未来の物語とデザイン─Z世代の語り過多、語り方
スマートフォンが登場した2010年代、我々の暮らしの大部分が手元におさまりつつある。電話はもちろん、新聞はネットニュースに、テレビは動画サイトに変わっていった。もちろんこれらはパソコンでも見られるが、スマートフォンは端から「持ち歩けるパソコン」との呼び声もある。
1990年代後半〜2010年代初頭に生まれた若者ら、Z世代。彼らは同時にデジタルネイティブと呼ばれ、その最大の特徴は、バブル景気を知らない代わりにインターネットを当然のライフラインだと自負していることだ。
その結果として、モノよりもコト(体験)を重視する性質が指摘されている。
しかし、その実際のところはどうだろうか? 近年、「映画の倍速視聴」が話題になったのは記憶に新しい。
彼らにとって、物語はあくまでツールでしかない。話についていくためにしろ、個性や称号を手に入れるためにしろ、彼らは最も効率化された方法で、すべての作品を網羅しなければいけない。物語は体験するものではなくなりつつある。
いや、それよりも根深い表現を用いれば、「体験」は「体験するもの」ではなくなりつつあるのである。
若者がデジタルネイティブと呼ばれ、近年多くの企業や個人がデジタル化を推進している背景には、一体どのようなものがあるのだろうか? そして、それにより生じている「『体験』は『体験するもの』ではなくなりつつある」という問題は、一体どのようにして解消されるだろうか?
ここにZ世代マーケティングとそれを取り巻くデジタル化の波を考察し、現代における物語の在り方の議論に帰着する一連の文脈を提供する。
デジタルとは何か
簡潔に「デジタル」についてまとめてみよう。「デジタル」は「アナログ」と対比して、それぞれ「離散」と「連続」で形容される。つまり、それぞれが離れ離れになっているのは「デジタル」、連続して隣り合っているのが「アナログ」である。
例として、時計が挙げられることが多い。デジタル時計では、1秒の次は2秒、そのつぎは3秒……といった具合で時刻を表す。画面上に数字が表示される時計などは多くの場合これであるだろう。他方、アナログな時計では1秒と2秒の間が存在する。秒針は絶え間なく動き続け、その多くの時間は数字と数字の間を指しているのである。
さて、デジタル化はなぜ進んでいるか? ここでは、アナログとの比較の中でデジタルの持つ特性を、以下の三点に整理して話を進めることとしよう。
1「複製・転送が容易」
このことはイメージしやすいだろう。
アナログなものは基本的に現物限りである。大量生産品についても、ひとつひとつは細かな個体差を持っているものだ。“正にこれ”を誰かの元に届けようと思えば、車や電車、船や飛行機を用いる必要がある。
一方、デジタルデータは特定の数字を言い切っているから、同じ数列を再現しさえすれば良い。だから複製も簡単だし、ウェブを通して数字の羅列を送れば全く同様なものが向こう側でも再現できる。「複製」と「転送」は、デジタルにおいてある程度近い意味を持つと言えるだろう。
2「指定が容易」
デジタルデータにおいて全く同様の文字列は全く同様のものを意味するし、意味してしまう。これは言い換えれば、デジタルな世界では全ての相違を明言しなければいけないということである。
パソコンでデータの管理をしたことがある読者ならば、こんな経験があるだろう。「1870」と名前をつけた写真を保存しようとしても、既に「1870」が存在する場合は保存することができない。ここでは「元の1870を削除して、新しく1870を保存する」か、「新しい1870の名前を別の名前に変える(1873など)」か、あるいは「元の1870が保存されていないエリアに新しい1870を保存する」といった選択を余儀なくされる。
デジタルでは、全ての記号には意味があり、全ての記号には一切の被りがない。先程の例ならば、1870というファイルはひとつのフォルダ内に常に一つしか存在しないはずだ。複製・転送された同一データであっても、それぞれが唯一のキーによって別物であることが証明されており、どれもが唯一性を持っている。そのため、さまざまな異なるデータの集合体であるデータベースを作ることが可能となり、任意のデータを自由に引き出してくることができる。
