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「バケモノの子」:心の闇は誰にでもある

心の闇。ぽっかり空いた心の穴。

それがこの映画の主題だと思う。

九太(蓮)は、幼少期に母を交通事故で亡くし、父は音信不通に。孤独に苛まれて泣いていた。

そこに手を差し伸べたのがバケモノの世界で生きる熊徹。強さを求めて熊徹のもとで修行することを決意したキュータは熊徹とともに切磋琢磨し、日々成長していく。

しかし、バケモノの世界で人間は危険な存在だった。

なぜか。

人間はみな心の闇を抱えていて、その闇に飲み込まれたとき、とてつもなく恐ろしい存在になるからだという。

九太は心を突き合わせられる大切な仲間に恵まれて、強さを得た。
それでも、心を許せるはずの父親にみずからの過去を勝手に辛いものと決めつけられ、否定されたとき、そして熊徹という大切な存在を失いそうになったとき、心の闇に飲み込まれそうになった。

九太と同じくバケモノの世界に紛れ込んだ一郎彦は、自分のアイデンティティや存在価値を見失いそうになったとき、心の闇に飲み込まれてしまった。

そうだ。人間は不安定な存在なのだ。強くなったように思えてもそんなに器用に自分をコントロールできないものなのだ。

九太や一郎彦だけではない。楓が言うように「誰しも心の闇を抱えている」。

九太と一郎彦の場合、家族との離別を体験している。彼らと同じく心の闇を抱えていた楓は親に認められるためにひたすら頑張ってきた。そうした過去や彼・彼女らを取り巻く環境が心に巣食う闇となる。

その闇の深さは人それぞれであっても、その深さは他者が測れるものではない。極めて主観的なものだ。たとえ些細なことだと本人が思っていても深い傷になりえる。

では、心の闇に飲み込まれそうになった九太と、心の闇に飲み込まれてしまった一郎彦。その違いは何だったのか……。

九太と一郎彦の違いにこそ、「人間の抱える闇―それはおそらく孤独と欲望ではないかと思う―にどう向き合ったらよいのか」という問いに対するヒントがあると思う。

まずひとつは、「ありのままの自分を受け止めてくれる」と信頼できる存在がいるかどうか。その人は真摯に自分に向き合ってくれる人だ。お互いにありのままの自分を解放し合えることが、心の安心安全を担保する人間関係に必要なのだと思う。

九太にとっての熊徹であり、その仲間たちであり、楓。一郎彦にとってはバケモノの世界の家族。しかし、心の闇が深ければ深いほど、隠し事や嘘には敏感になるのだろう。一郎彦の父となった猪王山は一郎彦の不安に向き合う時間が十分でなかったのかもしれない。

次に自分の心の闇を認識しているかどうか。九太や楓は自分の心の闇が何に起因するのか。それらがいつ心の穴を広げる脅威になるか分からないということを認識していたように思う。自分が不安定な状態を知ること、自分の感情をメタ認知することは心の闇に支配されないために欠かせない。

それから、心の闇に支配されているかもしれないと気づかせてくれる存在も大切だ。冷静な自分を思い出させてくれるキーアイテムやキーパーソンとも言える。本作品では楓がお守りにしていた本の栞や、九太にとっての熊徹や楓の存在がこれにあたる。自分の意思をコントロールすることは難しいからこそ、自分以外の存在に頼るのだ。

以上3つは、人間がみずからの心の闇と向き合うときに普遍的に必要とされていることだと思う。もちろん、他にもいろいろあるのだろうけど、とりあえず最も印象的だったことを3つ。

わたしは仕事柄、依存症や病気に苦しむ人や、いわゆる「社会的弱者」と言われる人、そうした人々と向き合ってきた人たち、精神科医などのお話を聴くことがある。そうした人たちの話を思い出させる、人間のリアルを描いた映画だった。

花を買って生活に彩りを…