位置づけ、くらしかたの記述が、明治国家のきめた日本国民のくらしかたの正統をはるかにこえる過去と未来とを指さすことを感じていた。天皇制の研究もまた、事実をいつわらずに見ることをつみかさねてゆくならば、戦時の超国家主義とははるかにはなれたところに、私たちをつれてゆく。こうしてもっと自由に天皇を見る道がひらけてくるのではないか。その方向を、『異形の王権』は、示唆する。

9.  あわいゆくころ −陸前高田、震災後を生きる−(瀬尾夏美)

前々から、いつかは手に取ることになるだろうと思っていた。新しいことを知るためだけでなく、より具体的な個の出来事を思い出し、伝えていくために。
幼い頃、祖母に戦争のときの話をよくせがんでいた。幸いなことに空襲をほとんど体験しなかった祖母にとっても、生と死の境目はあまりに身近に、グラデーションのようになってそこにあった。自分は、その中で祖母が生き残ってくれてよかったという安堵を常に持ちながら、もうこのような形でしか語られない静岡の小さな街への空襲を追体験していた。
震災から9年という区切りも、そこで起こる変化はあくまでオフィシャルで人為的なものでしかなく、多分、その地に生きて暮らす人にとっては、3.11も今日も等しく「あの日から⚫︎⚫︎日」という一本の延長線上にあるということ。
彼らがその只中に放り込まれてしまった辛さは体感しようもないけれど、何かを忘れてしまうことの怖さならわかる。その喪失感が、様々なエネルギーを生み出しているということも。
著者が部外者の立場に甘んじないで表現を模索し続けたことで、見えてきた地平があるのだと思う。個の表現が小さなつながりを生み、新たな語りとそのための場を創り出した。
最近「アウトプットしないとインプットのスペースも生まれ得ない」ということをよく考えているのだけど、芸術家の表現もそうなのかなと思った。

10. 風土 −人間学的考察−(和辻哲郎)

文化人類学、気象学、歴史学から哲学に至るまで、豊富な智慧をもとに書かれた風土と人間に関する考察。タイミング的にもボリューム的にも「やっと読んだ…」という感じ。一文一文に込められた内容と示唆が膨大で、久しぶりにヘビーな読み応えを感じた一冊。
群れとしての人間が、負うてきた歴史のみならずその土地の風土に大きく作用されて形成されているというのが主旨。そもそもこの本は昭和の初めに書かれたものなので、書いてあること(特に、国ごとに人々の特性を型に押し込むような記載)については全てが正しいとは思わないし、モンスーン的風土の一例として取り上げるなかで割と「日本って素晴らしい」的な優越感が漂ってきたりするので、今現在の正しい(と思われる)情報に置き換えて考えてみる必要がある。
とはいえ、その国が位置する気候帯や空気の恒常的な状態によって、人間の方の行動、思考、傾向に違いが出てくるというのは説得力があるし、人類学の面白みだなとも思う。ギリシアがなぜ文化の発祥地となったのか、そしてその文化レベルをついにローマが超えられなかった理由はなんなのか、あと日本人の「家」とへだてに関する思想はかなり興味深い。明るい気候のもとでは視覚がより繊細に発達し、陰鬱な気候のもとでは聴覚がより鋭敏に発達するという話も。
一番覚えておかなければいけないな、と思ったのは以下の部分。

人間が己れの存在の深い根を自覚してそれを客体的に表現するとき、その仕方はただに歴史的にのみならずまた風土的に限定せられている。かかる限定を持たない精神の自覚はかつて行われたことはなかった。ところでこの風土的限定は、ちょうどそれに置いて最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのである。比論を持って語るならば、聴覚の優れた者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。(中略)ちょうどそのように、牧場的風土においては理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光の最もよく輝くところから己れの理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己れの感情の洗練を習うべきではなかろうか。風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点に置いて我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。またかくすることによって我々は風土的限定を超えて己れを育てて行くこともできるであろう。

(風土によって形成された)卓越した特性をどの人間も等しく持っているという前提のもと、「良き人間として生きるために」良いなと感じるところは他に学びお互い身に付け合っていけたらいいよねと思う。
今、コロナに対して各国がそれぞれ独自の対応を取っているけれども、自分の属するところの方針が正しいのか混乱したり、公開されている情報や他の国への思いや自身の巻き込まれ度合いによって、てんでんばらばらに切実な意見が表明されたりしている状況を目の当たりにしている。こんなに簡単に自分たちの社会が分断されてしまうというのはしんどいけれども、目に見えない(一方で生き物として着実に増殖し変化する)相手に対して、明確な一つの対処法を求めることにはあまり意味がなく、地道に効果のありそうな選択肢を安全かつ迅速にみんなで踏んでいくしかないのだろうと思っている。人類を人類として持続させるという公共の視点がものすごく重要な気がする。それを思うとき、風土と歴史の中に文化が生まれ育っていく様子を見た和辻の視点に、少しだけ近づいたかなとも思った。
何はともあれ、日本を含む世界中で一刻も早く日常が戻ることを願ってやまない。


◆その他(ビジネス書など)
・ザ・モデル

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