余談だが、「複製・転送」のアナログについての記述にはある大きな仕掛けがある。“大量生産品もひとつひとつは細かな個体差を持っている”という部分は、一般的な見解とは言えないだろう。大量生産品は、厳密にはそれぞれが異なっているにもかかわらず、一見すると全く同じ商品である。そのため、市場では同一のものと見做されていることに気付いて欲しい。この点、デジタルがはっきりと「同じ」「違う」を言い切るのに対し、アナログはなんだか「同じっぽいし、違うっぽい」ものであるとも言える。
3「分類が容易」
最後に、「分類が容易」である。
上述の通り、デジタルでははっきりと白黒がつく。2は2であり3は3、黒いものは黒く、白いものは白い。逆に言えば2は3ではないし、3は2ではない、黒は白ではないし、白は黒ではない。それ故に、すべてのデータに個別性があり、この個別なものを自由に複製・転送できる。
アナログな場合、こうした分類は困難だ。2.01という数字があった場合、数字に厳密である必要のないアナログ世界では、なんとなくこれを2と見做して扱うことができるかもしれない(時計の針が2から少し進んだ状態をイメージして欲しい)。では2.49はどうか、2.98はほとんど3だが一の位は2だ、などといった問題が生じるだろう(2時58分のときの短針は限りなく3に近いだろう)。これが少数第二桁までの世界であれば、2.01は2.01の世界、2.49は2.49の世界がある。しかし、それでは2.00199はどうなるのか、など堂々巡りだ。
ここで、2018年夏に登場した「東京ディズニーリゾート・アプリ」を例にとってその様子を確認したい。このアプリでは、東京ディズニーリゾート内で散逸していた複数のサービスを統合し、ひとつのアプリケーション上で行えるようにしている。「デジタルガイドマップ」「ディズニーeチケットの購入・表示」「ショーの抽選やレストランの事前予約」「ホテルのチェックイン」「ショッピング」を提供していたアプリは、その後以下のような変遷を辿る。
入園チケット、ガイドマップ、ファストパス、あるいはショー抽選の当選結果などはこれまで紙面で提供されてきた。また、ホテルのチェックインや買い物は、言うまでもなく現地で直接やりとりする営みであった。
しかし、入園チケットが“デジタル化”されてから(すなわちQRコードが印刷された紙面ではなくデジタルデータそのものを「入園チケット」と呼称するようになってから)、これらの紙のサービスはスマートフォンのアプリ上にも頻繁に登場するようになった。入園チケットに直接紐づけられていたファストパスやショー当落などのデータはいずれもアプリ上に移り、レストラン予約にもアプリが選択肢として加わった。
以前であれば、チケットの日付変更はチケットセンターなどに出向く必要があったが、スマートフォン上のチケットは簡単に二、三分で日付を変えられる。また、ファストパスやレストランの予約も同様に、簡単にキャンセルが可能になった。そして、直近に追加されたグループ機能では、同じ日にディズニーランド・シーを楽しむ仲間同士のアカウントを連携することで、ファストパスやレストラン予約を同じ時間に揃えて取得したり、全員のスマートフォンからアクセスできるよう共有したりできるようになった。ここではいずれの場合も、「複製・転送」の手間が省かれ、「指定」や「分類」の際にデータに直接アクセスできるようになったのだ。
そして、アプリ内の機能「東京ディズニーリゾート・ショッピング」では、東京ディズニーリゾートで販売されている商品をオンライン上で購入・決済し、自宅へ郵送することが可能となった。これにより、現地に存在するショップを訪れることなく、買い物を完結させることが可能となった。
これこそ正に「デジタル化」であると言えるだろう。商品ひとつひとつを「分類」し、来園者が自由に「指定」できるようにした。そして、「指定」された商品はデジタルデータとして処理され、指定の商品が簡単にお客様のもとへ届けられるようになった。
「デジタル化」という「リアリズム」
ところで、デジタルと聞いて真っ先に思い浮かべるものは何だろうか? これまで話してきたようなスマートフォンやアプリケーション、インターネット通信やビッグデータ、AIやシンギュラリティなどまで思索が及ぶ読者もいるかもしれない。
しかし、本来的にデジタルとは「離反性」であり、スマートフォンやコンピュータに限らぬ非常にささやかな「ものの捉え方」の名前である、としたらどうだろう。デジタルは「割り切り主義」として拡大解釈できる──こうした前提に立ったとき、企業が紙をPDFに変えることだけがデジタル化なのではなくなる。ここでは更に広義に「割り切り主義化」として話を推し進めていく。
そしてこれは、ある意味でリアリズムであると言えるだろう。
「ある意味で」と注釈をつけたのは、従来のイメージから考えればかなり斜に構えた捉え方でこの言葉を解釈する必要があるからだ。デジタルとは上述の通り、物事を数字によって表示・処理することを指しており、現実世界の不明瞭な繋がりとは相容れない。そういう意味で、どこかで恣意的な振り分けを求められるデジタルと現実を最重視するリアリズムは、どこか同一でなく見える。
しかし一方で、「デジタル化」にしろ「リアリズム」にしろ、現実に観測可能なもののみに目を向け、逆に曖昧なものを切り捨てるという側面がある。だから、ここでのリアリズムは「徹底的な目的意識主義」とでも言って良い。
そういった文脈を与えられれば、冒頭に話題に出したZ世代とデジタルの親和性の高さは、上述の意味での「リアリズム」が双方を取り持っていると言えるのではないか。
彼ら(2002年生まれの私もこの世代に入るので、「我々」と言っても良いが、角が立ちそうなので「彼ら」を用いたい)は上述の通り、将来に対して悲観を通り越して諦めの境地に至っている。今の日本がこのまま存続するとは思っていない。
そして、この考え方は消費の動向にも強く影響している。
こうした現代の消費の形を端的に映したビジネスモデルも存在する。中華人民共和国でGoogle支社の社長を務めていた李開復氏により提唱されるOMOは、Online Merges with Offline即ち「オンラインとオフラインの結合」の頭文字を取ったもの。これは、ウェブ上の購入と実店舗での購入の区別を完全に撤廃する考え方である。
ウェブ上から誘導された客は実店舗で商品を実際に体験することができるし、反対に実店舗で商品を見かけた客が、オンラインストアでそれを購入したりもできる。Z世代はこのようにして、商品に対する理解を実店舗で深める必要性を認めていながらも、商品を最安値で購入するためにインターネット上を彷徨うのを当然のこととしているのだ。
先に述べた「東京ディズニーリゾート・アプリ」の例を改めて見てみよう。東京ディズニーリゾートを訪れたゲストは、現地のアトラクションを体験するためにオンライン上でファストパスを取得できる。あるいは、現地のショップで商品を確認し、オンライン上で商品を購入、自宅で商品を受け取ることができる。こうした点で、OMOの考え方に即していると言えるだろう。
自分の人生を自らカスタマイズする
さて、「欲しい商品を最安値で手に入れる」為に手段を選ばない傾向のさらに手前に立ちはだかるのは、「欲しい商品」をいかに絞るかという問題である。
そこで判断基準になるのは、Z世代が大事にしているもう一つの概念としての「個性」である。
しかし、ここでいう「個性」の意味もまた、慎重に判断されるべきであろう。SNS上において、個性は「何に対してリプライしているか」「何をシェアしているか」「何を投稿しているか」の集合体として認識されるからである。
こうした社会において彼らが重要視する羽目になるのは、日常における一挙手一投足が自身を形成しているという意識である。
彼らは常に自身の趣味・嗜好を「SNSのログ」「カメラロールの写真」「ブックマーク」などという形で記録し続けており、それを後から眺めることで、自分がどのような人間であるのかを自覚する。そして、それを基に「理想の自分」「なりたい自分」を逆算し、ハッシュタグのように属性を付け足していく途方もない作業を始める必要があるのだ。
さて、こうした社会の登場は、「エシカル消費」というワードによっても裏付けられている。消費者庁の平成29年の説明(『エシカル消費とは | 消費者庁』)では、「エシカル消費」とは「消費者それぞれが各自にとって社会的課題の解決を考慮したり、そうした課題に取り組む事業者を応援しながら消費活動を行うこと」を指している。また、日本の消費者界隈で、同表現の「認知度は低いが、基本的な概念は理解」されているとの見解を示している。ethical(エシカル)とは、「倫理的な」「道徳的な」様子を表す英単語であり、同庁は「倫理的消費」と呼んでいる。
同書の著者である速水健朗氏は、食の志向を分析してそこから消費者の政治思想を紐解く「食のマトリックス」を作成した。
我々がSNS上に何か購入した商品を掲載するとき、時にはそれが政治的表明になってしまうのである。そのことを、知ってか知らずかZ世代は消費に関して非常にエシカルであるとみなされることがある。労働環境、地球環境、貧困問題を憂慮した商品や、インクルージョンや問題解決に積極的な企業を応援することは、Z世代に共有された現実主義とも符合する上、同時にSNSの台頭とも相性が良いのだ。
最早「体験」は「体験するもの」ではない
さて、ここでディズニー・ファストパスの名前をもう一度出してみることにしよう。
かつてのディズニー・ファストパスは、東京ディズニーリゾートのそれぞれのアトラクションの入り口近くに存在するファストパス発券機から発券する必要があるものだった。そして、それぞれのファストパス発券機は独自の物語を持っており、発券するという営みや発券所自体に意味があった。
例えば「タワー・オブ・テラー」と「トイ・ストーリー・マニア!」はどちらも、20世紀初頭のアメリカ合衆国東岸を舞台にしたアメリカンウォーターフロントに存在する。両者のファストパス発券機はどちらも正面と側面にメッセージボードがあり、“EMPIRE TICKET CO."という架空の企業が発券機を管理しているという設定になっていた。ゲストは建物の入り口でチケットを手に入れ、それを握ってホテルツアーやシューティングギャラリーに向かうという一連の流れを体験することになる。
これらを通してゲストは、アトラクション体験に対してある種のインセンティブを得ていた──あるいは物語のオープニングを果たしていたと言えるだろう。
ところが、スマートフォン上で遂行されるファストパス発券はこれらを全てスキップしてしまう。デジタル化されたファストパスにとって、最終目的は「ファストパス取得」であり、その間にある体験は存在しないに等しい。
ショップに関しても完全に同様だ。東京ディズニーリゾートのショップ=お土産店は、それぞれの店舗の成立の過程が物語として設定されている。そのため、お土産店で商品を購入することは、大きなエンターテイメントのひとつとして成立していた。時空を超えた未来のマリーナ・ポートディスカバリーのショップと、ゴールドラッシュを過ぎたカリフォルニア・ウエスタンランドのショップでは、販売している商品は全く異なっていた。なぜなら、異なる場所に建設された異なるショップであるからだ。
しかし現在、最早、どのショップでも同じ商品が販売されている。そういった文脈で登場したのが、東京ディズニーリゾート・アプリの目玉機能の一つである「東京ディズニーリゾート・ショッピング」なのである。
「アトラクションへは実際に乗らずに、YouTubeで鑑賞するのがおすすめです」と言えば明らかに異常な事態であると分かってもらえるであろう。そうした事件が、ショップ界隈では生じているのだ。
一見すれば、このことは大きな矛盾を孕んでいるようにも見える。なぜならば、先に紹介したOMO戦略にも、Z世代の特徴の中にも、「“モノ”より“コト”主義」が含まれていたはずだからだ。「東京ディズニーリゾート・アプリ」がZ世代に目配せしたものか否かの検討は別としても、この時期にアプリ化に踏み切るからには、メインユーザーとして彼らを想定するのはそう違っていないだろう。
こうした矛盾が発生するのは、ある大きな落とし穴のせいだろう。彼らは「コト(体験)」を「重視」していて、この点で体験と自己の主従が完全に入れ替わっているのである。
OMO戦略を採るショップでは、客はネット上で見た商品を実店舗で購入したり、実店舗で触った商品をネット上でよく考えて購入したりできる。しかし、いわゆる「体験型店舗」や「リテールテイメント」と呼ばれるような、客が商品を体験することを前提とした店舗にやってくる客は、多くの場合、商品を体験することを目的としてやってくる。
ファストパス発券やショップでの商品購入を目的としていた場合、つまり従来、我々は知らず知らずのうちに物語への導入を受けていただろう。ここでは体験が先に存在し、我々はそこに誘い込まれる形になる。しかし、現在では、そこにある物語が消滅したことにより、ファストパス発券や商品の購入は単にタスクの一つとなってしまっている。
本noteで毎度お馴染みの『ディズニーランドの社会学─脱ディズニー化するTDR』で、新井克弥氏は「明確な目的」という言葉を使用している。
これは同時に、冒頭に示した「映画の倍速視聴」を言い換えたものでもある。彼らは、作品を「コンテンツ」として「消費」し、「摂取」することを目的としている。そこでは、情報化された(デジタル化された、と呼ぶのは尚早か?)物語をただこなしていく作業が展開されていく。
現在、体験とは自分が意図的にするとかしないとか選択できるものになっている。それは、「体験」することそのものがSNS上での宣伝材料の一つと化しているからである。言うなれば、「モノよりコト」主義とは、両者がSNS上ではほとんど同列に扱われるということの言い換えに過ぎないのではなかろうか。
更に拡大して考えよう。消費活動に限らず、人間の振る舞いが「デジタル化」によってどのように変化したのか、それは一言で表せる。
インターネットが登場し、世界が体系化され、整理され、「デジタル化」していった。その影響で、すべての物語や体験は立項され、データベース化される。体験は「選び取る」ものとなる。
「物語」とは何か?
さて、それでは、「『体験』が『体験するもの』ではなくなりつつある」とは、どういうことであろうか? そして、「体験するもの」としての「物語」とはどんなものであっただろうか?
ここで、いくつかの作品を例に挙げつつ、物語と我々の触れあう点を探って行きたい。
物語を辞書で引くと、多くの場合は「話すこと」の次に「その内容」がくる。物語とは即ち「物語り」であり、語るという営みそのものを意味に含む。
であるからして、ほとんどの物語が我々に触れるとき、あるいは我々が物語に触れるとき、それが事実であるか虚構であるかに関わらず、何らかの「語り方」の形式の中におさまっている。いかなる場合にも、彼らは何らかの形で物語を「語る」必要がある。
ここでは、広義に用いられる物語を「コンテンツ」とそれを語るための「メディア」に分けて説明したうち、特に後者の話をしている。そのため、物語がいかにして発露するかという話であって、直接的な内容面には全く触れない。
丁度、お酒を飲むということを想像してもらえればよいだろう。「どのようなお酒が美味しいか」という話と、「どのようなグラスで飲んだら美味しいか」という話と、「どのようなお酒をどのようなグラスで飲んだら美味しいか」という話は全て別物だ。ここで、お酒を「コンテンツ」に、グラスを「メディア」に置き換えてもらうと、私が今ここに書き綴っているのは後ろに挙げた二つであると言える。
ちなみに、ここでの「コンテンツ」は、先に紹介した記事で指摘されたような作品全体を意味してはいない。あくまでcontain「含む」ものとしてのcontent「内容物」であるので、どうか誤解なきようお願いしたい。
また、メディアは広く「映像メディア」「音声メディア」などの用い方が可能であるが、ここでの「メディア」とはあくまで「メディアミックス」等の文脈で用いられるメディア──ある種のマス・メディアであることをご確認いただきたい。
さて、「コンテンツ」ではなく「メディア」の方を更に分解していくと、これは枚挙に遑がない。「小説」「ラジオ」「漫画」「映画」「アニメ」「ドラマ」など……。近年では「ゲーム」「テーマパーク」もこれに追随していると言うことができるだろう。
例えば「進撃の巨人」という作品を例にとる。元々の「進撃の巨人」は、諫山創氏による「漫画」形式の物語として誕生した。その後、「アニメ」化して同様のストーリーが再び語りなおされた上、一部は総集編として「アニメ映画」化している。それに加え、キャラクターを融通させたアナザーストーリーとして「実写映画」化しており、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンでは「テーマパーク」のアトラクションやレストランでその世界を覗くこともできる。
これらは同一の物語を別のメディアを用いて語ったものであり、それ故に表現手法や最終的な成果物には大きな違いがある。
「進撃の巨人」は、人類を食う巨人の世界を描いたダークファンタジー作品である。巨人が蔓延る世界に壁を築き、その中で束の間の平和を謳歌していた人類だったが、ある日壁が破壊されたことにより遂に彼らと対峙しなければいけなくなる。巨人に対抗すべく、本作には「立体機動装置」という装置が登場する。これは、腰に装着した機器から射出されるフックを建物の壁面に突き刺し、次いでワイヤーを巻き取ることで推進力を得る、対巨人兵士の必需品である。これを使えば、空を飛ぶように移動し、巨人の背後にまわることができるというわけだ。
しかし、漫画の世界で、立体機動装置を使用して街中を自在に飛び回る兵士たちの描写は、あまりにも複雑で難解であった。
他方でどんでん返しの連続する物語の急展開は評価が高く、グロテスクなビジュアルの引きもあって、「進撃の巨人」はアニメ化の運びとなる。シーズン1が公開されるとその映像は神作画と称され、美しく爽快な戦闘シーンが瞬く間に話題を呼んだ。
このアニメ版では、「立体機動装置」を使って登場人物ががどのように動いているかがよくわかるだろう。
「漫画」にしろ「アニメ」にしろ、両者の「進撃の巨人」が語る内容はほとんど同じである。しかし、「アニメ」で語る際には「漫画」では表現しきれなかったコマとコマの間を補完し、逆にいくつかの細やかな描写が省略された。手描き文字で表現されていた効果音やキャラクターのセリフは引用されつつ、音声データとなっており映像データではなくなった。
更に、これがユニバーサル・スタジオ・ジャパンでは、VRゴーグルをつけて乗車するジェットコースターのマッピングとして用いられている。
これは、巨人襲撃で壊滅的な被害を受けた「トロスト区」から、兵団の助けを借りて脱出する独自の物語である。VRゴーグルは暗闇で先を照らすためのゴーグル、ジェットコースターのライドは兵団のハンジ・ゾエが特別に開発した馬車という設定になっている。また、映像は3DCGで構成されており、「漫画」「アニメ」いずれとも異なる。
「進撃の巨人」のメディアミックス、あるいはそこにおける「立体機動装置」の描かれ方から確認することができるのは、たとえ同一の物語や世界観(すなわち「コンテンツ」)を語っていたとしても、その内容の最終的な作品としての見栄えは、語られ方(すなわち「メディア」)の影響を多分に受けるということである。
「漫画」で初めて立体機動装置に触れる読者と、「アニメ」で見る観客では、そのイメージに一定の差異が生まれることが予測できるだろう。また、「テーマパーク」で初めてその存在に触れる人にとって、立体機動装置は益々臨場感と速度感を持ったものとして感じられるだろう。全く同じものが、捉えようによっては大きく姿を変える。それが物語の形式、「メディア」が重視される大きな理由である。
「物語」はいかに語られるか?
さて、私が前段で「立体機動装置」を例に挙げたのは、単にそれが一例として優れているから以外にもうひとつの理由がある。それは、「メディア」の歴史とはそれ自体が「立体的に物を動かす」ことを目指した歴史であると言えるからである。
「メディア」を分析する方法は色々ある。もちろん、それぞれの作品を既に挙げたような「漫画」「アニメ」「ゲーム」などに一つひとつ当てはめて考えていくことも可能かもしれない。しかし、それでは根本的な問題解決にはならないだろうから、ここでは「メディア」自体の分類方法として「五感」を用意し、特に「五感の数」と「五感の現実性」の軸において分析する。
我々は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感により物事を認識している。この感覚が誤魔化されてしまえば、現実の世界で起きていることが仮に本当に起きていたとしても認識できないと言うことは往々にして起こる。前段で紹介した「進撃の巨人 XRライド」は正しく視覚をジャックしている。ただしこれは、視野内に漫画の誌面が映っているとかアニメの映像が映っているというのと違って、完全に視野角全てを覆っているから、そういう意味で特別である。
先ずは、「五感の数」による分類について考えてみる。
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